楼蘭の歴史と伝説【ロプノールの畔に存在したオアシス国家】

楼蘭

楼蘭」(ろうらん)は紀元前から紀元5世紀くらいまで存在したシルクロード沿いのオアシス国家で、ロプノールという塩湖のほとりにありました。紀元6世紀には中国の歴史書からその名は消え、20世紀初頭に探検家ヘディンによって遺跡が発見されました。

※上の写真は楼蘭が存在したと思われる辺りの砂漠。

楼蘭とは

楼蘭とは、中央アジアにあるタクラマカン砂漠の北東部でタリム盆地の東端…現中国新疆ウイグル自治区チャリクリク…にかつて存在した都市の名前でもあり、国家名でもあります。楼蘭王国は紀元200年から400年にかけて繁栄したといわれています。

「楼蘭」は古代中国が現地名の音訳としてつけた都市名・国名であり、現地名は「クロライナ」です。前漢西域と交流を持つようになると、地域の大国・匈奴のはざまで双方の支配を受けました。6世紀には歴史から消え、1900年にスウェーデンの探検家ヘディンによって、翌年イギリスの探検家スタインによって遺跡やミイラが発掘されました。近年日本もかかわった発掘では「楼蘭の美女」と呼ばれるミイラが見つかっています。

楼蘭の地図
楼蘭の地図。

楼蘭とロプノール

かつて中央アジアのシルクロードに点在したオアシス国家は50以上ありましたが、その中の一つに過ぎない「楼蘭」というかつて存在した都市国家は、なぜか不思議な魅力で現代日本人を惹きつけます。

楼蘭は「ロプノール」という塩湖のほとりにありましたが、20世紀初頭の探検家ヘディンが楼蘭遺跡を発見した際、干上がったロプノールの跡を見て「今はここにはないが、いずれロプノールはまたこの場所に戻ってくる」と予言。

それから数十年後ヘディンは自分の予言通り、楼蘭遺跡のそばに水を満々とたたえたロプノールを発見します。

ヘディンは、ロプノールに流れ込む川の川床に砂などがたまると川筋が変わり、その結果ロプノールは「さまよえる湖」になると説明しました。

こうしてタクラマカン砂漠の奥に砂に埋もれた楼蘭王国の遺跡があり、そのそばに「さまよえる湖」があるという幻想的な物語が世界に伝わりました。

古代中国の歴史は多くの日本人作家の創作欲を刺激し、中国古代史に着想を得て数多くの小説が描かれていますが、井上靖の『楼蘭』もその一つです。

この小説では、今は砂に埋もれてしまい町の一部しか残っていない楼蘭の2000年前の姿が史実に沿って描かれ、古代楼蘭人が砂漠の蜃気楼の向こうから現れてくるような印象を受けます。

1980年のNHKドキュメンタリー『シルクロード』は、戦後初めてシルクロードを訪れた外国人として秘密のベールに閉ざされていたこの地を取材放映し、大きな反響を呼びました。第5回の「楼蘭」では、中国の考古学者によるミイラの発掘場面を映し出し、この時発掘された4000年ほど昔の女性のミイラは後に「楼蘭の美女」と呼ばれるようになりました。

広大な砂漠を行くラクダの隊商、砂漠の中をさまよって場所を変えるという湖、砂に埋もれた古城、そこで発掘された美しい女性のミイラ…緑豊かな島国日本に住む日本人にとって「楼蘭」の世界はあまりにかけ離れていて、なんとも惹きつけられる存在なのです。

中国の歴史書と欧米人が書いた書物

この楼蘭について中国側から見た歴史書と欧米側から見た書物では、同じ場所とは思えないほど視点も解釈も異なることがあります。これらを足して2で割っても楼蘭はよく見えてきません。こうした印象はシルクロード全体の本を読んでも同じです。

また地名も全く異なります。中国側から書かれた本に出てくる地名はすべて漢字ですが、欧米側から書かれた本に出てくる地名はすべて漢字音にほど遠い音を持つカタカナです。

大月氏、大宛、大夏、条枝、黎軒、安息、楼蘭、姑師、塩沢、疎勅、葱嶺…

これらは中国の歴史書に出てくる西域…シルクロード周辺の地名などの中国語ですが、これをこの順番どおり欧米の書物に出てくる地名で並べてみましょう。

ソグディアナ、フェルガーナ、バクトリア、シリア、アレキサンドリア、パルチア、クロライナ、トルファン、ロプノール、カシュガル、パミール高原…

こうして並べてみると同じ場所だとはとても思えない印象が残ります。

名前だけでなく、ここの場所の歴史やその解釈でも、中国側の視点と欧米の著者の視点では東西それぞれが異なるシルクロードを見ているかのような印象を受けることがあります。

これはまた中国の歴史書がその時代に近い時期に書かれたものであり、欧米の著者の本は近代あるいは現代に書かれたものである、という違いからも来ているのかもしれません。

中国の歴史書が描く楼蘭

前漢武帝のもと、公式の使者として初めて西域を訪れた張騫は、行きも帰りも西域を勢力圏とする匈奴の捕虜になって長い時間を過ごします。張騫が無事長安に戻り、その冒険譚を武帝に物語ってから、漢と西域の交易が始まりました。

の使節として多くの中国人が西域を訪れ、漢を訪れる西域の人々も増えました。

そうした中、漢の使節はしばしば西域のオアシス国家から迫害を受け、命を奪われることもたびたびあったといいます。

その理由としては一つに漢の使節のレベルの低さにありました。交易の利益を求めて使節になりたがる人が多くても、厳しい道のりからそのほとんどは教育のない貧民出身者だったのです。

楼蘭に使節として送られた人々は、楼蘭が内通しているらしい匈奴の襲撃に遭い、このことを武帝に報告して「西域国家は武力が弱い。漢が攻めれば簡単に落とせます」と伝えました。

武帝はこの上奏を聞き入れ、趙破奴という名の部下を送り込んでBC.111にまずは匈奴を討たせ、翌年は楼蘭と姑師(トルファン)を討たせて楼蘭王を捕らえました。

匈奴はこの情報を聞くと、漢の兵士が引いたとたんに、精鋭の騎兵を南下させて楼蘭を攻撃しました。

そこで楼蘭王は子供の一人を人質として漢に送り、もう一人はやはり人質として匈奴に送ります。弱小国楼蘭は両国の間で両方の顔色を伺うという国家経営を強いられたのです。

BC.77漢の昭帝は西域タリム盆地の完全支配をもくろみ、親匈奴政策を採っていた楼蘭に刺客を放って王・安帰を暗殺させ、その弟・尉屠帰に楼蘭の国名を鄯善(ぜんぜん)と改名させ、漢の傀儡王国としました。

後漢の時代に書かれた前漢の歴史書『漢書』西域伝には、楼蘭について以下のように記されています。

「鄯善国はもと楼蘭という名前で、この国は陽関から1600里、長安から6100里のところにある。家は1570戸、人口は14100人、兵士は2912人いる」。

ここの土地は砂漠や塩湖が多く、田が少ない。

近隣国の土地を借りて耕し、穀物も輸入している。

玉を産し、植物は胡桐、タマリスクなど。

人民は牧畜を行い水草を求めて暮らしている。ラクダが多い。戦いに巧みである…などと書かれています。

兵士の数まで書かれているのは、漢が西域支配のために置いた役所・西域都護が、西域で軍事活動が必要になった際こうしたオアシス国家の兵士を動員することになっていたからだといわれています。

欧米側の視点と現代から見た楼蘭

欧米人の手によるシルクロードの本の1冊では、楼蘭はまず遺跡の発見地として書かれています。そしてその名は「クロライナ王国」です。

楼蘭はまず1900年にスウェーデンの探検家ヘディンによって、翌年イギリスの探検家スタインによって発見された地として説明されます。

今から100年以上前のことで、中国は清朝末期でした。

場所の説明としては、「中国の辺境の見捨てられた地域」で「現在は核実験の跡地」となっており、ここに足を踏み入れるのは考古学の専門家くらいである、と書かれています。

中国の史書にはもちろん「現在核実験の跡地」などという説明は出てこないので、新鮮な驚きがあります。

逆に中国側からすれば、史実に残っている中国の影響が及んだ古代西域国家が20世紀にヨーロッパ人によって「発見された」というのは、アメリカ原住民が住んでいた土地がコロンブスによって「発見された」というのに似た屈辱感があるのではないでしょうか。

ただしこの地が古来中国の土地であったというのは、順を追って中国の歴史を読めば微妙で、現在のチベットやウイグル問題につながる問題です。欧米側の本の1冊はこの辺にも踏み込んでいて、中国の歴史物といえば、楽しんで読んでいるだけの日本人読者にはこれもまた驚きです。

いずれにせよかつて漢が匈奴と支配を争った西域国家は今、中国という多民族国家の中にあって少数民族が多く住む地域…「新疆ウイグル自治区」となり、核実験に使われる(或いは使われた)場所になっている…という事実があります。

ちなみに「新疆」という難しい漢字の意味は「新しい国土」。

清朝の乾隆帝時代にこの地は平定され、清の新しい領土となったことにちなみます。

ヘディンやスタインが発掘した楼蘭遺跡

ヘディンやスタインが「発見した」楼蘭遺跡では古代の住民のミイラが100体ほどみつかっています。

極度に乾燥した気候が作った自然のミイラですが、これらは金髪だったり、ヒゲが赤かったり、肌の色は白く身長は高く、明らかにコーカソイド(白人種)の特徴を持っていました。

またここからは漢字やカロシュティ文字(インドのガンダーラ地方で使われていた文字)で書かれた木簡や紙切れが発見され、3世紀後半から4世紀初めにかけて、後漢の後を継いだ魏や西晋の軍隊が楼蘭に駐屯していたことを示しています。

またインド系の人々がいたことも伝えています。

貨幣に使われた絹も発見されており、中国の役人が地元の住民から穀物を買うのに使われたと考えられています。

楼蘭の最後

楼蘭という町は376年に突然放棄されたといわれています。

なぜ放棄されたのかははっきりとはわかっていません。ただこの時代に環境の悪化がありました。

楼蘭の町の近くのニヤでは、住民がまた戻ってくるつもりで穀物を隠していた形跡が残っています。こちらは他の部族の襲撃を受けたのではないかと推測されています。

井上靖の『楼蘭』ではこれよりずっと昔、前漢の時代に漢の兵士に襲われ、楼蘭城の人々が急ぎ町を離れていく姿が描かれています。

ロプノールという美しい湖への楼蘭人の愛着とそれを失う悲哀が、読者はロプノールのその後を知っているだけに印象に残ります。

楼蘭王国の後の名前、鄯善国は450年に北魏に征服され、その20年後には遊牧民族・柔然によって占領されました。

紀元500年以降になると鄯善の名前は中国の歴史書から消えます。

それとともに楼蘭がルートの端にあったタクラマカン砂漠の南寄りルートは使われなくなり、シルクロードの旅人は北側ルートを使うようになりました。