戦国七雄【古代中国・戦国時代の主要7か国の歴史・地図・年表】

戦国七雄

戦国の七雄とは、古代中国戦国時代に各地に割拠した7つの大国……です。春秋時代は数多くの諸侯国がありましたが、いくさを繰り返し、戦国時代にはこの7つの国にほぼ収斂されました。この中でさらに戦いが続き、合従連衡策によってさまざまな同盟が組まれましたが、最後に秦が勝ち、中国全土を統一しました。

※上の画像は春秋時代の大国・晋の祠です。一般的に晋が趙・魏・韓の3国に分裂した時点を戦国時代の始まりとしています。

戦国七雄とは

戦国せんごく七雄しちゆうとは、戦国時代(BC.475~BC.221)に中国の大地に割拠していた7つの大国、しんせいえんちょうかんをいいます。

戦国時代の地図
戦国時代の地図。

春秋しゅんじゅう時代じだい(BC.770~BC.476)、の諸侯(大名)国は数多くありましたが、やがて大国としては上記7国に収れんされていきます。戦国時代はその7つの国が戦いを繰り広げ、最後は西の雄・秦によって中国大陸は統一され、ここに秦王朝が始まりました。

戦国七雄が活躍した時代とは紀元前の中国で起きたダイナミックな時代であり、現代に生きる私たちと本質的に変わらない、生々しい人間ドラマが繰り広げられた時代です。

年表

戦国七雄と呼ばれる国々

戦国七雄と呼ばれる国々の位置等を下に挙げます。

:陝西省 都は咸陽(かんよう…現在は咸陽市)  BC.206滅亡。

:湖南省・湖北省を中心とした広い地域 都は郢(えい…現在は荊州市) BC.223滅亡。

:山東省一帯 都は臨淄(りんし…現在の淄博市) BC.221滅亡。

:河北省・東北地方南部 都は薊(けい…現在の北京) BC.222滅亡。

:中原(古代中国の中心地域。黄河中下流域)都は邯鄲(かんたん…現在の邯鄲市) BC.228滅亡。

:中原 都は大梁(たいりょう…現在の開封市)BC.225滅亡。

:中原 都は鄭(てい…現在の鄭州市南) BC.230滅亡。

戦国時代の歴史の流れ

戦国時代250年の歴史の流れを記しておきましょう。250年といえば江戸時代とほぼ同じ長さです。古代的な氏族制社会・同じ祖先を持つグループを単位とする社会から、中央集権社会・秦王朝へと収れんされていく過程でもあります。

最初の覇権国家・魏

春秋時代の大国・晋はBC.403に趙・魏・韓に分裂し、この中で最初の覇権国家となったのは魏です。戦国きっての名君とされる文侯のもとで、李克・西門豹・呉起など優れた人材を活用し国力を高めました。

百年後を見据えた灌漑工事や穀物の価格調整による農民の生活の安定など、現代にも通じる政策に取り組みました。一方、後に秦で活躍する商鞅(しょうおう)や笵雎(はんしょ)、孫臏(そんぴん)など有能な人材を重んじようとせず、外国に流出させ、こうしたことから魏は徐々に衰退していきました。

次の超大国・秦

衰退していく中原の魏に代わって躍り出たのは当時の辺境国家・西方の秦です。

秦は春秋時代の穆公の時に一度強国となりましたが、やがて魏に押されていきました。

孝公の時代に、秦を再び強国にと人材を諸国に求め、それに応じたのが魏の商鞅で、彼によって秦は変法とよばれる大胆な改革を行いました。

民衆への直接支配を強めるとともに、いくさで活躍すれば身分がどうあれ出世できるようにし、こうして秦は富国強兵の道を歩み始めました。

昭襄王の時代になると、魏の笵雎が秦に亡命して、秦の改革をさらに推し進めました。

彼の提唱した「遠交近攻政策」により、秦から遠い斉や楚とは友好関係を結び、近い魏や韓は攻め、領土を奪い取りました。

こうしたいくさで活躍したのが秦最強の将軍といわれる白起です。

始皇帝親政

のちの始皇帝・政の親政時代になると、前の世代が作り上げた強固な君主制度のもとで次々と戦国七雄を滅ぼしていきました。

最初はBC.230の韓、その後BC.228に趙、BC.225に魏、BC.223に楚、BC.222に燕と次々と滅ぼし、最後に残った斉をBC.221に滅ぼして中国を統一します。

こうして戦国七雄の時代は終わりを告げ、始皇帝による秦王朝が始まりました。

戦国時代を表すいくつかのキーワード

戦国時代といえば時代を物語るいくつかのキーワードがあります。

たとえば「合従連衡」(がっしょう れんこう)「縦横家」(じゅうおうか)「遠交近攻」(えんこうきんこう)「戦国四君」(せんごくしくん)など。

合従連衡

「合従連衡」とは戦国時代の外交政策のことです。

戦国七雄の中で秦が抜きんでた力を持つようになった時、他の六雄は戦々恐々としていました。食うか食われるか、弱肉強食の時代です。

そこで相対的に弱い国が連携して秦に対抗するか、それとも秦と個別に同盟を結んで生き残るかという策を縦横家が唱え、前者を合従、後者を連衡と呼びました。合従というのは諸国を縦に結ぶという意味です。

縦横家

「縦横家」とは上記の策を唱えた人々のことで、合従を唱えた蘇秦、連衡を唱えた張儀が有名です。

遠交近攻

「遠交近攻」とは、遠方の国は出征すると負担が大きいのでこれと仲良くし、近くの国はその負担が小さいのでこれを攻め滅ぼすという意味です。秦の宰相・笵雎が唱え実行しました。

戦国四君

「戦国四君」とは、戦国時代の有名な政治家のことで、斉の孟嘗君・趙の平原君・魏の信陵君・楚の春申君の4人を指します。彼らは春申君が庶民出身である以外は皆王族の出で、それぞれ数千人の食客をかかえ、知力財力で国際政治を動かして、強大化する秦に抵抗しました。