春秋【儒教の経典『春秋』の特徴と内容の解説】

春秋

春秋』とは儒教の経典で、元は春秋時代の国の記録であり、それを孔子が編集したとされるものです。『春秋』には注釈をつけた書が3冊あり、そのうち『春秋左氏伝』が最も有名です。

※上の写真は魯の国の首都であった曲阜。

※このページでは書籍としての『春秋』について扱います。時代としての春秋時代については以下のページで扱っています。

春秋とは

春秋』とは、春秋時代(BC.770~BC.5世紀)の魯の国の隠公元年(BC.722)から哀公14年(BC.481)まで、12公、242年間の歴史書です。もと魯国の歴史官が記録してきたもので、それに孔子が善悪を反映させて手を入れ編集したとされています。四書五経の1つで、儒教の経典です。

春秋時代の地図
春秋時代の地図。魯は右上に位置しています。

『春秋』には「伝」と呼ばれる解釈のための書物が3つあり、中でも「左氏伝」が有力で、四書五経の中の『春秋』といえば『春秋左氏伝』を指します。『春秋左氏伝』は古来偽作の疑いがかけられていますが、中に含まれる数多くの歴史説話は今でも面白い話がたくさんあります。

春秋に関しては「春秋の筆法」という有名な言葉がありますが、これが意味するところの1つは事実を述べるのに主観的な価値観を入れる書き方のこと、もう1つは厳しく批判する書き方ということです。

『春秋』の特徴と孔子の覚悟

『春秋』の内容のうち、魯国の記録として歴史官が書き残したものは、天災や戦争、会盟などについての淡々とした記録です。

この記録に対して孔子は「大義」(人としての道、正しいありかた)や「名分」(名称に応じた立場)の原則にのっとった是非や善悪を反映させて編集しました。これがすなわち『春秋』です。

孔子は『論語』の中で『春秋』に対し「我を知るものはそれただ春秋か。我を罪するものもそれただ春秋か」と述べています。「私を理解するものも批判するものも、ただこの『春秋』によってのみだろう」という意味です。

というのも孔子は『春秋』の中で、大義名分の原則に照らして、世の乱臣(君主を弑する者)や賊子(父親を害する者)の罪悪や過ちを記し、こうして彼らに「筆誅」を加えたからです。

「筆誅」(ひっちゅう)とは人の罪悪や欠点を書いて責め立てることですが、このことにより世の乱臣や賊子は「自分もこうして歴史に悪名を残すのではあるまいか」と恐れるようになりました。

孔子は、『春秋』という天子の仕事に対して、自分が上記のようなことをするのは僭越であるとして、「私を批判するものもただこの『春秋』によってのみだろう」と述べたのです。

春秋の筆法

「春秋の筆法」という言葉は今も使われていますが、これはこの『春秋』の書き方に由来します。

「春秋の筆法」には2つの意味があり、1つは事実を述べるのに主観的な価値観を入れる書き方のこと、もう1つは厳しく批判する書き方ということです。

春秋三伝

『春秋』は元々は魯国の年代記であって、それが単なる年代記でないことを示すために、周末から漢代にかけて「伝」(解説)が3つ作られました。「左氏伝」(さしでん)、「公羊伝」(くようでん)、「穀梁伝」(こくりょうでん)です。

四書五経の中の『春秋』といえば、普通『春秋左氏伝』を指します。つまり解説付きの『春秋』です。

左氏伝

左氏伝の作者は孔子と同時代に生きた左丘明とされていますが、それより後代の戦国時代に書かれたものだという説もあります。

左氏伝は史実を詳しく記述し、史実説話の宝庫ともいわれ、古来日本人にも大きな影響を与えてきました。

公羊伝

公羊伝は、戦国時代に子夏(しか…孔子の弟子)の門人・斉国の公羊寿が書いたといわれます。前漢景帝の時代に公羊寿の玄孫・公羊寿とその弟子・胡母子都が公羊寿の述と伝わるものをまとめたとの説もあります。

公羊伝は独特の思想体系を持つといわれ、特に清代に盛んに研究され、中国の近代革命の原動力の1つともなりました。

穀梁伝

穀梁伝は戦国時代に子夏の門人である魯国の穀梁赤が書いたとされます。三伝の中では本文(もともとの文)の意図を最もよく解説しているといわれています。

『春秋左氏伝』について

左氏伝は、公羊伝や穀梁伝より後の時代に作られました。

漢書』劉歆(りゅう きん)伝によると、前漢末から新にかけての学者・劉歆は王朝に秘蔵されている書物を調べていた時に、古文で書かれた『左氏伝』を見つけました。

そこで劉歆はこれに古い文字や古い言葉の注釈をつけ、さらに『左氏伝』に書かれていた歴史的な記述を本来の『春秋』と合わせてまとめ『春秋左氏伝』としました。

これに対し五経博士(前漢の学官。儒教経典の教学に従事する)からの攻撃を受け劉歆は左遷されるのですが、王莽によって新が建国されると、王莽から信頼されて復活します。

漢代では、秦の「焚書坑儒」を免れた書物をめぐって古文派対今文派という学閥の対立が続くのですが、劉歆は古文派として今文派とくに今文派の公羊学者からの激しい攻撃を受けました。

「劉歆はニセの『左氏伝』を使って、新しい伝をでっちあげ、博士官の地位を狙っている」というものです。

劉歆による『左氏伝』偽作論は近年に至るまで続くのですが、一方擁護派は「もし『左伝』の記述がすべてニセモノならば、春秋時代の歴史はすべて空白になる」と言います。

それほどまでに『左氏伝』には春秋時代の史実に基づいたと思われる記述(すべて真実かどうかは別として)が豊富に入っているということでしょう。

『春秋左氏伝』を読んでみる

それでは実際の『春秋左氏伝』の一部(日本語訳)を読んでみましょう。

最初に「隠公元年」の記録があり、その記録の最初の方に「夏五月、鄭伯、段に鄢に克つ」とあります。これが『春秋』の経文、すなわちある年(これはBC.722)の記録です。この記録に左氏伝は解説をつけます。これが伝文です。この伝文のおおよそを下に紹介します。

鄭の武公の夫人である武姜は男子を2人生んだ。上は荘公、下は共叔段である。荘公は逆子で生まれたので、母武姜はこれを憎み、下の共叔段を可愛がってこれを太子にしようと思った。夫武公に頼んだが、武公はそれを許さなかった。

荘公が即位すると、母武姜は荘公に制のまちを段にやってくれと頼んだが、荘公は「制は険要の地なのでやれませんが、他のまちならどこでも母上のおっしゃる通りにします」と言った。それなら京をと言うと、共叔段は京にいることが認められ、京城大叔と呼ばれた。

大臣の祭仲は京の規模が大きすぎるので荘公に懸念を伝えると、荘公は母上がああ言うのだからと聞き入れなかった。

祭仲は、武姜の欲に限りないことに対して更に懸念を伝えた。ところが荘公は「様子を見てみよう」と取り合わなかった。

そのうち段は他の地域を自分に服属させるようになったが、荘公はそれでも様子を見ようと言うばかりだった。

やがて段は鄭の国都を襲撃する計画を立てた。それを察知した荘公は兵車200両を率いて京に向かった。京が段から離反したので、段が鄢(えん)に拠ると荘公は鄢を攻め、段は共(きょう)に出奔した。

経文「夏五月、鄭伯、段に鄢に克つ」という簡潔きわまりない文にはこのような物語があったと左氏伝では書いているのです。

逆子で生まれた子を憎んだというのは、お産の苦しみがひどかったからでしょうか。それにしてもあんまりなお母さんではありますが、お母さんのえこひいきが血を分けた兄弟どうしの戦争にまで発展したのでした。

左伝はこの教文にさらに注を付け、以下のように書いています。

「鄭伯」に「兄」の文字をつけず、「段」に「弟」の文字をつかなかったのは共に「兄たるの」また「弟たるの」道に従っていないという批判がこめられているからである。「克つ」と書いたのは、これがいくさと同じ状況だったからである。「出奔」という言葉を使わなかったのは鄭伯にも責任があるからである。

この話には以下のような続きがあります。

このいくさの後、荘公は母・武姜を幽閉し、死ぬまで二度と会わないと誓ったが、やがてこれを後悔した。それを知った家来が「地下水の湧くところまで地面を掘り、その隧道を通って母君にお会いになれば、誰も誓いを破ったなどとは言わないでしょう」と言った。

荘公はこのアドバイスに従い隧道を掘ってそこに下り「隧道の内は融けるように楽しい」と歌うと、母・武姜は「隧道の外は楽しさがあふれる」と呼応して、元の母子の仲にもどった。

最後はハッピーエンドでした。