太公望(呂尚)の活躍と兵法書【釣り愛好家の名軍師】

太公望

太公望といえば日本では釣り愛好家の意味で使われることが多いですが、元々は古代中国、周代に開祖・武王の父である文王に見いだされ、後に文王、武王に仕えた周の軍師・呂尚のことです。攻略に尽くし、この功績によってに封じられ、斉国を建国しました。

※上の画像は呂尚が文王と出会う有名な場面。太公望という名の由来となっている。

太公望とは

太公望(たいこうぼう)とは、紀元前11世紀に西周王朝を打ち立てた武王やその父・文王に軍師として仕えた呂尚のことです。太公望という名は、ある日、呂尚が釣りをしているところに文王が通りかかり、これぞわが父が王を助ける人として待ち望んていたお方だと言ったことから、こう呼ばれるようになりました。「太公」は父、「望」は望むという意味です。

太公望は周の軍師として、武王による・紂王征伐に貢献し、その功績を受けて、後に営丘(現・山東省)に封建されて斉国の祖となりました。斉でも国造りに尽くし、後の春秋の大国・斉の基礎を作りました。

張良劉邦の配下となる前に、黄石公という老人から与えられたという兵法書『六韜』もまた呂尚が書いたものとされています。

年表
太公望は殷~周にかけて活躍しました。

太公望の伝説と名前の由来

太公望といえば、この名の由来を伝える伝説が有名です。周の文王・西伯昌が狩りに行く前に狩りの占いをすると、「今日得る獲物は王の補佐をすることになる人物である」という卦が出ました。するとその日狩りに行く道すがら、川のほとりで釣りをしている老人を見かけました。「王の補佐になる人物」とはこの老人のことだろうかと思って話をしてみると、非常に優れた見識の持ち主です。そこですぐに屋敷に招き、家臣たちに「この方こそ父が待ち望んでいた聖人だ」と紹介したことで、「太公望」(父が待ち望んだ人)という名がつきました。

周には、いつか立派な人物が現れて王を助けてくれるという伝承があり、文王の父はその人の出現を待ち望んでいたのです。

太公望と羌族

太公望呂尚にはいろいろな伝説があるのですが、あまりに多様なため、逆に人物像ははっきりとはしません。

司馬遷の『史記』によると「呂尚の先祖はの治水を助けて功労があったので、呂(河南省)に封じられ呂という姓になったが、本来の姓は『羌』であり…」とあります。

羌は羌族を意味しますが、羌族は中国大陸の西北部に古くから住む遊牧民族で、今も少数民族の「チャン族」として知られています。『三国志』で活躍する馬騰や馬超は羌族です。

名前に「羊」が入っているように羌族は羊を飼っていた民族ですが、匈奴のような戦闘性はあまりなかったようで、から攻め込まれて捕虜になった羌人は、命を奪われ殷の神への供え物にされています。殷への恨みは深く、そこから周と関わりを深めたのではないかといわれています。

周の始祖である后稷の母や武王の妃はどちらも羌族ですので、婚姻関係を通してこの二つの部族は関係を深めていったのかもしれません。

周の武王が殷の紂王を滅ぼす際、羌族と連合を組んでおり、そうだとすると呂尚は、羌軍の代表だったのではないかという説もあります。

太公望は東海の人

『史記』ではまた、呂尚は「東海にいた」とありますので、山東省の海辺で暮らしていたようです。

司馬遷は「呂尚は貧窮して年を取り、魚釣りにかこつけて文王と知り合いになったのだろう」とも書いています。

また「呂尚は博学で、かつては殷の紂王に仕えたが、立派な王ではなかったので諸侯に知遇を求めたが得られず、こうして西に行って周の文王に身を寄せた」という説も紹介しています。

戦国策』には「斉の逐夫」とか「朝歌の廃屠」などと書かれています。逐夫とは「妻に追い出された」という意味です。古代の女性は男尊女卑の中で生きていたのではという思い込みがありますが、夫に働きがなかったのか、他の理由なのか、夫を追い出してしまうおかみさんもいたんですね。

「朝歌」は甲骨文字が発見された殷墟を指し、「廃屠」は肉屋のことです。殷墟のあった場所で肉屋をやっていたという意味になります。いずれにしても後年の優れた軍師としての面影は見えません。

文王・武王の軍師となる

文王に出会うまでの呂尚は下積みの人生を生きてきたようですが、出会ってからは周の軍師として活躍しました。

後年孫子など兵法を説く人物が現れますが、『史記』では、軍事上の権謀術数の祖は太公望呂尚であると書いています。

文王が亡くなった後、呂尚はその子・武王に使え、師尚父(ししょうほ)とも呼ばれました。武王の殷・紂王征伐ではその軍師を務めて活躍しました。

『六韜』

六韜』(りくとう)は兵法書ですが、呂尚が書いたとされています。

『六韜』は「文韜・武韜・竜韜・虎韜・豹韜・犬韜」の6巻に分かれ、全60編です。呂尚が文王や武王に兵法や政治について教えるという形を取っているため、著者は呂尚だとされていますが、軍学思想に一貫性があるとはいえず、呂尚の名をつけた後世の偽作ではないかといわれています。

『六韜』は黄石公と呼ばれる老人によって、劉邦に仕えた張良に授けられ、張良はこの兵法によって劉邦の戦いを助けました。

また日本にも古くから伝わり、7世紀・飛鳥時代の政治家・藤原鎌足や12世紀・平安末期に活躍した源義経が愛読したといいます。

太公望の名が日本で親しまれているのは、こんなにも古い時代から知られてきたことによるのかもしれません。

殷の紂王征伐

武王が紂王征伐に乗り出した時、占いでは不吉な卦が出て、進軍の途中では風雨にも見舞われました。将軍たちはこれを恐れましたが、呂尚は占いなど歯牙にもかけず、武王を叱咤して進軍を続けさせ、軍隊を指揮しました。「遅れるものは斬る!」と命令したといいます。こうして牧野(ぼくや…河南省)で殷軍と対峙しますが、殷軍は奴隷を集めた軍隊ですので、戦意はなく、武器を逆さまに持って戦って武王の味方をしました。殷軍は壊滅的に敗北し、紂王は鹿台という宮殿に入って火を放ち、その火に身を投じました。

武王による殷平定の後の論功行賞で、呂尚は出身地である営丘(現山東省)に封じられ、ここを斉と名付けました。

太公望、斉の祖になる

呂尚は斉に到着すると、政治を整え、君臣の礼はシンプルなものとし、漁業や製塩業を発展させました。こうして斉の民になる者は増え、国家は大きくなっていきました。

周の成王の時代に各地で反乱が起きると、討伐を命じられた斉は反乱した諸侯を征伐して、さらに国家を強大にし、営丘をみやこにしました。

呂尚が亡くなった時は百歳を超えていたのではないか、と司馬遷は書いています。

貧窮して東のふるさとを離れ、西の果てに流れてきた老人が、こうして高齢の身になってから軍師として活躍し、土地を与えられて諸侯(大名)となり、その地を繁栄させて大国にまで導き、百歳を超えて没するとは、どこまでが事実かはわかりませんが、後世の私たちをも勇気づけてくれる人物です。