三皇五帝【古代中国の神話の聖人たち】
三皇五帝とは中国の神話や伝説に登場する人物で、三皇は一般に伏羲(伏犠)、神農、女媧を指します。五帝は黄帝、顓頊、帝嚳、堯、舜を指します。
三皇五帝ともさまざまな伝説、神話が残されています。
※上の画像は三皇の1人・神農が薬草を摘むため訪れたと伝えられている地域(神農架林区)。
三皇五帝とは
三皇五帝とは、中国古代伝説の中の三人の聖人と、同じく古代伝説上の五人の聖人のことをいいます。中国の歴史は古くは常にこの「三皇五帝」から語られてきました。
三皇とは
三皇とは中国古代伝説の中の三人の聖人のことで、誰を指すかについては諸説あります。たとえば後漢末の『風俗通義』という書物によると「伏羲」(ふっき)・神農(しんのう)・女媧(じょか)とされています。
伏羲は易の八卦の考案者であるとともに漁や牧畜を民衆に教えました。
神農は薬草の効能を人々に教えるとともに農業を広めました。
女媧は黄河流域の泥から人間を作り、天が崩れ落ちた時にはそれを修復しました。
紀元前に書かれた司馬遷の『史記』はこの三皇については触れず、この後の五帝から中国史を書き始めています。三皇は伝説・神話のたぐい、一方五帝の方は歴史上の人物として取り上げる価値があるという判断だったと思われます。
五帝とは
五帝は三皇と同様古代中国の伝説上の五人の聖人のことで、誰を指すかについてはこちらも諸説あります。
司馬遷『史記』の五帝本紀の中では「黄帝」(こうてい)・顓頊(せんぎょく)・帝嚳(ていこく)・堯(ぎょう)・舜(しゅん)の名が挙げられています。
三皇について
三皇は一般に「伏羲」(ふっき)・神農(しんのう)・女媧(じょか)の三人とされています。それぞれ中国神話の主人公たちと言ってもよく、伏羲と女媧はペアで語られることが多く、人間の頭と蛇の体を持っている夫婦神とも言われています。女媧はまた黄河のほとりで泥土から人間を作ったという神話の主人公でもあります。神農はお腹の臓器が透明で外から中を見ることができ、この体を使って薬草の効能をチェックしたといいます。
伏羲と女媧は少数民族の祖先?
伏羲と女媧は中国の少数民族・苗(びょう)族の先祖だという説もあります。苗族には「兄妹か姉弟の父が雷公と戦った」「雷公は洪水によって攻めた」「洪水で人類は滅び、この兄妹(姉弟)だけが生き残った」「兄妹(姉弟)は夫婦となって子孫を残した」という伏羲・女媧に関する伝承があります。
三皇は非主流派の神々?
農業や薬草の神様・神農はその子孫が阪泉(はんせん)で黄帝と戦って敗れ天下を失ったと『史記』にあります。
「黄帝」は中原(ちゅうげん…黄河中下流域の平原のこと。またこの一帯に興った古代中華文明の中心を意味することもある)出身。つまり中国正統の皇帝であり、一方神農はそれに挑戦して敗れた存在とされ、こうしたことから三皇五帝のうち前の三皇(異民族の祖先神・伏羲と女媧、そして神農)を非主流派の神話的存在、後ろの五帝を中華文明正統派の神話的存在と捉える見方もあります。
現代の中国人はしばしば自分たちを「炎黄子孫」であると誇らしげに言い、これは中華文明正統の継承者であるという意味ですが、実は炎は炎帝を指し、炎帝とは神農のこと、黄は黄帝を指します。数千年の時を経て、神農も女媧も伏羲も中国文明の祖先神になったということかもしれません。
五帝について
司馬遷は『史記』を「五帝本紀」すなわち五帝の事跡から始めました。その前の三皇…伏羲・女媧・神農は歴史上の人物とは認めなかったのです。司馬遷と同時代の知識人たちは「五帝」のトップバッター・黄帝のことも実在の人物とは思っていなかったようですが、司馬遷は『春秋』(しゅんじゅう…儒教の経典の一つ。歴史書)や『国語』(こくご…歴史書)というきちんとした書物が黄帝について取り上げていることを鑑みて、「みな虚ならず」(すべて虚構であるとは限らない)、「おもうにただ深く考えざるなり」(黄帝の事跡を荒唐無稽な話として無視するのは、なぜこれらの書物が取り上げたのかその意味を深く考えないからだ)として、『史記』の始めで黄帝を取り上げ、伝承されているもののうち、まともな内容であると思われるものを選んで記した、と書いています。
こういう話を読むと現代の歴史学者の言としてもおかしくなく、古代中国の文化レベルの高さに驚かずにはいられません。
黄帝と徳
黄帝について『史記』では次のように書いています。
後の黄帝・軒轅(けんえん)は子供の時から神霊があり、幼い頃から言葉を話せ、大人になると聡明な人間になった。当時は神農の子孫の時代だったがその徳は衰え人望を失っていた。諸侯は互いに討伐し合っていたが神農の一族はそれを征伐できなかった。そこで軒轅が征伐した。諸侯は徳のある軒轅に服従したが蚩尤だけは暴虐で征伐できなかった。炎帝(神農の子孫)が諸侯を侵略しようとしたので、諸侯はみな軒轅に服属した。軒轅は徳を修め、兵力を整えて炎帝と阪泉の野で戦いこれを破った。
その後蚩尤が乱を起こし軒轅の命令を聞かなかったので、黄帝はこれと涿鹿(たくろく)の野で戦い、とらえてその命を奪った。この後諸侯は軒轅を天子・黄帝として尊び、神農の子孫と替えた。
黄帝の後は顓頊(せんぎょく)・帝嚳(ていこく)・堯(ぎょう)・舜(しゅん)の4帝が後を継ぎ、この4人はすべて黄帝の子孫だったとされています。
司馬遷は三皇五帝の次、夏王朝の始祖、そして殷王朝、周王朝、秦の始祖もすべて黄帝の子孫としており、中国の為政者はすべて徳を持っていた黄帝の子孫でなければならない、中国が中国たり得るためには徳を持った黄帝から始まらなければならないとして、『史記』の最初に「黄帝」を書いたといわれています。
堯・舜
堯・舜は日本人にもよく知られていますが、顓頊・帝嚳という帝はどういう天子なのかあまりよくわかりません。いずれも徳のある天子ということです。
堯と舜という二人の天子については「禅譲」が有名です。堯が自分の息子に位を譲らず舜を天子の位に立て、これを禅譲といいます。東照宮の白く美しい唐門に舜帝の彫刻がありますが、徳川家康は武力で権力を打ち建てたのではなく、豊臣家から徳ある家康に禅譲されたのだという意味がこめられているという説があります。東照宮は家康の孫・家光が建てていますので、お祖父さんの偉大さを強調するのに儒教が崇める聖王、堯・舜にあやかったのかもしれません。
ところがこの有名な堯・舜の名は『詩経』や『書経』(「堯典」という堯を扱った項目はありますが、これは後世追加されたもの)という古い書物にはまったく出てこないのです。そこで堯・舜は後世作られた理想の人間像なのではないかとも言われています。
堯・舜の物語
堯は鯀(こん)に命じて治水工事を行わせるのですが失敗してしまい、舜が禹に同じ仕事を命じるとみごとに成功します。堯は自分の娘二人を舜に嫁がせると二人とも舜によく尽くしたので、堯は舜を立派な人物と認めて後継者にします。堯には息子もいたのですが「あれは頑凶」だからダメだと言って後継者からはずしてしまいます。「頑」に徳はなく「凶」は訴訟好きという意味のようで、要するにトラブルメーカーだったのかもしれません。
堯は自分の息子に世襲させず、徳を重んじて人望厚い舜を後継者にしたことで儒家から高い評価を得ています。儒家がそういう人物として堯舜を作り上げたのではないかという説もあります。
舜は帝となってから南に巡幸するのですがその途中で亡くなります。二人の妻が急いで駆けつけるのですが、この妻たちもまた湘水(しょうすい…湘江 洞庭湖に注ぐ長江支流)で身を投げたか船が転覆したのかでここで亡くなってしまいます。姉の方は湘君、妹の方は湘夫人と呼ばれ、今では水神となって祭られています。この姉妹の名は屈原の『九歌』に登場し、また李白の詩『洞庭湖に遊ぶ』にも出てきます。