闘茶

闘茶

闘茶はお茶を飲んで種類や産地などを当てる遊びです。

ここでは日本と中国での闘茶の歴史や遊び方などについて紹介します。

闘茶とは

闘茶(とうちゃ)とは、お茶の種類や産地を飲み比べてそれを当てる遊芸・遊び・ゲームのことです。景品を賭けることも多く、一種のギャンブルでもありました。

中国では宋代に流行しており、日本には鎌倉後期までに伝わっていました。

闘茶の遊び方

いろいろな遊び方があったようですが、代表的な遊びとしては「本非茶」と「四種十服茶」があります。

「本非茶」は本茶と非茶を10回飲んで判別します。本茶には「栂尾茶」(とがのお ちゃ)が用いられ、非茶はこれ以外の産地の茶です。ただ南北朝期(1336~1392)の途中から「宇治茶」も本茶となりました。

「四種十服茶」は4種類の茶を10回飲んで判別します。

闘茶の歴史

闘茶は鎌倉時代から始まり、現代まで伝わっています。ここでは時代ごとの闘茶を紹介します。

鎌倉時代の闘茶

最近の研究では鎌倉時代の後期から東日本を中心に闘茶が流行していたのではないかと言われています。

たとえば『太平記』(たいへいき…1318~1368年の50年間の軍記物語)に、鎌倉軍が楠木正成の城を兵糧攻めにする間、暇つぶしに「百番茶」を行ったとあります。百番茶とは1ゲーム10服を10ゲームすること。戦争の合間にお茶でゲームをするとは優雅な?時代です。トランプをやっているような感覚なのでしょうか。

この他東北地方からも闘茶関連の遺物が出土しています。

室町時代の闘茶

室町時代初期の南北朝時代には闘茶は京都を中心に流行しました。

その後闘茶は正月の慣例行事など社交的な遊芸となっていきます。

室町時代の茶会や喫茶について書かれた『喫茶往来』(きっさ おうらい)には、闘茶を行う茶会の様子が描かれています。それによると…

最初に3回酒を飲み、その後麺料理を食べ茶を1服。その後海や山の珍味を使った主菜が出され、最後に果物が出ます。食事がすむと客は庭に出て散策し、その後「茶亭」に集まって闘茶が始まります。客は菓子を食べながらさまざまな種類の茶を飲み比べ、それが終わると部屋から茶道具を片づけ、再び酒を飲んで歌や踊りに興じると書かれています。

安土・桃山時代の闘茶

その後闘茶はいわゆる「茶の湯」の中に取り込まれていきました。

たとえば1581年に利休の弟子による茶会で抹茶の飲み比べをしています。またこの時代闘茶に使われた茶葉はすべて「宇治茶」でした。

江戸時代から現代にいたる闘茶

「茶の湯」に取り入れられて闘茶は「茶道」の中に定着していき、地方の村などでも行われるようになっていきました。

明治以降になると闘茶では抹茶だけではなく煎茶や玉露も使うようになりました。

また茶の産地では今も「茶歌舞伎」という名前で闘茶が行われ、茶業者の技能向上を図っているそうです。

中国の闘茶

闘茶

闘茶は中国から伝わったものです。

中国の「闘茶」は「闘茗」「茗戦」とも言い、唐に始まり宋代に最も流行しました。お金も暇もある人々の遊びで勝負を競うものです。

闘茶をする人々はそれぞれ持っている茶を交代で入れその味を品評しました。この時に使われた茶はいわゆる「抹茶」です。

宋代は皇帝や士大夫(したいふ…北宋以降の官僚・地主・文化人を兼ねる人のこと)たちが「茶道」(日本の「茶道」ではない)に力を入れた時代で、闘茶が大流行しました。

毎年清明節になって新茶が出ると、文化人や商店主などが数人から十数人集まって茶の味を競い、それを町の人々が取り巻いて眺める様子はまるで現代のスポーツ観戦さながらでした。こうした闘茶の場所は一定の規模を持つ茶葉を売る店で、入り口は広く奥の間は狭くて厨房を兼ね、中には優雅な小部屋や花木の美しい庭園を持つ家もありました。

闘茶の際は茶に関する詩や賦を作ったり、茶の入れ方にこだわり(これが「茶道」)、茶は琴、囲碁、書などとともに士大夫たちが愛する文化活動でした。闘茶では水色(すいしょく…茶湯の色)や茶湯に浮かぶ泡などで勝敗を決めました。

また茶の産地や寺、市場で茶葉を売る際も闘茶を行いました。茶は新しいものほど高く、茶水はみずみずしいものが良く、味は「香甘重滑」のものが上品とされ、香るものを美しいとし、水色は無色がすばらしいとされました。

この宋代の「闘茶」は唐代の陸羽による『茶経』と同じく、中国の茶文化の発展に貢献し、現代の茶葉や水質、茶具などを品評する基準に関しても影響を与えています。