司徒の歴史と役割【古代中国の財産や教育の管理者】

司徒

司徒しとは古代中国の官職名、役人の名称です。いんの次のしゅうの時代に登場しましたから古くからある官職名です。

司徒とは

司徒(しと)は古代中国の官名です。古くからある名称で、伝説王朝の時代には(ぎょう)の元で(しゅん)が「司徒」だったとされています。舜が帝位につくと契(けい…伝説の五帝のひとりである帝嚳…ていこく…の子)を「司徒」に命じ人民の教化に当たらせました。

歴史に登場する王朝では西周時代(B.C.1045~B.C.771)に「司徒」という名称が初めて現れます。中国の朝廷でトップに立つのは皇帝、その次に来るのが三公で、「三公」とは皇帝の側近のこと。これが意味する役職は時代によって変わります。この三公の次の地位が「司徒」で、田土(たつち)・財貨・教育などの管理を担当しました。

金文(きんぶん…青銅器に刻まれたり、鋳(い)こまれたりした文字)では「司徒」は「司土」となっていて、「司徒」が元は「田土の司」…つまり田土などを管理した官職であることが文字からわかります。

時代による「司徒」の変遷

上記したように、「司徒」は西周時代には田土や財貨、教育などを担当しました。また戦時における道路工事や築城の管理者、さらには軍事の統率者になることもありました。

春秋時代(B.C.771~B.C.403)には、土地を管理する職務は「司空」(しくう)が受け持ち、「司徒」は専ら民事を管理する職務となりました。戦国時代(B.C.403~B.C.221)になると、戦国七雄のうち魏だけが「司徒」という職務を置きました。

前漢(B.C.206~A.D.8)末期の哀帝(B.C.26~B.C.1)の時代には、それまで三公のひとつだった丞相(じょうしょう…戦国時代最も地位が高かった官僚)を「大司徒」という名称に換えました。

前漢末から後漢初めにかけては、「大司徒」・「大司馬」・「大司空」が三公と呼ばれました。

後漢の光武帝(B.C.6~A.D.57)の時代には「大司馬」を廃して「太尉」を置き、「大司徒」という名称は再び「司徒」に戻ります。この時代は「太尉」「司徒」「司空」が三公と呼ばれました。これらを現在の行政名にすると「太尉」は国防長官、「司空」は財政長官、そして「司徒」は行政長官に当たります。「三公」の下には「九卿」(きゅうけい)と呼ばれる9つの官が置かれ、三公の仕事を補佐しました。

この九卿には、外交事務を司る「大鴻臚」(だいこうろ)、司法や刑罰を司る「廷尉」(ていい)、宮馬の管理を司る「太僕」(たいぼく)などがありました。

「大鴻臚」と聞くと、福岡の「鴻臚館」を思い浮かべる人がいるかもしれません。「鴻臚館」とは飛鳥・奈良・平安時代に外国の使節を迎えた迎賓館のことで、福岡には今も「鴻臚館」の遺跡があります。外交施設になぜ「鴻臚館」という難しい漢字を使った名称がつくのか不思議だったのですが、これは三国時代に始まるこの「大鴻臚」に由来を持つのでした。

後漢末の三公である「太尉」「司徒」「司空」という行政制度は、208年に三国志で有名な曹操によって廃され、曹操は三公に換えて「丞相」という地位を置き、自らこの地位に就きました。

後漢滅亡後、曹操の子で220年に魏を建国した曹丕(そうひ…A.D.187~A.D.226)は、司徒を含めた三公制度を復活させますが、この時代の司徒は三公制度の他の役職同様、実権なき名誉職にすぎませんでした。

有名な司徒

「司徒」という官職名で印象に残る有名人に、『三国志』や『三国志演義』に登場する王允(おういん…137~192)がいます。『三国志演義』は、当時の司徒である王允が暴虐極まりない董卓をその義子である呂布と結託として滅ぼす場面から始まります。美女貂蝉(ちょうせん)や英雄呂布とともに舞台回しのような王允が印象的ですが、実在の王允も後漢末期の混乱の中で実権を握った董卓から司徒に任命されています。やがて暴虐の限りを尽くすようになった董卓に司徒の王允は憂慮を深め、仲間と思案の末、董卓の義子・呂布を仲間に引き込んで彼を刺客とし董卓を討たせます。

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