陸羽

陸羽

陸羽りくうは陸が姓、羽が名前で「りく・う」と読みます。唐代の人で、茶に関する中国最初の専門書『茶経ちゃきょう』を書いたことで知られています。

このページでは陸羽の生涯、エピソード、陸羽の提唱する喫茶法などについて紹介します。

陸羽とは

陸羽りくう(733~804)は茶に関する中国最古の専門書『茶経』を書いた人です。この中で、茶の産地・製造方法・飲み方・茶道具などについて書き、茶の飲み方・喫茶法を確立し、「茶聖」・「茶仙」・「茶神」などと言われています。

つまり今日の日本の茶にもつながる「茶の飲み方文化」の方向性を決めたとも言うべき陸羽についてここでは紹介します。

茶が単なる飲食物の一つに終わらなかったのはなぜなのか。

コーヒーは「コーヒー道」というのは聞いたことがない、一般には飲み物の一つに過ぎません(反論もあるでしょうが)。

ところが茶は後に日本の「茶道」となって一種の精神文化に発展しましたが、それと陸羽はなんらかの関係があるのでしょうか。

まずは陸羽の人生を簡単に紹介しましょう。

幼少期~二十歳頃までの陸羽

陸羽は、あの楊貴妃で有名な玄宗皇帝の治世の時代、今の湖北省に生まれたのですが、親が誰かはわからない捨て子としてお寺で拾われ、そのお寺・龍蓋寺(りょうがいじ)の智積(ちしゃく)禅師というお坊さんに育てられました。

捨て子だったのにのちに中国の歴史に残る偉人として大成したのですから、育ての親が立派なお坊さんだったのでしょう。

ところがこの子はお寺の生活が嫌でたまらず11歳ごろにお寺から出奔してしまいます。陸羽は子供ながらに仏教ではなく儒教に興味を持ち、儒教は先祖や子孫という血のつながりを大事にしますが、仏教の僧侶は家庭を持ってはならず、自分が寺の僧侶になっては子孫が持てず先祖に申し訳が立たないではないか、というのが理由だったというのです。理由はともかく、小学生くらいの年齢でたったひとり知る人もいない外の世界に飛び出るのですからなかなかガッツのある子どもです。この年齢では野垂れ死にをしてもおかしくないのに、彼は無事生き延びてとある劇団に潜り込みます。

唐代に劇団なんてあったのですね。「戯班」と言いますが、ここで俳優やら脚本書きやら監督やらをやっていて、この地の長官に才能を見出されたのだそうです。まだ十代半ばです。早熟の天才と言うべきでしょう。こうして立派な長官に見いだされ、役者の道からは足を洗って本格的に勉学に励むようになります。二十歳の頃また新たにやってきた長官にもその才能を認められ、陸羽は自分の才能に自信を持つようになります。

安史の乱後の陸羽

その頃唐の王朝では安史の乱(あんしのらん 755~763)という反乱が起こり、玄宗皇帝は楊貴妃を連れて都から逃げ出し、繁栄を極めていた唐の社会は大混乱に陥ります。陸羽も避難民の群れとともに東に逃れ、今の浙江省にたどり着きます。太湖(たいこ 江蘇省と浙江省の境にある景観の美しさで知られる湖)のほとりに廬(いおり)を結び、多くの文人と交流を深めます。その中に当地の長官であるとともに書の大家である顔真卿(がん・しんけい)がいました。陸羽は在野の門人として顔真卿の配下に入り、学識を深めます。『茶経』はこの頃までに完成していたと言われますが、この本に見られる膨大な知識はこうした交流の中で養われたのでしょう。『茶経』を完成させた当時陸羽はまだ20代の若さでした。

陸羽のいろいろなエピソード

陸羽については著名な詩人たちが彼に捧げる詩を書いていて、周囲の文人から敬意を表されていたことはわかるのですがはっきりとした行動についてはよくわからないのです。そうした中で事実なのか伝説なのかいくつかのエピソードが伝えられています。

こんな茶は陸羽にしか入れられない

唐代に積公という僧侶がいました。この人は日ごろから茶をたしなんでおり、ただ飲むだけでなく、それがどういう名前の茶でどこの水を使って入れたかを説明することができたのだそうです。その時代の皇帝は代宗(だいそう 第11代皇帝 玄宗の孫)で、この皇帝も茶をたしなむ人でした。ある日皇帝は積公のうわさを耳にし宮廷に呼んで茶をふるまうことにしました。

ところがこの和尚、皇帝が注がせた茶を一口ふくむやペッと吐き出しそれ以上飲もうとしません。皇帝はいぶかりその理由を聞くと「私は日ごろ弟子の陸羽が入れる茶の味に慣れておりまして、他の者が入れた茶は味も香りもしないので飲めないのです」と言うではありませんか。そこで「その陸羽とやらはどこにおるのか」と皇帝が聞くと「陸羽は今天下の茶どころ、名水の泉と言われるところを訪ね歩いておりまして、私も奴めがどこにおるのかしかとは存じません」と答えます。代宗が人をやって陸羽を探させますと数日後浙江省の杼山(ちょざん)というところにいるのが見つかり、さっそく宮廷に呼ばれて茶を入れるよう命じられました。

陸羽は清明節の前に摘まれた上茶を取り出し、湧き水を沸かして茶を入れ皇帝に献じます。皇帝が茶碗の蓋を開けるとなんともいえず清々しい香りが漂い、茶湯を見ると澄んだ淡い緑色、一口飲むと芳醇で甘みのある茶の味が口中に広がります。

皇帝は陸羽にもう一煎茶を入れさせそれをまだ宮廷にいた積公和尚のところに持っていかせると、和尚は一口それを飲むや陸羽の名を叫びます。皇帝がそれを聞いて「なぜ陸羽がここにいるとわかった?」と問うと「茶をこのように入れるのは陸羽ひとりなのです」と答えたということです。

このエピソードからは、陸羽の入れる茶が他の者が入れる茶とはまったく別物できわだって美味しく香り高いものだったことがわかります。

もう一つは陸羽が暇さえあれば茶どころ、名水が湧く泉に足を運んでいたことがわかります。『茶経』には茶の産地とその味のランキングに関する綿密な調査結果が残されていますが、これは陸羽の実地見聞の結果だということでしょう。

どこの水かも当てた

唐代の張又新『煎茶水記』に次のような話が入っています。

唐の代宗の時、湖州の長官が揚州で陸羽に会いました。「あなたは茶の鑑識の名人であると天下に知られています。揚子江の南零の水質もまた大変に有名です。ぜひともあなたにこの名水で茶を入れていただきたい」と言って部下に南零の水を取りに行かせました。この者が戻ってくると陸羽は杓子でその水をさっとすくい「これは揚子江の水ではありますが、南零の水ではなく岸辺近くの水です」と言いました。そう言われて水をくんできた者は「私は確かに舟に乗って南零まで行きました。これには証人もおります。どうして私がウソなどつきましょう」と言い張ります。

すると陸羽は黙って水を入れた器を持ち上げ、半分を捨て、残りを杓子で再びさっとすくうと「これは確かに南零の水です」と言います。水をくんできた者はこれを聞いてびっくり仰天。

「実は南零から水をくんで戻ってくる途中、岸辺近くで舟が揺れ半分ほどこぼれてしまいました。水が足りないと困ると思い、そこで岸辺の水を入れてまいったのです。陸羽大人のお目をごまかすことはできないのですね。どうかお許しください」と謝ったということです。

水をすくった時の動きでどこからくんできたかがわかったのですね。さすが「茶仙」・茶の仙人ですが、このエピソードからも名水と聞けば必ず足を運び、その味はもとより水の動きにまで観察を怠らなかった、しかも一度や二度の観察ではなかったことがわかります。すさまじい情熱と言うべきでしょう。

このすさまじい情熱、執念は『茶経』からも充分に感じ取れます。この本が晩年に書かれたならば長年の調査、観察、知識の集大成と言えるのですが、20代でひとまず完成させているという点に驚かずにはいられません。何かにとりつかれたような情熱のなせるわざ…でしょうか。

晩年の陸羽

顔真卿は70歳で長安に帰ることになるのですが、当時陸羽は46歳、それから20数年後に亡くなります。その間陸羽がどういう人生をたどったのかははっきりわかっていませんが、地位や権力には招かれても近づこうとはしなかったと伝えられています。その才能や情熱のすべてを茶に注いだ人生でした。

陸羽の人生を物語として書いた中国のある作家は、「陸羽の『茶経』が伝わって日本の『茶道』となった」と書いています。

『茶経』を読むと確かにこの本からはやがて日本の茶道になっていく道筋が見える気がします。それでは次に『茶経』について簡単に紹介します。

『茶経』

『茶経』は上中下の3巻に分かれています。

上巻においては、お茶の起源や製造方法について

中巻は、茶器について

下巻は、お茶の点て方・飲み方・産地などについて

以下10項目に分けて書かれています。

『茶経』の構成

1:茶の起源

2:茶道具

3:製茶方法

4:茶器

5:茶の煮たて方

6:茶の飲み方

7:茶の文献

8:茶の産地

9:略式の茶

10:茶経の図

陸羽の提唱する喫茶法…「煎茶法」

ここで陸羽が提唱した喫茶法をまとめておきましょう。陸羽が提唱した喫茶方法は「煎茶法」と言い、茶を煮出して飲む方法です。『茶経』にある記述に従って、以下にその手順を書きます。

煎茶法

1)平鍋に600ccの水を入れて風炉の火にかける。

2)沸騰したら塩を入れる。

3)二度目に沸騰したら、湯の一部を湯冷まし用の器に分け入れる。

4)湯の中央をかき回して茶の粉を入れる。

5)三度目の沸騰まで煮る。

6)湯冷まし用の器に入れておいた湯を平鍋に戻し、火からおろす。

7)湯の表目に「茶の華」(泡と茶の粉が混ざったもの)が浮いたら完成。底に不純物が沈む。

煎茶法で使われるお茶は「餅茶・団茶」と呼ばれ、摘まれたお茶を蒸してからき、そのあと平たく固めてあぶって乾燥させたものです。飲む時はこれを削って粉にします。

上のような手順でお茶を煮るのは、苦みや雑味をなくすためです。

また沸騰3回までとなっているのは、長い時間煮立てないという意味で、当時茶とともにネギやショウガを入れてぐつぐつ煮込む飲み方があり、そういう飲み方ではないというわけです。

さらには細心の注意を払って入れたこの美味しいお茶は、3~5個の小さな器(100cc入るくらいの)に入れて客人に供し、熱いうちに飲まなくてはいけないと説明されています。冷めると風味が落ちるからです。

美味しいお茶を入れるのに細心の注意を払っているのがわかります。

陸羽が提唱した江南の茶文化

陸羽以前の喫茶方法としては、お茶にネギ・ショウガ・ミカンなどを入れて飲むという茶文化がありましたが、陸羽はこうした飲み方を否定します。また文人の茶文化には大ぶりの茶碗でゆっくりと飲むという飲み方がありました。陸羽はこれも否定します。また北方では茶にヨーグルトやバターなどを入れて飲み、これを南方の人々に自慢する風潮などもあったようです。今でもモンゴルやチベットの人はこうしたお茶を飲みますね。

こうした飲み方をことごとく否定し、丁寧に入れた最上の味わいのお茶を小さな茶碗に入れ、熱いうちに味わう…これぞ本当の茶である、と江南の人・陸羽は提唱したのです。

陸羽はお茶たるものの本質が…ただのドリンクではないということが直感的にわかったのかもしれません。この直感が独断と偏見に陥っていないのは、その後陸羽が「茶聖」と称えられてきたことからもわかります。陸羽の茶への向き合い方に深い精神性を感じ取った人々はそこに聖人と同様の心を読み取ったのでしょう。

この精神性は後の日本の「茶道」にも大きな影響を与えていると思います。