お茶の種類と歴史

お茶の種類

お茶には緑茶・烏龍茶・紅茶など様々な種類がありますが、それらはすべてチャノキという同じ植物の葉っぱからできています。では緑茶・烏龍茶・紅茶などにはどのような違いがあるのでしょうか。

ここではそのようなお茶の種類、詳しい歴史、種類別の製造方法、味の決め手、効能、生産国などについて紹介します。

お茶の種類

お茶はどの種類もチャノキから作られる

チャノキ
チャノキ。

お茶には緑茶・烏龍茶・紅茶など様々な種類がありますが、それらはすべて「チャノキ」という植物の葉っぱから作られています。チャノキは「ツバキ科カメリア属」の常緑種、学名を「カメリア・シネンシス(Camellia sinensis)」といいます。チャノキと同じツバキ科には椿ツバキ山茶花サザンカなどがあり、見た目が似ています。

お茶の発酵

お茶の発酵
お茶の発酵。

同じ「チャノキの葉っぱ」から作られたと言っても、緑茶と紅茶は違う種類であり、味も異なります。

ではどのようにして違いが出てくるのでしょうか。

ポイントは茶葉の「発酵」にあります。

緑茶は茶葉の収穫後「発酵」されておらず、紅茶は完全に「発酵」しています。これが緑茶と紅茶の違いです。

ただし、ここでいう「発酵」は、お酒・みそ・納豆などを作る際の「発酵」とは意味が異なります。

一般的に「発酵」と言った場合、

「微生物(菌)の働きで有機物が分解され特定の物質を作り出すこと」

を意味します。お酒・みそ・納豆などはこちらです。

一方、お茶の「発酵」は、

「茶葉の中で水や酸素が加わって変化する化学反応」

を意味します。そこに微生物は関係ありません。

お茶は歴史のある飲食物のため、昔の人がこの変化を「発酵」と呼んだのを習慣的にそのまま使っているのです。

発酵によるお茶の分類・種類

お茶の分類方法はいろいろありますが、お茶の発祥の地・中国では「緑茶」「白茶」「黄茶」「青茶烏龍茶)」「紅茶」「黒茶」の6種類の色で分類されています。

「黒茶」以外の5種類は、「お茶の化学反応による発酵の度合い」による分類です。「黒茶」だけは一般的な意味の「発酵」、お酒などと同じ意味での「発酵」がされています。そのため黒茶は後発酵茶とも呼ばれています。

また、発酵以外の分類方法として、緑茶や白茶などの茶葉にジャスミンなどの花で香りを付けた「花茶」というものがあります。この花茶を上記の6種類に加え、7種類としてお茶を分類することもあります。

お茶の種類

チャノキの種類

チャノキにはさまざまな種類がありますが、飲み物としての「お茶」に使われるチャノキは大きく分けて「中国種」と「アッサム種」の2種類だけです。かつては中国産の茶の木でしかお茶は作れないと思われていましたが、19世紀前半イギリス人が植民地であるインドで、インド自生の茶の木でお茶が作れないか悪戦苦闘した末成功したのがアッサム茶です。

中国種は葉が小さくて3~5センチ、アッサム種は10~18センチです。中国種は寒さに強く、葉に含まれるカテキンは少なく、アミノ酸は豊富。アッサム種は温暖な気候で育ち、カテキンが多くてアミノ酸は少なめです。

茶の木の生育に適した土地は、温暖な気候と年間降水量が1300~1500ミリ以上で、土壌が弱酸性の土地です。こうした土地であれば世界中で茶の木は育てられていますが、元の苗は中国種かアッサム種のどちらかです。

中国福建省にある武夷山の茶畑
中国福建省にある武夷山の茶畑。中国種のチャノキは高地での栽培に向きます。
アッサムの茶畑
アッサムの茶畑。アッサム種のチャノキは低地での栽培に向き、主にインドで栽培されています。

茶葉はどこを使うか

一芯二葉

新茶は5月の八十八夜の頃(おおよそ立春から88日目)摘み取られます。「一芯二葉」(いっしん によう…「芯」とは枝の先端の芽のことでまだ葉は開いていない。この芯とその下に互い違いにある2枚の葉をこう呼ぶ)または「一芯三葉」(いっしん さんよう…一芯二葉より1枚葉が多い。3枚目の葉も入れる)あるいは「一芯四葉」「一芯五葉」あたりまでが茶用に摘み採られます。

「一芯二葉」を使って作られる茶は最上級の茶です。日本の緑茶で言うなら、最上級の「玉露」や「煎茶」はこうした茶葉で作られます。

「一芯三葉」を使って作られる茶は上級の茶です。

一般的な茶はそれ以下、つまり「一芯四葉」か「一芯五葉」で作られます。

茶の分類方法について

お茶の分類

茶はいろいろな分類のされ方をします。製造法による分類・産地による分類・形状や用途による分類など。

まず製造法・発酵による分類では、上述したように、緑茶・白茶・黄茶・青茶・紅茶・黒茶に分けることができます。これらは製造方法による分類です。

産地で分類するなら、中国茶(龍井茶・キームン茶など)・台湾茶日本茶・インド茶(アッサム茶・ダージリン茶など)・セイロン茶(ウバ茶・デインブラ茶など)があります。

形状による分類では、葉茶・固形茶(茶葉を固めたもの)・粉茶に分けることができます。

お茶といえば緑茶? それとも紅茶?

紅茶と緑茶

日本でお茶といえば「緑茶」のことですが、こうした国は日本や中国、ベトナムなど東・東南アジアの国々のみで、他の大半の国では「紅茶」を意味します。茶の生産高のうち紅茶は70%を占めます。またテレビのCMのせいか中国のお茶といえば「烏龍茶」のように感じますが、大陸の中国人が飲んでいるお茶は実は緑茶が中心で、烏龍茶を日常的に飲んでいるのは台湾の人々です。

茶の生産国

茶の生産国
茶の生産国の割合。

2014年の茶の生産国ランキングを見ると、1位中国で全生産量の40.5%、2位インドで同じく23.2%、3位ケニア8.6%、4位タンザニア7.0%、5位スリランカ6.5%です。

茶の製造法

製造法から茶を分類すると、非発酵茶・半発酵茶・全発酵茶・後発酵茶に分けることができ、それぞれの代表的な茶は、非発酵茶に緑茶・半発酵茶に包種茶と烏龍茶・全発酵茶に紅茶・後発酵茶にプーアル茶など中国の黒茶があります。

緑茶をさらに分類すると「蒸して作る緑茶」に玉露・煎茶・番茶・碾茶(抹茶もここに含まれる)・再加工茶(ほうじ茶・玄米茶など)があり、「炒って作る緑茶」に中国の龍井茶などがあります。

ここで言う「発酵」という言葉について説明をしておきましょう。

「発酵」とは「微生物の働きで有機物が分解され特定の物質を作り出すこと」で醸造酒やみそ・醤油、納豆、ヨーグルトやチーズはこの発酵作用によって作り出されたものです。

ところが茶の「発酵」とは微生物とは無関係に、「茶葉の中で水や酸素が加わって変化する化学反応」のことなので、実は「発酵」ではありません。ただしプーアル茶など一部の茶はこの微生物による「ホンモノの発酵」が行われています。

緑茶の作り方

緑茶の製造工程

緑茶の製造工程は、

1)茶葉を摘む

2)「殺青」(さっせい)……熱を加えて発酵を止める

3)「揉捻」(じゅうねん)……茶葉を揉む

4)「乾燥」

となっています。

「殺青」とは、緑茶製造の第一工程で、この工程が緑茶の品質を左右します。茶葉に熱を加えて、茶葉に含まれている酸化酵素の活性を押さえ、鈍化・破壊します。この過程でお茶の香りが作られます。また水分を蒸発させるので葉が柔らかくなり、次の工程「揉捻」が容易になります。

「揉捻」とは、茶葉を揉む工程で、これによって茶葉の組織が壊れ、色や香り、味の濃度が増します。また茶の形も作りやすくなります。

「乾燥」とは、水分を蒸発させる工程で、いぶって干したり(「焙乾」ばいかん)、炒って乾燥させたり(「炒乾」しょうかん)、天日干しにしたり(「晒乾」さいかん)します。茶葉の余分の水分を蒸発させることで、茶葉の酵素の活性が保たれ品質が定まります。

烏龍茶(青茶)の作り方

烏龍茶の発酵

半発酵茶の代表が「烏龍茶」ですが、「青茶」とも言われます。

青茶・烏龍茶の製造工程は、中国6大茶の中で最も複雑で時間もかかります。

烏龍茶の製造工程

萎凋(いちょう)…葉を摘んだ後室内または室外で晒して水分を飛ばし、少し発酵を進めること。

揺青(ようせい)…揺青機に入れて揺する。葉片がぶつかり合うことで酵素の酸化を促し、しばらく置いておくことで葉の縁が赤くなり、真ん中は黄緑色になる「緑の葉を赤く縁どる」烏龍茶特有の変化が起き、この過程で香り高く味わい深い味になる。

炒青(しょうせい)…炒青機で茶に含まれる酵素を壊し、茶葉が赤くなり続けるのを防ぐとともに青臭さを取り除く。

揉捻(じゅうねん)…茶葉を揉んで成型する

烘焙(こうばい)…茶葉に残った水分をとばす。

上記のような工程を経て作られます。

紅茶の作り方

全発酵茶である紅茶は、萎凋(いちょう)→揉捻(じゅうねん)→発酵→乾燥の4工程を経て作ります。

最初の工程・萎凋とは生葉から水分を取ってしおれさせ葉を柔らかくすることです。日光萎凋、遮光ネット萎凋、自然萎凋、萎凋槽萎凋などがあります。

2番目の揉捻とは揉むことですが、葉の細胞を壊して酸化酵素の働きを活発にし発酵の準備をします。

3番目の発酵こそが紅茶づくりのキーポイントとなります。酸化酵素が働いてフルーツのような香りが出て茶湯が赤い色になります。

最後の乾燥によって紅茶の葉は発酵を止めます。

黒茶(プーアル茶)の作り方

黒茶は、下記のような工程を経て作られます。

黒茶の製造工程

殺青(さっせい)…熱を加えて発酵を止める。

揉捻(じゅうねん)…茶葉を揉んで成型する

渥堆(あくたい)…揉捻した茶葉を積み重ね、人工的に一定の温度や湿度を保つように湿った布などをかけて発酵させる。この工程が黒茶の品質の鍵となる。

乾燥(かんそう)…烘焙法か晒乾法で乾燥させる。この工程によりツヤのある色や香り、形が決まる。

お茶の味と効能

玉露

お茶の味を決めるのはアミノ酸(うまみ)・渋み(カテキン)・苦味(カフェイン)の3つで、これらは緑茶・烏龍茶・紅茶すべてに備わっています。

このうちカフェインは覚醒作用・利尿作用があり、また疲労回復・脂肪燃焼にも効果があると言われています。

3つのお茶の中でアミノ酸が一番多いのが緑茶で、テアニン・グルタミン酸・アスパラギン酸・アルギニンなどのアミノ酸を含んでいます。日本の緑茶の中では玉露や上級煎茶ほどアミノ酸が増え、カテキンが減ります。アミノ酸のテアニンはこれを摂取するとα波が現れ、リラックス効果・ストレス緩和・血圧抑制に効果があります。また脳梗塞の予防にも効果があるのではないかと言われています。

烏龍茶ではアミノ酸・カテキン・カフェインすべて緑茶や紅茶より少なくなっています。そこで烏龍茶の場合香りが好みを決めます。

紅茶はアミノ酸の含有量が少ないのでアミノ酸によるうまみが乏しく、ポリフェノールの一種・カテキンが味を決めます。カテキンはタンニンとも呼ばれ、血圧抑制・コレステロールや血糖値調節作用・アンチエイジング・抗癌作用があると言われています。

茶の歴史…神農伝説から始まる

神農
神農。

お茶は古くから中国で飲まれていました。

茶木の原産地は中国南西部で、茶聖と呼ばれる陸羽(りく・う…733~804)がその著書『茶経』の中で「茶は南方の嘉木なり」と書いています。

茶葉を摘んで飲み物を作ることは、神話の中の帝王「神農」が、薬草の効能を試していて何度も毒に当たったが、茶を飲むことで解毒したという伝説があります。この話からはかつて茶は薬として飲まれていたことを示唆しています。

茶の歴史…茶は食べ物だった?

周代(BC.1046頃~BC.256)にはすでに茶を飲む習慣があったとも言われていますが、周王朝の制度について書かれている『周礼』(しゅらい)には茶について書かれていないので、少なくとも周王室に茶を飲む習慣はなかったようです。

茶は飲み物になる前は食べ物であった可能性もあります。現在でも西南の少数民族には茶を料理に使う習慣があり、これは古代の風俗が伝わったものだと言われています。また漢民族の間にも「茶葉蛋」(茶で味をつけたゆで卵)など、かつての遺風が伝わっているかのような料理がいくつかあります。

茶の歴史…茶は飲み物に

前漢(BC. 206~AD.8)時代になると茶が飲み物として登場します。茶に関する史料はあまりありませんが、前漢時代のある家において下僕との契約の記録が残っており(『僮約』)、それを見ると漢代には茶が日常不可欠な飲み物になっていることがわかります。

茶の歴史…茶と「清談」

劉備や関羽、諸葛孔明などが活躍した三国志の時代(180頃~280頃)を物語る歴史書『三国志・呉志』に「茶をもって酒に代える」という言葉が出てきます。今も宴席でお酒の飲めない人または車の運転などで飲むことができない人は「以茶代酒」(茶をもって酒に代える)という言葉で酒を辞退します。

また晋朝(265~420)時代のこんな話が『晋中興書』に残っています。陸納という浙江省湖州市の太守が客を招いた時茶と茶菓子だけでもてなそうとしたので、甥が客への失礼を心配し酒やごちそうを用意すると、おじの怒りを買ってしまったという話です。おじである太守は清談(老荘思想に基づく哲学的な議論)の場を持とうとしたのであり、その象徴が一杯の茶だったのです。この話からは当時すでに茶が単なる飲み物ではなく、「隠者にふさわしい飲み物」という一種の精神的象徴性を持っていたことがわかります。

茶の歴史…陸羽の『茶経』

晋から南北朝(439~589)にかけては茶を飲む習慣は漢代より盛んになり、唐や宋代になるとそれは一層盛んになりました。

唐代の陸羽は、孤児であった子供の頃に自分を養育してくれた和尚の手ほどきを受けて以来、茶を愛し長じてのちは茶に関する研究に没頭し、今も茶のバイブルとも称される『茶経』3巻を著して茶神・茶聖と呼ばれています。

この『茶経』を読むと、中国の喫茶法は唐代の半ばには完全な体系をなし、茶摘み・製茶・喫茶に厳格な規範がありました。陸羽は茶を飲むための器など茶具や水にもこだわりました。

『茶経』という書物は唐代や宋代での飲茶の流行を生みます。また茶を飲むことの効用も知られるようになり、茶はさらに普及していきました。

茶は李白など詩人にも愛され、茶をうたった詩がたくさんあります。

また仏教の信仰が広まると、茶を飲んで眠気をさまして座禅の修行をするなど僧侶の間でも広く飲まれるようになりました。

茶の歴史…宋代の茶館や闘茶

宋代に茶は庶民にとって不可欠のものとなりました。

南宋元末の呉自牧は『夢梁録』で「人々が毎日不可欠のものに、柴・米・油・塩・醤(みそ)・酢・茶がある」と書いています。市街地には茶館があり、そこは静謐で優雅、士大夫(身分の高い紳士)たちが友人と会う場所になっていました。

この時代「闘茶」という遊びもあり、茶の品評会や優劣の比較をやって楽しみました。

また茶の「百戯」というものもあり、たとえば茶湯をさじで動かして草花や虫・魚などの形に描き、それがあっという間に消えていく技を楽しみました。今の「カフェラテアート」の祖先ですね。

宋代、士大夫たちは芸術として茶を味わい、建物やその土地に優雅で静謐、調和の取れた雰囲気を求めました。

こうして宋代には茶はさまざまな面で新しい高みに達し、茶の品質も上がりました。このことは「貢茶制度」とも関係がありました。

茶の歴史…貢茶制度

貢茶とは皇帝に新茶を献上すること。唐代には定例化されており、宋代には制度化されました。唐代の貢茶は浙江省の茶「紫筍」だけで、毎年清明節に新茶を皇帝に献上しました。

宋代になると福建の団茶(餅茶とも。茶葉を蒸してから圧縮し煉瓦状に固めたもの)など多くの銘茶が献上され、その一部は臣下に下賜されました。

団茶
団茶。

茶の歴史…元代に消えた茶文化は明代で復活

モンゴル人に支配された元の時代、茶の文化はいったん歴史から消えてしまいます。

明代に入ると初代皇帝・洪武帝(朱元璋)が「団茶禁止令」(団茶はまずい・作るのに手間がかかるという理由から)を出しますが、その後製茶は粉状の散茶になっていきます。

またこの頃から花茶(ジャスミン茶)や紅茶の製造が始まり、浙江省の西湖龍井茶や安徽省の黄山毛峰などの緑茶も知られるようになり、お茶の生産が拡大しました。

西湖龍井茶
西湖龍井茶。

茶器も発展し、宜興(ぎこう)の紫砂茶壺(しさ ちゃこう)が使われるようになります。

紫砂茶壺
紫砂茶壺。

明代末には、生産高の極めて少ない「武夷岩茶」(ぶい がんちゃ…岩肌で育つ茶木から取れる茶葉で、烏龍茶の一種)がもてはやされました。

大紅袍のチャノキ
武夷岩茶のチャノキ。写真は大紅袍という高級種。

お茶の歴史…清代から現代

清代(1616~1912)には茶が中国からヨーロッパに伝わります。この時ヨーロッパに伝わった茶は緑茶ですが、やがて紅茶の方がヨーロッパの水に合うことが知られ人気を博すようになります。

福建省では青茶(烏龍茶)が生まれ、その香りの良さが注目されます。

紅茶の輸入ではイギリスが銀で購入していましたが、その後銀が足りなくなりアヘンを清朝に輸出するようになり、これがきっかけでアヘン戦争が起きます。この戦争に負けたことで、中国国内における茶栽培は次第に荒廃していきます。

新中国成立後中国では「茶はぜいたく品」と目の敵にされて自由に飲めなくなった時代もありました。また改革開放政策が行われるようになった1970年代末頃までは文革など政治運動の影響が長引き経済活動は衰え、生活が苦しくてお茶が飲めない時期もありました。

一方台湾では清朝時代に始まった茶栽培が日本の統治を経て発展し、青茶(烏龍茶)の栽培地として基盤を築きいて「東方美人」などの名茶が開発されます。烏龍茶を入れる作法・「茶芸」も台湾で発展しました。

日本のお茶の歴史

日本のお茶の歴史

ここでは主に、日本独特な一面に焦点を当てて日本のお茶の歴史を紹介します。

日本のお茶・緑茶は過去3回にわたって中国から伝わってきました。

1回目は800年代初期、唐から茶を煮出して飲む「煎茶法」が伝わりました。この茶や飲み方は、最澄(767~822)や空海(774~835)など中国に留学した「入唐僧」が伝えたと考えられています。

(※煎茶法では、沸騰したお湯の中に茶葉を入れて飲みます。)

2回目は1100年代末、宋から抹茶に湯を注いで飲む「点茶法」が伝わりました。中国に2度渡った栄西(1141~1215)が伝えたと考えられています。

(※点茶法では、茶碗の中で粉末状の抹茶をかき混ぜて飲みます。)

3回目は1600年代半ば、明から茶葉に湯を注ぎその汁のみを飲む「淹茶法」が伝わりました。これは中国禅宗の僧侶・隠元(いんげん 1592~1673)が伝えたと考えられています。

(※淹茶法では、茶葉の上からお湯を注ぎ、茶葉を取り除いた汁のみを飲みます。)

日本の茶を飲む文化は平安時代初期に始まります。朝廷や寺院でのもてなしの茶や供物として、また薬用としても用いられていました。

鎌倉時代になると宋の抹茶が伝わりますがまだ一般には普及せず、寺院文化の中に存在しているのみでした。茶の栽培も奈良など都周辺でのみ行われていました。

鎌倉後期になると地方の寺院などで茶が栽培されるようになります。

南北朝時代(1336~1392)に『庭訓往来』(ていきん おうらい)など「往来物」と称する「庶民用初級教科書」が作られましたが、この中に茶に関することが書かれており、茶に関する知識が教養となっていたこと、茶文化の広まりがわかります。

またルイス・フロイス(1532~1597)の『日本史』に、「春日大社の神子が神楽を行うほか、門前茶屋で茶を与える役目をしている」とあります。この「茶屋」という存在も茶の普及に一役買っていたことがわかります。またここに出てくる神子は「巫女さん」ですので、若い女性が巫女として神楽を舞うほか、茶屋のメイドさんもやっていた…ということでしょう。

室町時代になると、茶の文化は宗教や政治の世界での儀礼に、また遊芸に用いられ一般社会に普及していきます。

遊芸としての茶に「闘茶」があります。中国の宋代に流行したもので、茶の種類や産地をに見比べ、そこに景品が賭けられたりしました。日本には鎌倉時代後期に伝わり、南北朝時代に大流行、その後衰退したと言われます。この闘茶は「茶の湯」(いわゆるお湯のことではなく、芸能としての「茶の湯」)の中にも取り入れられました。

戦国時代になると一般庶民が家で茶を飲むようになり、こうしたことを基盤に「茶の湯」・のちの茶道の原点が始まります。

「茶の湯」とは、茶を点てるさまを客人に見せる一種の芸のことで16世紀の初めに始まりました。この茶の湯の成立に不可欠な人物として禅僧「村田珠光」(むらた しゅこう…1423~1502)がいます。「侘茶」(わびちゃ…簡素な「侘び」を重んじた茶の湯)の創始者で、茶の点て方、飲み方と謙虚さや心の平穏など精神性を組み合わせた茶の作法を考案し、現代の日本の茶道の基礎になりました。

この侘茶はのちに「千利休」(せんのりきゅう…1522~1591)がこれを発展・完成させました。茶の作法はより簡素化され、調和・敬意・清浄・静寂などに重きが置かれるようになりました。

千利休によって完成された茶道は、現在にいたるまで日本のさまざまな芸術…建築・庭造り・絵画・華道・陶芸などに深い影響を与えています。

紅茶の歴史

武夷山
武夷山。

紅茶は17世紀以降、福建省の武夷山の桐木村(トンムー村)で作られたと言われています。

意図的に発明したのではなく、山まで茶摘みに行き、遠い道のりを運んでくるうちに茶葉がしおれて酸化発酵し、それをしっかり揉むことで全発酵の紅茶がたまたま生まれたのではないかと考えられています。

17世紀といえば清朝の時代です。このころ中国で偶然?作られた紅茶はやがてヨーロッパ、特にイギリスで国を代表する飲み物となっていきました。

茶の存在を最初にヨーロッパに伝えたのは15世紀・大航海時代の先陣を切ったポルトガル人でした。ポルトガル人は1516年に中国、1543年に日本にやってきてそれぞれの国で茶の文化に触れておりその記録を残しています。その記録の中で茶が薬用として飲まれていること、茶を飲む儀式があることを伝えています。

17世紀に入るとオランダ人がマカオと平戸で緑茶を買いオランダに運んで、貴族の間で人気を呼びます。

それから50年ほど後にイギリス・ロンドンのコーヒーハウスで茶が初めて売られました。

その少し後にポルトガルの王女キャサリン・ブラガンザがイギリス国王・チャールズ二世に嫁ぐのですが、その際持参金代わりの砂糖(当時きわめて高価なものでしたが、ポルトガルの植民地ブラジルでは砂糖を収穫することができました)と自分の病気予防に茶を持っていきます。キャサリンは王妃になると砂糖を入れて茶を飲む風習をイギリスの宮廷に広め、これが瞬く間にイギリス貴族の間に広がっていきました。ただこの時の茶はまだ緑茶・グリーンティ。やがてこの緑茶が紅茶・ブラックティに変わっていきます。

17世紀の終わりごろイギリス商人が中国のアモイに行って茶を買います。その茶は武夷山周辺のもので、「ボーヒー」という名前の発酵茶、つまり今の「紅茶」だったのです。

武夷山に桐木村(トンムー村)とう村があるのですが、この村では17世紀前半ごろから「正山小種」という発酵茶を作るようになります。この茶の名前は「武夷山に自生している茶葉から作った茶」という意味です。

武夷山で生まれたこの発酵茶がヨーロッパ人の口に合いました。というのは水に違いがあったからです。ヨーロッパの水は基本硬水(カルシウムやマグネシウムの多い水)でこの水で発酵茶を入れると、中国の水で入れるより味が良くなりヨーロッパ人の口には緑茶より合ったのです。こうしてこの武夷山の紅茶はイギリス人にとってとても価値ある紅茶となりました。ここで採れる岩茶・「正山小種」(武夷山の岩茶)は「ラプサンスーチョン」と呼ばれ今もイギリスで珍重されています。

正山小種
正山小種。

18世紀になるとイギリス人にとって紅茶は不可欠の飲み物となっていました。ところがイギリスでは茶の木は育たず、代価の銀は大量に中国に流れ、窮地に陥ったイギリスは、植民地だったインドでアヘンを作りそれを中国・当時の清に売りつけるという手を考え出します。これは後のアヘン戦争を引き起こし、この戦争に負けた清は一挙に滅びの道を辿っていき、これを目の当たりにした日本は幕末の激動期に入っていきます。

またイギリスの植民地だったアメリカでは本国政府による紅茶への高い税金への抗議行動がやがて独立戦争の導火線となります。

たかが紅茶されど紅茶…紅茶はこうして世界の歴史を変えていったのでした。

19世紀に入り、中国から輸入するだけでは本国の茶の需要に応えられなくなったイギリスでは、他の地域での茶栽培を考えるようになります。そこでインドで中国から運んだ茶木の苗を植える試みをするのですが、ほとんど失敗。唯一ダージリンだけで中国茶が根付きます。ダージリンの紅茶は他のインド産の紅茶と味がやや異なるのですが、これは茶木が中国由来のものだからです。

またインド自生の茶木を育てる試みもされ、これがアッサムで成功します。ちなみに飲料可能な茶の木は中国種とアッサム種の2種に分類されますが、これはアッサム茶の成功によるもので、それ以前茶は中国でしか採れないものとされていました。

アッサム茶は中国の茶木より2~3倍葉が大きく、味が濃く、茎や軸も除去せず加工することで大量に生産でき、安く売ることができました。こうして紅茶は大衆向けの飲み物になっていったのでした。

烏龍茶の歴史

中国では古来緑茶だけを作っていたのになぜ烏龍茶が生まれたのか、いくつかの伝説が伝えられています。

烏龍茶の伝説1

清朝の雍正年間のことです。福建省安渓県西坪郷南岩村に退役した将軍が隠棲していました。彼は狩猟の名手で、姓を蘇、名を龍と言いました。色黒でがっしりとした体つきだったため、村人たちは彼を「黒い龍…烏龍(ウーロン)」と呼びました。ちなみに中国語の「烏」には「カラス」という意味と「黒い」という意味があります。

あるこの烏龍将軍がいつものように猟銃を背中に猟や茶摘みに山に登りました。やがて大きなヘラジカを仕留め、大喜びで家に持ち帰り美味しく食べたのですが、摘んだ茶のことをすっかり忘れてしまっていました。翌日それを思い出し急いで籠から茶を取り出すと、一晩放っておかれた茶は縁が赤くなって芳香を放っています。そのまま茶作りを始めると、香り高く芳醇な味で苦みのない実にうまい茶ができあがりました。これを村人にもふるまうと皆うまい、うまいと絶賛します。そこで皆にその作り方を教えますと、この茶の評判は遠く他の地方にも伝わり、やがてここの村人は茶作りで生計を立てるようになりました。

やがてこの茶は烏龍将軍の貢献を称えて「烏龍(ウーロン)」と名付けられ今に至っているということです。

烏龍茶の伝説2

同じ福建省安渓にはまたこんな話も残っています。

安渓県にある茶園があり、そこの主がある日、陽にさらした茶葉をひっくり返していると突然まっ黒な龍が現れたというのです。びっくりした主はその後恐ろしくてしばらくその場に近づけませんでしたが、数日後びくびくしながら行ってみると、置いたままだった茶葉が酸化して緑色ではなくなっていました。ところが味わってみるとなんとも美味しい。そこでこのお茶に「黒い龍の茶」つまり「烏龍(ウーロン)」と名付けたのだそうです。

いずれも「黒い」という意味に「烏」という文字を当てていますが、いわれとしては伝説1の方がよく知られています。

台湾茶の歴史

台湾の茶葉は台湾物産の代表で、かつて「茶」と「樟脳(しょうのう…防虫剤・防腐剤・かゆみ止めなどの原料)」が台湾の対外貿易の2大品目でした。

現在台湾で最も有名な茶葉は「包種茶」と「烏龍茶」ですが(実はどちらも烏龍茶で、ただ「包種茶」の方は弱発酵で、無発酵の緑茶に近い品種です)、これらはどちらも福建省から入った茶種で、台湾原産ではありません。

清朝康熙56年(1717年)と同乾隆元年(1736年)にそれぞれ出た書物に、台湾の南投の水沙連山には野生の茶木が自生しており、台湾の先住民族はこれを飲もうとしなかったが、台湾に移住した漢族たちがこれを茶葉として作っていたとあり、これが台湾の茶に関する最も古い記録です。

『烏龍茶及び包種茶製造学』という台湾出版の本に台湾茶木の植え付けは1810年頃に始まったとあります。またある民間の契約書には1827年に台湾に住む漢民族たちが茶を植えていたとあり、いずれにせよ19世紀初めには台湾で茶の製造が始まっていました。

その後19世紀の中頃までには、台湾の茶葉は大陸に送られて加工され、その後に海外に輸出されるようになります。当時清朝は海禁(かいきん…領民による沿岸部などでの密貿易等を禁止する)政策を採っており、台湾茶葉の輸出は福建を経て行われていました。つまり台湾に住む漢人が直接海外と貿易をすることは禁じられており、台湾茶は福建省における役人の管理のもと海外に輸出されていたのです。

アロー戦争(1856~1860…清朝とイギリス・フランス連合軍の戦争)後、清朝は台湾の滬尾と基隆を開放し、台湾の産物は大陸を経ずにこの2つの港から輸出入ができるようになりました。

1880年以前台湾の茶葉では烏龍茶だけが輸出されており、外国商人がこれを独占的に扱っていましたが、やがて漢人の手で貿易が行われるようになっていきました。

1881年福建の茶商・呉福老が「包種茶」製造工場を台湾に設立しました。

1864年イギリス人の杜徳(漢字名)が淡水に貿易会社を設立し、1866年福建から大量の茶苗と茶種を輸入してそれを淡水や三峡・大渓の農民に貸し付け、茶葉の収穫後それを買い取るというシステムを作り、その後それを大陸に運んで加工してから海外に輸出しました。

この茶葉の市場での反応が良かったので杜徳は台湾に茶の製造工場を作ります。1869年にはここで作られた烏龍茶が「フォルモサ・ティ」(麗しの島の茶…フォルモサはポルトガル人がつけた台湾の美称)としてニューヨークに輸出され、1880年台湾茶の輸出高は540万キロ以上になり台湾茶商に大きな富をもたらしました。

1895年日清戦争の勝利により台湾は日本に割譲されます。その後日本政府は台湾で紅茶の栽培による産業振興を考え、茶木の栽培試験場や茶製造試験工場を次々に作って、台湾製茶の機械化を進めます。同時に茶葉生産・販売システムを作り、この茶を国際博覧会に出品して台湾茶の輸出増加を推し進めました。

こうして台湾紅茶の輸出高は烏龍茶や包種茶を超え、とりわけ台湾に工場を置いた「日東紅茶」は「リプトン紅茶」と優劣を争うまでになりました。

戦後台湾は国民党政権となり、国民党政府は日本の茶葉会社を「台湾農林公司」とし、引き続き紅茶の輸出に力を入れました。また国際市場のニーズにこたえて緑茶の生産も始め、1981年に緑茶は台湾の茶葉輸出量の半分以上となり、台湾の茶葉輸出の主役になりました。

1985年以降台湾での茶葉生産はコスト高となり、台湾国民の所得増加に伴って高級茶葉のニーズも増え、台湾茶葉の輸出よりも海外からの輸入茶葉が増えるようになって現在に至っています。