老子の思想と名言集【「道」とは何か】

老子

老子とは

老子とは春秋時代(B.C.770~B.C.403)の思想家で、道教の始祖です。

単に「老子」と書いた場合、人物としての老子を意味することもあれば、その学説を記した書『老子』を意味することもあります。

人物としての老子に関しては確かな記録に乏しく、実在を疑う人もいます。また、書物としての『老子』は老子単独で書いたものではなく、複数の著者がいるのではないかという説もあります。

老子
老子。

『史記』が書いた老子像

司馬遷の『史記』は老子について、「老子韓非列伝」の中で実在の人物として書いています。それによりますと、老子は楚の苦県(河南省鹿邑)の人で、姓は李、名は耳(じ)、字は聃(たん)。周王朝の蔵書を管理する史官でした。

老子は才能を隠し、無名であることを良しとする人でした。

長く周に暮らしていましたが、周の徳が衰えたのを見てそこを離れ函谷関に行きました。そこで関所の役人から頼まれ、道と徳について上下二巻五千語あまりの著書を書き残し立ち去ったということです。その後どうなったか、その行方はようとしてわからないと『史記』は書いています。この時に書かれた本が『老子』です。

老子
老子。

『老子』にはどんなことが書いてあるのか

老子が書いたと言われる書を『老子』または『道徳経』と言います。ここでは『老子』に統一しておきましょう。全五千語あまりですから本としてはきわめて短いものです。あっという間に読めそうですが、現代日本語に訳されているものでもあまりの難解さに首をひねります。

たとえばこんなふうです。

「世の中の人は美は美しいものであると思っている。実はそれは醜いものだ。

人はみな善は良いものだと思っているが、実はそれは良くないものだ」

それはなぜか?

「有と無は相手があってはじめて生まれ、困難と容易は相手があってはじめて生まれ、長い短いは相手があってはじめて生まれ、高いと低いは相手があってはじめて生まれる」

と続くのです。

わかりにくい文ですね。これは要するに、

「美を見た時、ああ美しいと思うから醜いという意識が生まれる。善を見た時良いことだなあと思うから善ではないという考え方が生まれる」

美と醜、善と不善、困難と容易、長いと短い、高いと低い…すべては比較によって生まれてくるのだ、ということを言っているのです。

互いの比較から価値観が生まれる。そしてその価値観で規定されたものは移り変わる。永遠に一定ではない。そんなものに心わずらわされることはない、と老子は言うのです。


『老子』をもう少し読んでみましょう。

「最上の善は水のようなものだ。水は万物に恵みを与え、他と争うことなく、人々が嫌う所に流れゆく。だから道に近いのだ」

最もすばらしいのは水だ、というのです。なぜなら水は万物に恵みを与えるから。これはわかります。私たちは水なしでは生きられません。渇きをうるおし、穀物を育て、汚れを洗い流し…水のありがたさはいくらでも挙げることができます。さらに他と争わない。つまり水は、流れのままどんな形にも身を添わせることができるんですね。四角と言えば四角に、丸と言えば丸にもなります。三角でも立方体でも円柱でも、水は相手の要求のまま姿を変えることができます。

人々が嫌う所…これは他より低い所、底辺です。水はとことん低い所に流れていきますもっと低い所があれば、水は更に低く流れます。ところが人間というものは常に自分を高みに置きたいものなのですね。自分の心の中をちょっとのぞけばすぐわかります。いついかなる時も自分をより高いものとして見たい…これが普通の人間心理です。たいていの人間がそうなのですから、ちょっと優秀な人、地位を得た人はすぐさま鼻高々になって、人より一段も二段も、いえ百段も千段も高い所に上がって他を見下ろしたいというのが人間です。

こうした心理を持つ中で底辺に流れゆこうとするのだから水はエライ!と老子は言うのです。自分の身を低く低く屈することができるのはすばらしい。だから「道」に近いのだ、と。

ところでこの「道」ですが、『老子』には何度も出てきます。『老子』は卑近なたとえを使って、ものごとをすべてデフォルメするような独特な思考回路で、読む者に高度な思考のレッスンを要求してくるのですが、こうした短い話の中に必ずといっていいほど出てくるのがこの「道」です。

『老子』における「道」

『老子』における「道」とは「天地の本体にして根源」のことであり、物質であると同時に神を意味すると書かれています。この半物質・半神の「道」は完成し存在している固定的なものではなく、ぼおっとした暗がりの中でたえずうごめき、明滅し、変化し、流れ、巡り続け、そして森羅万象を生成している、と老子はいうのです。

天地創造についてはいろいろな民族がその神話の中で語っていますが、老子の上述したような考え方はあまりにも独特で、世界の古代宗教の中で老子だけが語っている思想です。

キリスト教では世界は神によって創造されたと言っています。イスラム教はこの考え方を踏襲しています。古代中国の黄河文明においては「上天」や「上帝」という人格神がいますが、この人格神は人間だけを作り、天地創造については語っていません。

キリスト教的天地創造ならば、「神」という存在さえ教われば深く考えることもなく、それでは太陽も星も雲も雨も人間もみな神様が作ったんですねと即座に答えることができそうです。

ところがこの老子の「道」はそのあまりに独特な宇宙観が簡単な解釈を拒みます。

「道」…たぶん「みち」ではなく「どう」でもなく、「タオ」と読むべきでしょうが、この「タオ」とはいったい何なんでしょうか。

『老子』が語る「道」

老子の語る「道」をもう少し読んでみましょう。

「道の道とすべきは常の道にあらず…本当の道は、不変の道ではない…万物は常に変化し続ける。これが宇宙の本質である。ものごとはすべて変化の中でとらえなければならない」(『老子』1章)

「道」とは固定化されたものではなく、絶えず動き、変化しているものだと老子は言うのです。

「何かが混沌の中でうごめいている。それは天地に先立って現れた。ひっそりと形もなく、ひとりで立ち、何者にも依存していない。あまねく巡って休むことなく、この世の母とも言うべき存在だ。それをどう呼ぶのか私は知らない。仮に「道」という字にしよう。強いて「大」と名付けよう。大であるとどこまでも行き、どこまでも行くと遠くなり、遠くなるとまた戻ってくる」(『老子』25章)

この混沌の中でうごめくものが「道」です。形もないのにあまねく巡って休むことなく、母親のごとく万物を産み続けているのです。

「無は有という一を生み、一は天地という二を生み、二に陰陽が加わって三を生み、三は万物を生んだ。万物は陰の気と陽の気を抱き、気を交流させて和を保つ」(『老子』42章)

無から何ものかが生まれ、それが天地を作り、さらに陰陽の気が加わって万物を生んだ、つまり宇宙が生まれたというのです。

「道」とは、宇宙を構成しそれを動かすもの、絶えず変化し、「無」でもあり「有」でもあるもの、奥深くてはかり知れないもの、森羅万象を生み出すもの。

高みにあって見下ろすものではなく、暗がりでうごめくもの。父性的というより母性的、人を裁かず、一切を受容する。それでいて慈愛を万物にそそぐことはなく、生まれて死ぬ、勃興しては消滅するその様をまるで物理現象を見ているかのように淡々と眺めている。

老子は「道」をこのように語っています。

さらに、この「道」たるものは人間生活、政治・経済・社会の一切に流れていて、人間の作為がなく無為自然であるならば、それはおのずから発展していくものだとも説いています。

『老子』の天地創造論の異質さ

老子の説く「道」、すなわち天地創造論は、中国の思想史の中できわだって特異だという説があります。少なくとも天に「上帝」という垂直的な人格神を抱く黄河文明で生まれた思想ではない、と。 南方(長江周辺)の少数民族の神話には、盤古ばんこの天地開闢説話など老子の天地創造論と似た発想があり、長江周辺が由来となった思想なのかもしれません。

近年の考古学の進展により、中国の古代文明には一般に言われる北方の黄河文明のほかに、南方の長江文明があったと言われます。中国の北と南では現在でも民族や民族性、言葉、生活習慣がだいぶ異なり、特に二千年も昔ならこの差はもっと際立っていたことでしょう。『老子』の天地創造論・「道」思想の特異性は、こうした南北の文化の違いから生まれているのかもしれません。

老子像
河南省にある老子像。

『老子』の魅力

『老子』の魅力の一つは「あまのじゃくさ」、世間の常識を覆していくところにあります。たとえば人は必ず学びの大切さを説くのに、老子は「学を絶てば憂いなし」などと言うのです。学問や知識は迷いの根源である、と。

また「生に執着すれば死を招く」とも。自然に生きれば寿命まで生きられるものを、あまりに生に執着するから寿命が来る前に死んでしまう、と老子は嘲笑します。

「曲がるからまっすぐになる、屈するから伸びる、くぼんでいるから満たされる、古びているから新しくなる…」「自分を正しいとしないから人から正しいとされる、自分を誇らないからほめられる、他と争わないから争いをしかける者もいない」

発想があまりに柔軟、奇想天外で、世間の常識でコチコチになった頭や心を解きほぐしてくれます。

もう一つの魅力は先に挙げた独特な天地創造論です。老子の思想で宇宙の謎は解けないでしょうが、その思想は宇宙の神秘性を感じさせ魅力的に感じます。プラネタリウムで星が巡る映像を見ながら、老子の「道」論を聞いてみたい気がします。

『老子』に出てくる名言集

『老子』には今も使われている有名な言葉がたくさん入っています。最後にこれらの言葉を紹介しましょう。

大器晩成

大器晩成:(41章)「大きな器はいつまでも完成したように見えない」

いわゆる「大器晩成」とは「偉大な人物は大成するのが遅い」という意味ですが、『老子』における意味は上記のようなものです。

大巧は拙なるがごとし

大巧は拙なるがごとし:(45章)「本当に巧妙なものは稚拙に見える」

この言葉の前に「本当にまっすぐなものは曲がってみえる」とあり、この言葉のすぐ後ろには「本当の雄弁は口下手に聞こえる」とあります。

足るを知る

足るを知る:(46章)「足るを知るとは、今の現実に満足することである」

この言葉の前に、「災いは足るを知らないから起こる。罪悪は欲望によって起こる」とあります。現状に満足するなら災いや罪悪は起こらないと老子は言っています。

千里の行は足下より始まる

千里の行は足下より始まる:(64章)「千里にもなる長旅も最初の一歩を踏み出して始まる」

この後に「普通の人間はもうすぐ完成するというところで失敗する。最初の慎重さを忘れてしまうからだ」とあります。

天網恢恢祖にして漏らさず

天網恢恢祖にして漏らさず:(73章)「天の網目は粗いが何ひとつ漏らさない」

今この言葉は「悪人は必ずつかまり報いを受ける」という意味で使われていますが、この『老子』の中の意味は「自然の法則は隅々にまで行き渡っている」ということです。

柔よく剛を制す

柔よく剛を制す:(78章)「柔は剛を制する」

この章の最初に「天下に水より柔弱なものはないが、しかも堅く強い者に打ち勝つのに水よりまさるものはない」とあります。弱く柔軟なものは堅く強いものに勝つ、という意味です。