食客【古代中国で有力者が住まわせていた人々の解説】

食客

食客(しょっかく)とは、主に古代中国において、有力者が才能ある者を招いて寄食させ、いざという時には自分のために働いてもらった人のことです。おおぜいの食客を招いた有名人には、孟嘗君始皇帝の親代わりだった呂不韋がいます。彼らは三千人もの食客を養っていたといわれます。

食客とは

食客(しょっきゃく・しょっかく)とは、一般にはその才能を認められて有力者の家に寄食し…ただで食と住まいを与えられ、いざという時にはその主のためにひと肌脱いで助ける人のことです。門客ともいい、古代中国の春秋戦国時代以降広まりました。

食客が主人のために貢献した能力には、献策を考える・政見を説く・歌や踊りを披露する・刺客になる・ボディーガードになるなどのほか、動物の鳴きまねをするなど多種多様でした。

貴族たちは出かける時には常に一定の食客を従え、何らかの用に備えました。

食客の「客」は文字通り「客」ですが、こののち「客」の意味には「与えられた土地からの収穫による収入ではなく、技術や才能によって報酬を得る人」という意味が生じました。こうした意味を持つ熟語としては「侠客」「剣客」「刺客」などがあります。

食客を持つ風習は春秋時代(BC.770~BC.476)に始まり、戦国時代(BC.475~BC.221)に盛んになり、多くの高官貴族が食客の数を競っていました。食客を数多く抱えていた人物としては戦国四君(せんごく しくん…孟嘗君平原君の信陵君・春申君)や秦の宰相・呂不韋が有名で、おのおの食客の数三千人といわれています。

孟嘗君と食客の故事

戦国四君の一人・孟嘗君(もうしょうくん…?~BC.279 斉の政治家)が抱えていた食客は実にユニークで、泥棒や動物の鳴きまねを売り物にした人までいたといわれています。「いつか何かの役に立つだろう」と考えたのでしょうか。社会のつまはじきのような人物まで養うのですから実に太っ腹な話です。

孟嘗君は斉の宣王の甥で本名は田文(でんぶん)といいます。彼の賢人ぶりは諸国でも有名で、秦の昭襄王は彼を宰相にしたいと思って秦に招きました。

すると王の側近が「孟嘗君は斉の公子ですから、秦の宰相になっても斉のために動き、秦のためには働きますまい」と讒言します。

自分の国で使うことをやめた有能な人物は命を奪ってしまい、他国でも使わせないようにするのが戦国の世の常道です。

身に危険が迫ったことを知った孟嘗君は、昭襄王の愛妾に賄賂を贈って力を貸してもらおうとしました。すると彼女は「狐白裘」(こはくきゅう…狐の白い腋毛を集めて作った皮の衣で、1着作るのに千匹の狐が必要だったといわれる)を要求しました。「狐白裘」は秦に招かれた際、すでに昭襄王に献上してしまって手元にはありませんでした。そこで孟嘗君は元泥棒をしていた食客を使ってこれを盗ませ、王の愛妾の口添えで無事釈放されました。

釈放された孟嘗君の一行は一目散に国境をめざします。秦王がいったんは釈放に同意したものの、後悔して追っ手をよこすかもしれません。深夜函谷関の国境に到着した時には、果たして秦の追っ手がやってくることがわかりました。函谷関の関所の門は鶏が鳴かないと開けないことになっています。そこで食客の中の動物の鳴きまねがうまい者を連れてきて「コケコッコー」とやらせると、その辺にいた本物の鶏たちも一斉に鳴き始め、門番は門を開けて一行は無事秦を抜け出すことができました。

役に立つとは思えなかった食客がこうして役に立ったのでした。

この話は「鶏鳴狗盗」(けいめい くとう…つまらない技量)という成語になっています。おそらく本当の話ではなく、孟嘗君の食客にはあまりにいろいろな人物がいたので、そこから面白可笑しく作られたのでしょう。

食客の伝統

中国でこうした食客の伝統がいつまで続いたのかはわかりませんが、清の時代を背景にした或るテレビドラマにも、主人公である豪商の家でその知恵袋として一部屋もらって暮らす食客が出てきましたので、少なくとも清朝まではあったと思われます。

中国の食客とは異なりますが、寄食する家族以外の人…居候(いそうろう)は日本では嫌われ「居候三杯目はそっと出し」という言葉もあるほどです。ご飯のお代わりをするにも肩身の狭い思いをするという意味です。

中国人は家に他人がいることに対して日本人よりおおらかな印象があります。家族が近くにいない中、年老いた親にお手伝いさんをつけ同じ家に住んで世話をしてもらう話は最近よく見聞きします。

古代の食客とお手伝いさんとでは意味がだいぶ違いますが、同じ家あるいは敷地に他人が住む点では同じで、プライバシーに対する感覚が日本とは違うような気がします。ただ今の若い中国人は日本人とあまり変わらず、プライバシー感覚の違いは社会環境の変化によるものなのかもしれません。