趙(古代中国戦国時代)の国の歴史と武将【歴史地図付き】

趙

は古代中国・戦国時代の国で、春秋時代の大国・晋の家臣が王権を簒奪して作った国です。同様に新しくできた晋由来の国、とともに「三晋」とも呼ばれます。趙からはすぐれた将軍や政治家が輩出しており、彼らがうまく活用されていればをしのぐ大国になった可能性があります。最後は秦によって滅ぼされました。

※上の写真は趙の首都・邯鄲(かんたん)にある、趙の武霊王が築いた武霊叢台(閲兵台)。のちの時代に補修を重ねられています。

趙とは

趙とは、中国戦国時代(BC.475~BC.221)の七大国、いわゆる「戦国七雄」の一つです。

戦国時代中期の地図
戦国時代中期の地図。趙は地図上部にあります。

晋の大臣が下克上によって主家の晋を滅ぼして誕生した国で、同じく家臣でありながら晋を滅ぼした魏や韓とともにBC.403に正式に諸侯として認められました。

このBC.403をもって春秋時代の終わり、戦国時代の始まりとする説もあります。

趙はBC.228に秦によって滅ぼされました。

年表
年表。趙は戦国時代に存在した国です。

趙の位置と特色

趙・魏・韓はそれぞれ春秋の大国・晋の配下にいた者がその権力を簒奪して生まれた国で、三晋とも呼ばれています。

三晋の中で趙は最も北に位置し、匈奴など北方の異民族と交流がありました。北方民族は中原(ちゅうげん…黄河中下流域)の国々からは蛮族として蔑視されていましたが、騎馬戦術に巧みで、趙はそれを取り入れ強国化を図りました。

武霊王と胡服騎射

BC.326に即位した趙の武霊王は、北方民族に学んで騎馬戦術を採り入れました。

中原の国々はいくさで馬にまたがって戦うことはなく、馬に戦車を引かせ人は戦車に乗って戦いました。

北方騎馬民族は馬にまたがってそのまま弓矢を放ち、戦いにおいてはその機動力で中原の民族より勝っていました。

中原の民族が馬にまたがるためには、漢民族の伝統的な服装で無理でした。

漢民族の服装は日本の着物の源流ですからガウン状です。ズボンは履かず下着もつけなかったといいますから、馬に乗って戦うためには北方民族の服装・胡服…ズボン姿に換えなければなりません。

蔑視している異民族の服を着るということで貴族たちの激しい抵抗に遭いますが、武霊王は粘り強く説得して、「胡服騎射」戦法を採り入れました。

趙の武霊王はこのように進取の気性を持った名君でしたが、後継者選びでお家騒動が起こり、それが元で骨肉の争いとなり、最期は餓死という悲惨な死に方をしました。

趙の名将たち

武霊王の死とともに趙の絶頂期は終わってしまいましたので、後継者選びなどでつまづいたのは趙国にとって残念なことでした。

趙はこの後もすぐれた政治家や将軍を輩出したので、名君と有能な政治家が結びついたならば、中国統一の機運は趙に起きていたかもしれないという人もいます。

BC.275の昭襄王が趙王に「お国には『和氏の璧』(かしのへき)という宝玉があると聞いたが譲ってもらえないだろうか。代わりに我が国の城を15差し上げよう」と提案してきました。

中国で「城」とは、いわゆる天守閣のある日本式の城のことではありません。城壁に囲まれた都市を意味するのです。つまり領土を進呈しようという提案でした。

趙王はこれを聞き秦が本当に15の城をよこすかどうか疑問でしたが、断れば大国・秦につぶされるかもしれません。思案の末、切れ者で知られる藺相如(りん・しょうじょ)を秦に送ると、いったん渡した和氏の璧を城の見返りなくむざむざ取られそうになったところを、機転と気迫で無事取り返してきました。

このできごとは成語「完璧」(かんぺき)の由来になっています。

趙に戻った藺相如は大臣に取り立てられ、これに不満を抱いた廉頗(れんぱ)と一触触発となりますが、のちに二人は刎頸(ふんけい)の友となり、ともに趙を盛り立てました。

この頃趙には藺相如と廉頗というすぐれた政治家以外に名将・趙奢がいて、さすがの秦も趙に手を出すことはできませんでした。

長平の戦い

やがて藺相如・廉頗・趙奢の3人がいずれも年を取り、亡くなったり病気になったりした頃、BC.260趙奢の息子・趙括が指揮を執った長平の戦いで秦の白起将軍に敗北し、戦死者5万を出し、さらにその捕虜40万は白起によって生き埋めにされました。

勢いづいた白起はさらに趙の都・邯鄲に迫り、都では民衆は飢え子まで喰らうという惨状。その時宰相だった戦国四君の一人・平原君は魏の信陵君、春申君の助けを受けて秦を撃退しますが、この戦いで趙の国力は衰えました。

李牧将軍

後の始皇帝・政が親政を始めた頃、趙には匈奴との戦いで名を馳せた武安君・李牧がいました。

破竹の勢いにあった秦の攻撃を防ぐため、李牧が対秦戦の将軍に抜擢されます。

李牧は2度にわたって秦を撃退し、趙の国土を奪還しました。

当時秦の攻撃を防ぎこれを撃破した将軍は趙の李牧と楚の項燕だけでした。

ところが趙の宮中は噂に惑わされやすく、秦はそこを狙って趙の家臣を買収し「李牧が反逆を企んでいる」というデマを流します。

趙王はこれを信じて李牧を処刑、その3か月後のBC.228趙は、秦の王翦(おうせん)将軍に攻められ滅亡しました。

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