科挙の歴史【時代ごとの特徴・問題内容・カンニングなど】

科挙

科挙とは

科挙かきょとは、かつて中国で行われていた官吏登用試験・上級公務員試験のことです。隋の文帝が583年にスタートさせ1904年の清末に廃止されました。実に1300年以上続いた試験制度です。584年と言えば日本では聖徳太子が生きた時代です。そんな古い時代に、中国ではすでに「上級公務員試験」が行われていたというのですからその先進性にビックリです。名前はよく聞く「科挙」、その実態はどういうものだったのか紹介しましょう。

「科挙」という名前

「科挙」という名前の由来ですが、かつて中国では官吏を登用することを「選挙」と言いました。「選」は「選ぶ」、「挙」は「推薦する」という意味です。その官吏登用試験にはいろいろな科目があるので、「科目による選挙」すなわち「科挙」という言葉が、唐代にできたそうです。

科挙の具体的な問題内容

科挙という試験には科目その他さまざまなルールがありますが、これは時代によって変わっていきます。おおざっぱに言うと、儒教の経典から出すか詩から出すかなど内容の違い、暗記したものを書くか、自分の意見を書くかなど答え方の違い、試験一本か学校を出ている必要があるのかなど試験制度の違いなど様々です。

この違いについては以下の時代ごとの特徴のところで具体的に書いていきましょう。

科挙の時代ごとの特徴

中国では6世紀から上級公務員試験があったというのはスゴイ話です。ヨーロッパやアメリカ、日本で、国家を運営する役人を一般から公募して試験で決めるという方法を採るようになったのは19世紀後半・1870年以降です。中国は実に1300年も前にこれを始めていたのですが、皮肉なことにその中国がこの試験・科挙を廃したのがそれからまもなく20世紀初頭の1904年でした。

中国の年表
中国の年表。科挙は隋の時代から始まりました。

科挙以前

科挙は隋から始まるのですが、隋以前、漢代から官吏登用に関するさまざまな制度を行ってきました。

まず漢代には「察挙さっきょ」という制度があり、これは中央政府が地方官を派遣し、各地方の優秀な人材を推薦するという制度です。ただこの制度の実態は、地方豪族の意向次第だったと言われます。

魏晋南北朝時代には「九品きゅうひん官人かんじんほう」という制度がありました。これも中央政府が中正官ちゅうせいかんという役人を地方に派遣し、地方の評判を聞いて人物を9等に分け官職に任命するという制度です。この制度もやがて官吏を出す家が固定化し、能力ではなく家柄で官吏が決まるようになっていきました。

つまり科挙以前は、当時の権力者階層・豪族や貴族が、能力の有無を問わず官吏の職を世襲化していくという制度だったと言えるでしょう。こうした状況は近代以前はどこの国も同じだったと思われます。

幕末明治を生きた福沢諭吉が「門閥は親の仇でござる」と言って家柄ですべてが決まる封建社会を憎み、「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」という名言を残しましたが、中国ではすでに6世紀ごろには「門閥」の弊害を克服しようとしていたわけです。

隋代の科挙

隋の文帝ぶんてい(541~604 隋の初代皇帝)以前、中国は地方の貴族・豪族が力を持っていて、皇帝とは言っても彼らに一目置かざるを得ない状況でした。この貴族の力を抑え込もうとして考え出されたのが科挙です。それまで地方の貴族・豪族が世襲していた地方の高官すべて中央政府が任命して派遣することに決めたのです。

毎年中央政府が受験希望者を全国から集めて試験を行い、いろいろな科目に合格した者を有資格者として秀才しゅうさい明経めいけい進士しんしなどの名称を与え、必要に応じて各地方の官吏に任命するようになりました。

唐代の科挙

唐代の科挙には進士科(詩を作る能力を問う)と明経科(儒教の経典を暗記する能力を問う)がありましたが、合格後の出世面などで進士科が有利でした。

進士科を受ける受験生には「郷貢きょうこう進士」と「学館進士」がいて、前者は地方出身者、後者は貴族の子供が入る長安にある学校の出身者です。合格率は圧倒的に学館進士の方が高いのですが、唐代も後半に入ると郷貢進士が増えていきました。

公平がモットーの科挙ですが、実はこの頃の科挙は試験の成績より試験以前に行う有力高官への働きかけの方が重要だったと言われます。唐詩の代表的詩人、李白や杜甫も盛んに有力高官に近づき、自分の作品を贈呈しています。生涯不遇だった彼らの作品が残ったのはこのためだったという説があります。

科挙の最終試験に「身言しんげん書判しょはん」という試験があるのですが、ここでは体格風貌・弁舌・字のうまさが問われました。顔がよくないと合格しなかったんですね。どういう顔だと合格だったのか興味がありますが、写真がなかった時代なので知る由もありません。

この唐代300年の科挙の普及により中国における貴族・豪族は一掃され、宋代になると皇帝に刃向かう有力貴族はもはや残っていませんでした。

宋代の科挙

宋代に入ると科挙は公平で客観的な試験制度になっていきます。

科目は進士科のみ。試験は「解試」(本籍地で受験する試験)・「省試」(中央の礼部貢院で受験する試験)・「殿試」(皇帝の前で受験する試験)の3段階試験でした。

試験科目は経義けいぎ儒教経典の解釈)・詩賦しふを作る)・論策ろんさく(論文)の3科目。

また実際の試験現場はきわめて厳格で公平性が高まりました。官吏の身分も本人一代限りとされ、階層は固定化することなく流動的になっていきました。

この宋代のシステムが、元を除き明・清と基本的に科挙廃止まで続いていきます。

またこの時期には官吏登用を科挙だけに頼るのではなく、学校制度を作って教育を整備しようという機運も生まれましたが、この機運は発展していくことはありませんでした。

つまり当時の学校というのは名ばかりで、教育する機関ではなかったのです。

元代の科挙

元を興したモンゴル人は科挙にまったく興味を持たなかったのですが、やがて彼らが中国化していくと、科挙は漢民族の強い希望を受け入れて小規模ながら復活していきます。ただし民族別に差別があり、モンゴル人・色目人(西域に住む少数民族)は漢人・南人(長江以南に住む漢族や少数民族)より優遇されていました。

また元以降「省試」は「会試」と呼ばれるようになりました。

明代の科挙

明代では学校と科挙を併用する政策を行いました。学校でしっかり教育した後、優秀な学生を科挙によって選抜しようという政策ですが、後にこの政策は骨抜きにされ学校とは名ばかり、単に科挙の前の試験をするところに成ってしまい結局最初から最後まで試験だけという制度になっていきました。

清代の科挙

清代もまた異民族による王朝でしたが、元に比べると漢民族の文化は尊重され、科挙もまた明代のシステムが踏襲されました。ただ科挙の弊害や不正をなくそうと頑張るあまり、試験をさらに重ねることになって、負担だけが増し効果を生むことができないうちにヨーロッパ文明の荒波を受けることになりました。儒教経典の丸暗記や詩文を作る能力だけでは西洋文明に太刀打ちできないことが明らかになって、科挙は中国から退場を余儀なくされました。

科挙の合格率

科挙の合格率は時代によって異なりますが、たとえば明代のある年の郷試では合格率約3%です。これはひと昔前の日本の司法試験レベルです。二次試験である会試の合格率は約6.5%。難しい郷試に通っても二次試験でまた9割以上落ちてしまうんですから大変です。

ただし郷試に合格し「挙人」(郷試合格者に与えられる終生身分)になると、そのまま官吏になる(もちろん最後の試験まで合格して官吏になった人に比べると出世に差が出る)道もありました。

科挙受験勉強法

かつての子供たちはどんな勉強をして受験に臨んだのか、たとえばある明代の子供(憲成けんせい…1550~1662)は満5歳で塾に行き、6歳で『大学』『中庸』を学び、7歳で『論語』、8歳で『孟子』と『書経』の一部、10歳で唐の韓愈の文章、11歳で対句を学び、15歳で八股文はっこぶん(科挙答案用の対句でできた文)の書き方を学んだといいます。こうした勉強を二十歳まで続け、彼は無事合格にこぎつけました。

科挙の勉強の基本はひたすら儒教の経典を暗記することです。経典本文の暗記だけで全部で43万字あまりといいますから…これはもう絶句ものです。

役人になったあとの待遇

科挙は上記したように長期にわたってかなり過酷な勉強をしないと合格できません。これは合格後の待遇に大きなメリットがないと続かないでしょう。そのメリットとは、1つに名誉、2つ目はもちろん大きな金銭的リターンです。

難しい試験を突破するのですから周りからは大変な称賛を浴びます。日本なら東大、中国なら北京大学や清華大学に合格したようなものでしょうか。

そしていったん官僚、特に地方官僚になれば給与はもちろんですが、それ以外にも特典やさまざまな副収入…口利きへのお礼とか賄賂とか…があります。現代の感覚で言えば犯罪ですが、当時は当たり前のように行われていたようです。

「黄金の豪邸も目のさめるような美女もみんな本の中から出てくるぞ」と書かれた詩もあるとか。それを言ったらオシマイという感じですが、長く苦しい受験勉強を支えるにはこんな励まし?も必要だったのでしょう。

科挙の合格者、特にトップ合格者を「状元」と呼びますが、この状元には大金持ちや有力者が「うちの娘を嫁にするのはどうかね」と近づく例も多々あったそうですから、正に「豪邸も美女も本の中から出てきた」のですね。科挙受験者は年齢のいった人も多いですからすでに妻子持ちもいるのですが、そうすると離婚させたり、場合によっては自分から妻を離縁して婿におさまる人もいたとか。こうした悲劇は物語や京劇などになっていて、『琵琶記』や『秦香蓮』などが有名です。

もっとも面白いもので「状元」から官僚になった人で活躍した人はあまりいないそうです。受験勉強で能力のすべてを費やしてしまったのかもしれませんね。

科挙のすぐれた点

家柄や血筋を問わず誰でも受験できるという点、基本的に公正さに配慮して行われていた点、これが人類の文明がスタートして間もない6世紀という時期に行われたという点で画期的な試験でした。

特に宋代の科挙改革の様子を読むと、まるで現代日本で大学受験改革に努める文科省役人の仕事ぶりを眺めている感があります。発想が現代的かつ緻密なのです。これが千年近い昔のことか!と感嘆の思いです。なにしろ当時日本は平安時代ですから。

また近代以後欧米や日本で官吏登用試験が始まりますが、これは科挙をモデルにしていると言われます。後世にそして世界に科挙は大きな影響を与えました。

科挙の問題点

科挙は学校での教育に焦点を当てず、教育は民間に丸投げでその結果を試験で選抜するという制度でした。実は上記したように宋代には学校教育の芽生えがあったのですが、やがてその機運は立ち消えとなります。その理由としては教育にはお金がかかるということがあったからではと言われています。

国家として国民教育に積極的に関わらなかった中国は、1300年後ヨーロッパに大きく後れを取ってしまいました。一方江戸時代の日本には各地に武士の子弟のための藩校があり、庶民のためには寺子屋があって、江戸時代の識字率は当時世界一ではなかったかと推測されています。清朝時代の国民全体の識字率に5~30%という数字があり、科挙の猛勉強がごくごく一握りのものだったことがわかります。

また科挙の科目は経典の暗記であり詩歌を作ることです。人格の陶冶はもちろん、思考力、批判的精神、科学的思考法や数学など論理的能力を考慮するものではありませんでした。こうしたことが清朝末期の遅れに結びついたと言えるでしょう。

科挙の試験会場と幽霊

科挙の試験会場を「貢院」と言います。今残っているものや復元されたものを見ると、独特の建物で柵のない刑務所の独房のようです。三方を壁に囲まれた幅1メートルくらいの狭い空間に机になる板と椅子になる板、棚になる板がはめこまれ、こうしたミツバチの巣のような空間がどこまでも続いているのです。

この独房的試験会場に持ち込めるのは、すずり・墨・水差し・土鍋・食料・布団・入口にかけるカーテンなどだけ、床は土間です。

受験生はここで二泊三日を過ごすのですが、この陰惨な場所に立ち込めるオーラ、そして極度の緊張に発狂する人もいたとか。

幽霊も出たそうです。出る幽霊はだいたいこの受験生に人生を狂わされ自殺した女性たちで、あの世からの復讐に最適な場所はここなんだとか。つまり受験を失敗させて相手の人生にとどめを刺すわけです。

なにしろ1300年という気の遠くなるような歴史があるわけですから、幽霊話も数多く残っています。

科挙のカンニング

試験といえばカンニングはつきもの。基本的に暗記試験ですからカンニングは効果があります。カンニングや不正(試験官との癒着など)が起きないよう万全を期していたようですが、それでもカンニングはいろいろありました。

今でも細かい字で経典をびっしり書いた豆本や下着が残っています。

科挙の年齢制限について

科挙には年齢制限はなく、受験生のまま50歳60歳と年を重ねてしまう人もいました。そこで唐代にはすでに「五十少進士」(五十歳で進士…科挙の最終合格者…になるのは若い方だ)という言い回しがあったほどです。宋代になると年がいってから進士になった人を「五十年前二十三」(50年前は23歳だ)と言って笑いものにされたとか。ひどい話ですが寿命の短い時代に50歳で仕事についてもどれほども働けなかったことでしょう。

清代では70歳で受験に来た人もいたそうです。官僚の定年は70歳だったので(けっこう定年は遅かったのですね)合格しても即定年になってしまうのですが、記念受験みたいな感じでしょうか。

現代中国の「科挙」

現代中国の大学入試は「高考」(高等教育試験)と呼ばれ、毎年6月の2日間行われます。他のコースはなく、これ一本で将来がほぼ決まります。それだけに受験の重圧は大きく、中国ではこの日のためだけに幼稚園くらいから受験生活が始まる、と言っても過言ではありません。そういう意味ではまさに現代の科挙で、テレビドラマなどでは受験の失敗から精神的におかしくなった人物が描かれたりします。逆にハッピーエンドの物語では、有名大学の合格通知を受け取ってメデタシメデタシで終わるドラマもあり、中国人の若者と子供を持つ親にとってこの試験がどれだけ切実な事柄なのかがわかります。

特に切実なのは農村戸籍者として生きてきた若者で、ここで都会の有名大学に合格すれば、都市戸籍に切り替えることができ、卒業後は外資系企業勤務や留学など、家族を含めて人生を一変させることができます。

受験に失敗すれば農村戸籍のまま出稼ぎ労働者となり貧しさや都市住民からの差別に甘んじて生きるほかありません。

農村育ちの若者と都会育ちの若者とでは最初から教育インフラに差があり、有名大学における農村戸籍者の割合は2%というデータもあります。名目上は全国民に開かれた試験であった科挙(実際は経済的に余裕のある家庭や代々知識人の家庭が有利だった)と現代の「高考」、どちらの方が公平か何とも言えないところです。