楊貴妃の生涯と伝説~中国四大美人の1人のさまざまな逸話~

楊貴妃

楊貴妃とは

楊貴妃ようきひとは唐代の玄宗皇帝のきさきで、中国の四大美人(「西施せいし」「王昭君おうしょうくん」「貂蝉ちょうせん」「楊貴妃ようきひ」)のうちの1人です。

楊貴妃はクレオパトラ、小野小町とともに世界三大美人としても有名です。

では楊貴妃とはどんな女性なのか?一般に知られているのは、中国の唐代に生きた美女、玄宗皇帝の妃、太目の美女だった、若くして亡くなった…などでしょう。

楊貴妃(719~756)、姓は楊、名は玉環です。唐の玄宗皇帝の治世の時代に生まれました。玉環という名前は美しいぎょくのブレスレットのことで、小さい頃から美しい少女だったのでしょう。十代で親を亡くし叔父に引き取られて育ちます。この叔父は唐の役所に勤める役人でした。今でいえば上流とは言えなくても庶民以上、中流の家庭で育っています。

彼女は優れた詩を一つ残していますし、琵琶や笛、けいなどの楽器や踊りにも長けていましたから、きちんと教育を受けた少女だったのでしょう。

楊貴妃
楊貴妃。手にしているのが玉。
楊貴妃の生きた時代(年表)
楊貴妃の生きた時代(年表)。楊貴妃は唐の時代の人です。

楊貴妃は太目だった?

楊貴妃はふっくら美女だったと言われています。こういう話を聞いて「美の基準て変わるのね」「唐の時代だったら私も美人」という流れになっていき、美女伝説があやしくなって世の大多数を占める「それなりの」女性たちの心を慰めるのです。

彼女がふっくら美女だったという話は、一つは成語「環肥燕痩」(楊貴妃は太った美女、漢の成帝のきさき・趙飛燕は痩せている美女)から来ています。もう一つは唐の時代に描かれた『貴妃出浴図』の楊貴妃の絵がぽっちゃり型であることから来ています。

この説…楊貴妃ふくよか型説は世にかなり浸透していますが、中国の楊貴妃関連の本を読みますと、これを否定する人たちも何人かいます。

その根拠としては、唐の時代は満足に食が取れない人々がたくさんいて、ふっくら系は憧れでもあった。そうした憧れを絵に託したので、決して太ってはいなかった楊貴妃もふっくら系に描かれてしまった。さらに彼女は胡旋舞という踊りの名手で、これはくるくると回る踊りだから、体重の重い人には無理だったろうと言うのです。確かにこの説の後半は説得力があります。彼女は音楽の才能にあふれ、琵琶を弾き、磬(けい)という打楽器を叩き、横笛を奏で、胡旋舞を舞い、更には玄宗の行く所どこにでもお供をしましたから、かなりアクティブな人です。こういう人は太りにくいのではないでしょうか。

楊貴妃の舞
楊貴妃の舞。

太目の人にはがっかりされるかもしれませんが、生前の彼女の行動の特徴を見る限り、「太っていたとは言い難い」説に一票入れたい気がします。

楊貴妃
楊貴妃。馬に乗る場面。
唐代の絵画
唐代の絵画。宮中の女性たちの様子が描かれていますが、全員太っているように見えます。
唐の時代の宮中の生活
唐の時代の宮中の生活。明代に描かれました。

楊貴妃はどんな顔?

では楊貴妃の容貌はどのようなものだったのでしょうか。いろいろな文献に少しずつ残っている彼女の容貌をまとめると「柳の葉っぱのような眉、ぱっちりとした目、おちょぼ口、豊かな黒髪、白いもち肌」だったようです。おそらくは現代でも非常に美しい整った顔の持ち主だったのでしょう。

何しろ唐の皇帝と言えば、後宮に何千人という女性たちがいて、当然彼女たちは容貌の美しさで選ばれてきています。にもかかわらず玄宗皇帝は楊貴妃を得てからは他の女性たちには見向きもしなかったと言いますから、その魅力のほどがわかります。

もちろん彼女の魅力は顔だけではありませんでした。非常に頭がよく、人の心理を見抜き、人の気持ちを汲む人だったと言われます。さらには玄宗皇帝と同じ、音楽をこよなく愛し、音律まで解したと言いますから、音楽への造詣もまた深かったことがわかります。玄宗も自ら唐代を代表する名曲『霓裳げいしょう羽衣ういの曲』を作曲していますから、音楽の天才どうしが巡り合ったとも言えるわけで、この二人が魅かれ合う要素はたくさんありました。

楊貴妃
楊貴妃。
玄宗皇帝
玄宗皇帝。

玄宗皇帝と楊貴妃はどうして巡り合ったのか?

一方、玄宗皇帝は当時の大帝国・唐の皇帝であると同時に優れた大政治家でもありました。もう一方の楊貴妃は中流家庭で育った無名の孤児の娘。しかも玄宗の生没年は(685~762)、楊貴妃は(719~756)、二人の年齢差は34歳、まさに親子の年の差です。この二人はどうして巡り合ったのでしょうか?

玄宗皇帝
玄宗皇帝。

玄宗皇帝には息子30人に娘が30人、合計60人の子供がいたと言いますから驚きです。

このうち18番目の息子が735年に17歳、結婚すべき年齢になりました。そこで玄宗はたくさんのお供を連れて洛陽に花嫁探しにやってくるのですが、その接待をしたのが楊貴妃の義父です。楊貴妃の美貌は一族だけでなく、周囲の人々にもよく知られていましたので、彼女が妃に推薦されます。厳しいチェックを経て楊貴妃、当時の楊玉環はみごと玄宗皇帝の18番目の息子・寿王の妃に選ばれます。彼女もまた17歳でした。

楊貴妃は17歳から22歳までの5年間、玄宗の息子・寿王の奥さん、つまり玄宗の家の嫁でした。

ところで玄宗と楊貴妃の物語でこの寿王の影はきわめて薄いのですが、いったいどんな人物だったのでしょうか。

歴史の資料によりますと彼もまた美貌の若者。謙虚で素直、儒教の教えに忠実な、きわめて好もしい青年だったと言われます。美男美女、まさにお似合いのカップルでした。

彼らが結婚して間もなく長安の宮殿でお家騒動が起こります。当時玄宗皇帝が最も寵愛していたのは武恵妃で、この寿王のお母さんです。武恵妃は自分の息子が18番目で皇太子になれそうもないのに、自分が寵愛されているからと息子を皇太子にすべく暗躍し、それが原因でゴタゴタが起きます。結果どうなったかというと、玄宗は当時すでに決まっていた皇太子を含めて3人の息子をなんと亡き者にしてしまうのです。同時に武恵妃の息子・寿王のことも皇太子にはしませんでした。武恵妃は望みもかなわず、また自分が殺したも同然の3人の王子たちの祟りも恐ろしく、やがて病気になって亡くなりました。まだ39歳の若さだったと言います。

玄宗は武恵妃を非常に愛していましたので、しばらく抜け殻のようになってしまいました。それから3年の月日が経ちます。

玄宗皇帝の一家はしばしば華清池という温泉地への旅行を楽しんでいます。あるとき、この旅行に寿王や楊貴妃も参加していました。玄宗はここで楊貴妃に出会うのです。もちろん結婚式に参列していたのですから前から知っていたはずですが、この華清池での出会いで玄宗は彼女に心奪われてしまったと言います。

息子の奥さんなのにそんなことがありえるんでしょうか?ただ上で書いたように、朝廷でごたごたを起こせば血を分けた自分の息子も処刑してしまうわけですから、現代のような核家族における親子関係とは違います。

歴史資料にこの件に関する三人目の当事者・寿王の言葉は残っていません。反抗すれば命をも奪う恐ろしい父親にして万能の皇帝ですから、手も足も出なかったのかもしれません。ある本には当時すでに寿王と楊玉環の夫婦仲は良くなかったと書かれています。その理由として、二人の性格がまったく違うこと。夫はつつましく謙虚で優等生的な君子、妻は才ある美貌の持ち主で自由奔放なタイプだったと書いてあります。もう一つの理由として、二人の間に子供はなく、当時子供のできない妻は離縁されるのが普通だったので、これが原因で二人の仲は悪かったと言うのです。どちらの説もこじつけのような気がしますが…。

またここには「高力士」という玄宗の側近による画策があったという説もあります。落ち込んでいる玄宗に元気になってほしくて、評判の美女を紹介したと。この高力士という人物は楊貴妃の物語にしばしば出てきます。強そうな名前の持ち主ですが宦官です。宦官と言えば卑劣な手口を平気で使うことで有名ですが、この宦官はなかなか立派な人物だったようで生涯を通して玄宗に誠実に仕えました。立派な人物がなぜ当人の息子の嫁を紹介したりするのか…自分の尊敬する玄宗第一という思いが高じてこういうことをしたのかもしれませんし、玄宗の不品行をかばうために後世こういう話が作られたのかもしれません。

その後、楊玉環は寿王の家を出て出家し女道士になって太真という名を持ちます。そしてしばらく寿王の母・武恵妃を弔う日々を送ります。

出家はこの世のしがらみから離れますので、楊玉環はこうして寿王の妻としてのしがらみから自由になり、まったくの別人になったという形を取って玄宗の妃となるのです。天下の皇帝と言えどもやはり世間の評判を気にしないわけにはいかなかったのでしょう。

当時楊貴妃は22歳、玄宗は56歳、この時から16年二人は片時も離れることはなく、楊貴妃は生涯玄宗の愛妃であり続けました。玄宗は宮廷内の人々に「楊貴妃を得たことは至宝を得たようなものだ」と臆面もなく言っていたと言いますから、その寵愛のほどがわかります。

楊貴妃を喜ばせると玄宗皇帝から褒美がもらえますから、みな争って楊貴妃の嗜好をさぐってはそれを贈り物としました。たとえば楊貴妃はレイシが大好きでしたが、レイシの産地は長安から遠く離れた南方です。しかもレイシは摘んでから一週間も経てば味も香りも落ちてしまうのです。楊貴妃の口に新鮮で香り高い生のレイシを届けるため、何千キロの道を途中何度も交代しながら全速力で馬を走らせ、その途中で民衆を踏みつけようが、田畑を荒らそうがおかまいなしだったと言います。

レイシ
レイシ。

贅沢ざんまいな暮らしをしたのは楊貴妃だけでなく、その一族も豪奢な暮らしを謳歌しました。姉の一人は他人の豪華な家が気に入ると、使用人を大勢連れてそこの家に押しかけ「わらわはこの家が気に入った。いくらで売る?」と聞き、あるじが「この家は先人が遺したものゆえ売りませぬ」と断るまもなく、とっととその家を建て替えはじめ、わずかな田畑で代金としたそうです。

まさに平家にあらずんば人にあらず、楊家にあらずんば人にあらずのやりたい放題でした。

そして16年後、楊貴妃38歳、玄宗72歳の時に悲劇が起きます。安史の乱という反乱が起き、そこからの逃避行の途中で兵士が騒ぎ出し、玄宗の地位や命も危ないとなったところで、楊貴妃は玄宗の命令で亡くなります。

虢国夫人(楊貴妃の姉)
虢国夫人(楊貴妃の姉)。
馬に乗って散策する虢国夫人
馬に乗って散策する虢国夫人。
秦国夫人(楊貴妃の姉)
秦国夫人(楊貴妃の姉)。

悲劇への道

絶対権力者の悲劇はどうして起きたのでしょうか?

政治家としての玄宗皇帝ですが、彼の治世の前半はみごとなもので「開元の治」と称えられています。唐王朝は彼の治世により経済も文化も発展し絶頂期を迎えます。

ところが武恵妃を失った頃から彼の政治への情熱は失われていくのです。27歳で帝位に就きそれから30年、国は発展安定し我が世の春を謳歌する。50代半ばと言えば、日本ではついこの間まで定年の歳でした。エネルギーにあふれた人だったのでしょうが、長く連れ添った愛妻・武恵妃を失ってガクッと気力を失ったのでしょう。

その時現れたのが生命力にあふれるような楊貴妃でした。彼女は慎み深い淑女というよりは、機智に富んだ楽しい女性だったようです。玄宗を何度か怒らせていて、何事もおとなしく耐えるタイプではありません。それでいてかゆいところに手が届く、人の心理をよむような頭の良さも持っていました。

早くに両親を亡くして叔父の家で育っていますから、人の顔色を見るのもうまかったでしょうし、人の気持ちを汲むこともできたようです。

才気煥発なじゃじゃ馬かと思えば、人の心にそっと寄り添ってくる、多面的な楊貴妃は外見の美しさだけでなく玄宗の心をとらえる魅力に満ちていたに違いありません。

こうして玄宗皇帝はひとりの女性に夢中になり、それまでの勤勉さを失っていきます。もう余生だと思っていたのかもしれません。唐はこのままで大丈夫だと油断もしたのでしょう。

息子が30人近くいたのですから皇帝の座を譲ってしまえばよかったのに、譲らなかったのが悲劇の元だったかもしれません。いったん大きな権力を握りそれを思う存分振るった者がそれを手放すのはきっと恐ろしいことでしょう。次の権力が自分に歯向かってくる可能性がおおいにあるのですから。

こうして権力の座にとどまりながら政治に関心を失っていった玄宗は、楊貴妃の親族など側近に政治を任せるようになります。楊国忠と安禄山です。楊国忠は楊貴妃のまたいとこですが、ばくち好きのならず者、安禄山は中央アジアの民族・胡人で、残忍でずる賢かったが人に取り入るのがうまかったそうです。いずれにしろろくでもない人物に唐の政治は乗っ取られてしまいました。

この二人はやがて対立し、安禄山は自分への攻撃を恐れて謀反を起こします。これが「安史の乱」です。

この戦いで唐軍は劣勢、期待する将軍たちは敗北してしまいます。玄宗は楊国忠、楊貴妃、楊一族らを連れ、一時西の蜀に落ち延びます。途中自軍の兵士の中に、飢えと疲れから不穏な空気が漂い始めます。「楊国忠が政治を駄目にしたから俺たちがこんなひどい目に遭うんだ。楊国忠の命を奪え!」楊国忠はよほど人望がなかったのでしょう、こういう声があがるやたちまちにして亡き者にされてしまいます。楊国忠の子供たち、楊貴妃の姉たちも次々に亡き者にされていきました。

楊貴妃の最期

やがて「罪九族に及ぶというではないか!楊貴妃をどうして生かしておくんだ!」という声が挙がり始めます。

罪九族とは、謀反など重罪を犯した場合本人だけでなく、その家族も根絶やしにするという刑罰のことです。九族とはどこまでを指すか、高祖父、曾祖父、祖父、父、本人、子、孫、曾孫、玄孫の9人を指すという言い方もあるのですが、あまりはっきりとはしていません。

兵士たちは殺気立っています。楊一族を亡き者にした以上、楊貴妃を生かしておいてはあとで必ず復讐されるという恐怖もあったようです。

兵士の要求は執拗で、拒否すれば危険は玄宗皇帝にも及んでくる恐れがありました。

事ここに及んで玄宗も万事休す、楊貴妃も楊一族の元へと送るよう高力士に命じます。

あわただしく長安を立ってわずか二日目のことです。玄宗はもちろん楊貴妃もこんな事態をまったく想定していませんでした。つい昨日まで大権力をその手に持ち、あご一つで人の命を左右し、豪奢な暮らしを謳歌していたのです。

楊貴妃はこの事態をどう受け止めたのでしょうか?

詩も文学も演劇も楊貴妃が従容として亡くなった、と描いています。

その後玄宗は再び無事に長安に戻りますが、皇太子が許可なく皇帝の座についており、その後玄宗は軟禁状態に置かれ、それから数年後に亡くなります。その目は無念さを物語っているかのように閉じることはなかったと伝えられています。

楊貴妃、その後の伝説

さてこうして人生の幕をあわただしく閉じた楊貴妃ですが、彼女が実は生きていたのではないかという説がいろいろあります。中でも日本人にとって非常に面白いのは、楊貴妃は実はその後助けられてひそかに日本に渡ったという話です。

中国の本によると、山口県の久津と荻町の長寿寺に楊貴妃の墓が残っていると言うのです。

知らべてみると確かに山口県の長門市の二尊院に、昔楊貴妃が小舟に乗って流れてきたという伝説が残っていて、楊貴妃の墓だという五重塔が建っています。

萩町の長寿寺の方にはそうした話は残っていませんでした。

山口県なら日本海伝いに漂流者がいてもおかしくはありませんが…。

もう一つ面白いエピソードとしては、香港の学者が本に「1963年に有名な日本の少女がテレビで『自分は楊貴妃の末代だ』と言った。また2002年には元有名な歌手・女優の山口百恵が記者会見で『自分は楊貴妃の末代だ』と言い、それを自分はニュースで知った」と書いているのです。

また中国の別の作家も同じ内容を本に書いており、山口百恵のインタビューの年代だけが2003年になっています。(上記二人のどちらかがどちらかの文章をまちがって書き写したのかも)

さらにもう一人中国の歴史学者が「日本には『自分は楊貴妃の末代だ』と言っている人がいる」と言及しています。これも名前は出していませんが山口百恵を指しているのかもしれません。

いずれも楊貴妃に関する中国の専門書、あるいは準専門書に書いてあった内容です。

山口百恵は日本では70年代に大変人気のあった歌手・女優で、80年代に入る頃人気絶頂の中引退しました。中国で彼女が主演したドラマが80年代の初めに放映され、改革・解放が始まったばかり、西側の情報に飢え、あこがれていた当時の中国人に「幸子(山口百恵が主演したドラマの役名)ブーム」を巻き起こしました。

その彼女が中国で「楊貴妃の末裔だと言われている」というニュースが日本に伝わってきたのはいつ頃だったでしょうか?日本では引退後いっさいマスコミに登場しなかった山口百恵は中国のインタビューには(私の知る限り)一度は答えています。その際の話なのかもしれませんが、彼女が中国系だという話は日本ではまったく聞きませんし、彼女が自分で「楊貴妃の末裔だ」と言ったという話も到底信じられません。通訳による誤訳でしょうか?

なぜ中国人が山口百恵という、きれいで魅力的ではあるけれど絶世の美女と言うほどではない一日本人女性を楊貴妃と結びつけたのか、いや、中国人が結びつけたとは限りませんが、だとしてもなぜこの話が笑い話で終わらずに中国で長く語り継がれているのか、とても興味深い現象です。

楊貴妃をテーマとした文学と演劇

楊貴妃をテーマとした文学作品や演劇は数えきれないほどたくさんありますが、ここでは代表的なものをいくつか紹介しましょう。

唐詩『長恨歌』(白居易)

楊貴妃をめぐる文学作品の代表的なものとしては唐代の詩人・白居易(はく・きょい)による『長恨歌ちょうごんか』です。全120句の七言歌行。玄宗の楊貴妃への想いの深さと彼女を失った痛恨の情を歌ったもの。

戯曲『長生殿』

長生殿
長生殿。

長生殿ちょうせいでん』は清代の戯曲で2巻50場。洪昇作。楊貴妃の故事をめぐる昆曲の名作。前半で楊貴妃の栄華とその最期、後半で彼女の仙界の物語。玄宗と楊貴妃二人の永遠の情愛をテーマにしています。

戯曲『梧桐雨』

『梧桐雨』(ごとうう)は元代の戯曲で白樸(はくぼく)の作。『長恨歌』のストーリーに沿った作品で、元の雑劇を代表する名作です。