范蠡の生涯【軍師として活躍後に商人へと転身した名将】

范蠡

范蠡(はんれい)は勾践の軍師でたびたび献策をして、との戦いでは越を勝利に導きました。その後は越を離れてや宋に行き、いずれの地でも商売人として成功しました。

※上の画像は范蠡が軍師として仕えた越の首都・会稽(現在の浙江省紹興市)。

范蠡とは

范蠡(はんれい…生没年不詳)は春秋時代に越王・允常やその子・勾践に仕えた政治家・将軍です。当時の越は近隣の呉と比べて劣勢であり、勾践は即位早々呉に敗北して呉王・夫差に仕える屈辱の身に落ちます。許されて越に戻ってからは懸命に力を蓄えて復讐に燃え、范蠡はそうした勾践にたびたび効果的なアドバイスや諫言をして、勾践を導いていきます。勾践もよくこの言葉に耳を傾け、20余年ののち呉を滅ぼして復讐を成し遂げ、諸侯に勾践の名は知れ渡りました。君臣ともに長年の悲願であった呉への勝利をものにすると、范蠡はやがて勾践から命を狙われることを察知して、斉に逃亡しました。逃亡後は政治とは縁を切り、ビジネスの世界で成功し、巨万の富を得ました。

范蠡はまた呉王を陥れるべく呉に越の美女を贈りますが、昆劇『浣紗記』ではそれが中国4大美女の1人・西施だとされ、范蠡と西施のラブストーリーが描かれています。

春秋時代の地図
春秋時代の地図。越は右下に位置しています。
年表
范蠡は春秋時代に活躍しました。

越王・勾践に仕える

范蠡はの出身でしたが、楚では貴族でないと朝廷で活躍できなかったため、越に行きました。越でははじめ越王・允常に仕え、允常が亡くなるとその子越・勾践に仕えました。越の宿敵・呉と戦う際、范蠡はしばしば献策を出し、越による呉滅亡に貢献しました。

最初の奇計

当時越の隣国・呉の王の闔閭(こうりょ)は、有能な軍師である孫武(『孫子の兵法』の著者)や伍子胥の補佐を受け、国家の勢いを増していました。B.C.496に允常が死去すると、勾践が即位して越王となりました。

允常の死を知った闔閭は、越の政権基盤が安定しないうちに滅ぼそうと越に出兵します。この時范蠡は実に奇妙な策を新しい越王・勾践に勧めました。

それは自軍の先頭に決死隊を置き、彼らに呉の国の恩を叫ばせて、その後自刎(自分で自分の首をはねる)というものです。

勾践はこの献策を採り入れ、実際そのようにさせた結果、呉兵はあっけにとられ、しばし戦う手足を止めたところを越軍に襲撃され、敗北したのでした。范蠡の奇襲は成功を収めたのです。決死隊には兵士ではなく囚人を使ったという説があります。

この戦いで闔閭は負傷し、その傷がもとで亡くなりました。死ぬ前に息子の夫差を呼び「きっと仇をとってくれよ」と言い残しました。

その後の諫言

夫差はその後毎晩薪の上に寝て、痛みを感じるたびに復讐の思いを新たにしました。

越の勾践はその話を聞くたびに、再び戦いたい思いにかられます。それを范蠡にいうと范蠡は「いくさはもともと天意に反するもの。先にいくさをしかけた者は不利になります」と止めるのです。紀元前5世紀、今から2500年ほど前の人の言葉です。范蠡は軍師として軍略に長けていましたが、ものごとの本質を見抜く力も備わっていたようです。

が勾践は自分の気持ちを抑えきれずに出陣してしまいました。

その結果越は敗北、勾践は会稽山に逃げ込み、呉軍に包囲されました。

勾践が「范蠡よ、そなたの諫言を聞くべきだった。しかしわしはいったいどうしたらよかろう」と相談すると、「腰を低くして贈り物を厚くし、呉王に許しを請いましょう。それが無理ならそのときは王は自分の身を捧げるしかありません」

越の使者が呉王のもとに出向き、鄭重に越王の命乞いをすると、夫差はそれを受け入れようとします。するとそばから呉の重臣・伍子胥が「呉王よ、それはなりません。天が越を呉に与えたのです」と諫めたので、この交渉は失敗に終わりました。

その後、越側では呉王の側近・伯嚭に賄賂を贈り、伯嚭は呉王に勾践の命を助けるよう言葉添えをして、呉王はその言に従いました。

こうして勾践は夫差のもとで重労働をさせられ、数年後に許されて越に帰ると、苦い肝を毎日なめて再起の誓いをするのでした。

こうした日々、勾践は范蠡に内政を任せようとするのですが、范蠡は「内政なら私より文種の方がお役に立ちます」といって、内政の職は同僚に譲り、自分は越の人質として呉に2年間出向きました。

それから数年が経ち、呉では忠臣の伍子胥が度重なる諫言の不興を買い、夫差から自害を命じられました。勾践は、伍子胥亡き後、呉には伯嚭をはじめとしたおべっか遣いしか残っていないことを知って、范蠡に出兵してもいいかどうか聞きました。

范蠡は「今はまだその時期ではありません」と言うので、勾践はそれに従いました。

その翌年、呉の夫差が、太子と老人、女性、子供を残して北方に出向いたという話を聞き、再び范蠡に出兵してもいいかどうかを聞きました。

今度は范蠡は「よろしいでしょう」というので、勾践は勇んで出陣し、呉の太子の命を奪いました。

この知らせにあわてて戻ってきた夫差は越に和睦を申し入れ、勾践は国力を考えてこの和睦に応じました。

それからまた数年、越の国力は増し、呉の国力は衰えていきました。この機に越は呉を打ち滅ぼし、呉の使者が王・夫差の命乞いに越を訪れました。

勾践がこれに気持ちがゆらぐと、范蠡は「天が呉を越に与えたのです。夫差をゆるしてはなりません」と諫めました。

勾践はそれでも夫差を助けようとするのですが、夫差は自ら命を絶ちました。

こうして22年に及ぶ呉越の戦いは、越の勝利で幕を閉じました。

越を去って商人に

勾践を長きにわたって支えた范蠡の我が世の春が来るはずでした。けれども范蠡はひとり越から去って斉に向かいました。そしてかつての同僚・文種に手紙を送りました。その中で今も残る有名な言葉を使っています。

「飛鳥尽きて良弓隠れ、狡兎(こうと)死して走狗(そうぐ)煮らる」(いくさが終われば功臣は命を奪われる)というものです。

范蠡は長いつきあいの中で勾践の人となりを知り尽くしていました。この王とは困難は共に乗り越えることができるが、平和の世の喜びは共にはできないと見抜いていたのです。

文種ははっとして、病気を装って朝廷に出るのをやめましたが、他の臣下から文種への讒言を受けた勾践は文種に剣を賜わって自害させました。

一方の范蠡は鴟夷子皮(革袋や自由人、罪人という意味を持つ)と名前を変え、斉で商売をして成功し、巨万の富を築きました。

鴟夷子皮が有能であることを知った斉の国では彼を丞相に迎えようとしますが、范蠡は有名になるのは不吉だと財産を人に譲って斉を離れて宋の定陶に行きました。ここでは陶朱と名のり、父子で農作業や牧畜に励んだほか、物資の価格が下がれば買占め、騰貴すると売り出して物資を回転させ、10分の1の利を追い求めました。やがてここでの商売でも成功し、天下に陶朱公の名が広まりました。

西施伝説

さてこの范蠡には、中国四大美女の1人・西施とのラブストーリー伝説があります。

西施はB.C.5世紀ごろに越の国に生まれ、「浣紗」(カラムシの繊維を布にするために水にさらすという意味)をして働いていた庶民の娘でした。

呉王夫差に美女を献上して堕落させようと、ある日范蠡が西施の住む村に美女探しに来て、そこで目にとまったのが西施です。当時はまだ13、4歳の少女でした。西施はみやこに送られ、そこで数年間、舞や礼儀作法などの教養を教え込まれます。17歳になると夫差に献上され、すると范蠡が思ったとおり夫差は美しい西施を寵愛し、政治に興味を失っていきました。

こうして越が呉を討ち、夫差が自害に追い込まれると、用済みになった西施は鴟夷子皮(しいしひ)という皮袋に包まれて長江に沈められたといいます。

時代が後になると、ハッピーエンド説も生まれてきました。それは西施が彼女を呉に送った范蠡の妻となって、西湖のほとりで仲睦まじく暮らしたという話です。

中国の伝統演劇の1つ・昆劇の「浣紗記」では、范蠡と西施のラブストーリーが美しく描かれています。

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