光武帝(劉秀)の生涯【劉一族による皇位奪還と後漢の統治】
光武帝は、前漢を簒奪した王莽政権を打倒し、後漢を建てた初代皇帝です。本名を劉秀といい、前漢の景帝の末裔です。若い頃は長安の太学という高等教育機関で儒教を学んだインテリであり、謹厳実直で慎重な人物でしたが、戦いにおいては勇猛果敢な武将でもありました。その子、孫とともに三代にわたって後漢の全盛期を築きました。
光武帝とは
光武帝(こうぶてい…B.C.6~A.D.57)とは、後漢王朝を興し、初代皇帝になった人物のことです。
名は劉秀、字(あざな)は文叔、廟号(先祖に連なるための号)は成祖、諡号(しごう…死後のおくり名)が光武です。
日本語で「こうぶてい」と呼ぶ中国の皇帝は二人おり、一人は後漢の光武帝、もう一人は明王朝を興し、その初代皇帝となった洪武帝です。日本語では音が同じになりますが、中国語ではまったく異なります。
また明の洪武帝は前漢の高祖・劉邦と同じく農民出身ですが、後漢の光武帝は前漢の景帝の子孫であり、地方の豪族出身で、太学という高等教育機関で儒教を学んだ知識人でありエリートでした。
後漢の光武帝劉秀は劉という名前からもわかるように、漢帝国の劉一族に連なります。だからこそ前漢を滅ぼした王莽打倒の旗印として周囲から持ち上げられ、それがのちの後漢王朝の成立につながりました。
前漢の高祖・劉邦は遊侠無頼の徒から身を起こした人物で、人間臭く面白いエピソードに事欠きませんが、後漢の世祖・光武帝は謹厳実直な人だったといわれ、あまり面白いエピソードがありません。
光武帝の出身
光武帝は、前漢の景帝の子・長沙定王の血を引く南陽(湖北省)の豪族出身。王莽末期の22年に兄の劉縯とともに挙兵しました。
エピソードのあまりない光武帝ですが、若い頃の劉秀青年がしばしば口にしたという「仕官するなら執金吾(しつきんご)、妻とするなら陰麗華(いんれいか)」は有名です。
「執金吾」とは警視総監のことですが、みやこを巡視する際のいでたちが華やかで、青年劉秀はその姿にあこがれたのでした。
陰麗華は劉秀の地元南陽の豪族の娘で、劉秀が縁あって彼女に出会った時その美しさに一目ぼれしたのでした。
若き光武帝劉秀がごく普通の若者であったことがわかるエピソードですが、のちに劉秀は言葉どおりに陰麗華と結婚し、執金吾どころか皇帝にまで上りつめて、陰麗華を皇后にしました。
後漢王朝を建てるまで
王莽政権時代には統治の失敗により、各地で農民の反乱や豪族の反乱が起きました。
農民反乱の代表が現山東省で起きた「赤眉(せきび)の乱」であり、豪族反乱の代表が南陽地方で起きた劉一族の反乱です。
赤眉の乱はもともとは呂母と呼ばれる女性が、命を奪われた息子の復讐のために起こした乱のことです。
彼女の呼びかけに貧農の二男、三男など若いあぶれ者が呼応し、私怨から始まった動きが反乱となって、それを抑えようとする政府軍と戦い、これに勝利するほどになりました。
政府側兵士と区別するために眉を赤く染めたためにこう呼ばれました。
農民反乱としては、「緑林(湖北省)の兵」と呼ばれる反乱もあります。
緑林は元は緑林山という山の名前で、食いつめた流民がこの山に集まって反乱を起こしました。
中国では後世山賊などを緑林と呼ぶようになりますが、その由来はここから来ています。
緑林兵は政府軍を撃破する勢いでしたが疫病で半数を失い、のちに南陽の豪族の反乱に合流しました。
反乱流民と反乱豪族が合流した時、その上に担がれたのは劉一族の劉玄でした。
劉玄は後に更始帝として即位し、同じ劉一族である劉縯、劉秀兄弟も従えて王莽政権打倒のために北上しました。
王莽はこれに対して、人民に自分の威容を見せつけようと珍宝を載せ猛獣まで引き連れ、百万と称した大軍を更始帝軍に差し向けました。
王莽政府軍は昆陽城に入った更始帝軍を包囲したのですが、中にいた劉秀はわずか13騎のみを引き連れて脱出、外から3000の兵を集めて政府軍を急襲、威容を誇った王莽軍をあっけなく敗北させました。
劉秀は非常に慎重なことで知られていましたがそれは決断するまでで、いったん決断すると行動は果断でした。
この敗北で、王莽の軍隊が張り子の虎に過ぎないことが広く知られてしまい、全国の反王莽の動きの激化を招きました。
この一連の動きの中で、更始帝は劉秀の兄・劉縯の命を奪います。
劉縯の部下が更始帝の命令に背くという出来事があったためですが、更始帝劉玄より有能な劉縯を陥れたといわれています。
この事件は更始帝軍団結の危機をもたらしますが、劉秀は隠忍自重し、兄の命を奪われた恨みを飲みこんで、打倒王莽にまい進しました。
王莽が更始帝軍に襲われ命を落とすと、更始帝は長安で我が世の春とばかりに宴会三昧の毎日を過ごします。
その少し前に更始帝に合流した赤眉軍は、更始帝政権の実態を見て離反し、自分たちも劉一族に連なる羊飼いの少年を皇帝に立てて、長安の更始帝軍に攻め込みました。
赤眉軍という農民の軍団に対し、弛緩した更始帝軍は勝つことができずに、更始帝もこの戦いで赤眉軍により命を奪われます。
その間河北平定を命じられていた劉秀は、河北でも勝利を手にします。
その後まだ存命だった更始帝から戦いをやめて戻ってこいと命じられるのですが、劉秀はそれを無視し、更始帝からの自立を図って自らが王朝を立てる決意をします。
それは劉秀が帝位に就くようにという符命(儒教の予言)が現れたからです。
符命とは天意のことであり、こうした呪術的な儒教が盛んとなったのは前漢の後半からですが、前漢王朝を簒奪し「新」を建てた王莽はまさにこの符命なるものを操って帝位に就きました。符命に書かれた文章はわかりにくく、如何ようにも解釈できたのです。
怪しげな予言の紙切れを神聖視して政権奪取に結びつけようという考え方は今では理解しがたいものですが、今から2000年ほど昔、キリストが生まれた頃の話です。
聡明な劉秀も時代の子であり、若い頃長安の太学で儒教を学んでいた劉秀は、符命というものに従うべき尊さを感じていたといわれます。
こうして紀元25年劉秀は河北で王朝を立て、この年を建武元年としました。その後洛陽に軍を進め、更始帝配下の武将を滅ぼしてここを都としました。
前漢の都は西の長安でしたが、後漢の都はこうして長安の東にある洛陽となり、そこから前漢を西漢、後漢を東漢とも呼ぶようになりました。
赤眉軍団は長安で略奪集団と化し、食いつめてふるさとの山東に戻ろうとしたところで、劉秀軍の追撃に遭い降伏します。赤眉軍団を取り込んで、劉秀政権は一層強大化しました。
赤眉軍団は強かったのですが、ほとんどが文字も読めない農民集団で、皇帝を立てたとはいっても長安に入ってからの目的は略奪しかありませんでした。
漢の復興、社会秩序の復活という理念を持ち、教育を受けて歴史を知っていた豪族たち…劉秀一団の敵ではなかったのです。
こうして劉秀政権は後漢建国を果たすのですが、まだ中国各地には皇帝を夢見た豪族グループなどが多々存在し、このような武力集団をすべて攻略するまでには建国後何年もかかりました。
ところで光武帝は河北平定の際その便宜のために、河北の有力者の姪・郭氏と結婚し、後に郭氏を最初の皇后に立てています。
あれほど恋焦がれた陰麗華を妻としていたのにです。2000年前のことですから、現代とは結婚観が異なります。婚姻は政略や軍略の手段でもありました。
もともと光武帝は陰麗華を皇后に立てようとしたのですが、郭氏に男子が生まれていたので、陰麗華は自分が皇后になるのを遠慮したといわれています。
この郭皇后はわがままな人だったため、後に光武帝は郭皇后を廃し、陰麗華を皇后に立て、二人の間に生まれた男子を皇太子としました。のちの明帝です。
陰麗華は長い中国の王朝史の中で優れた皇后としてその名を残しています。
中国の王朝史というと皇后の外戚がしばしば災いを起こしますが、陰皇后は自分の身内を政治に関与させようとはしませんでした。その生活ぶりも質素だったといいます。
光武帝の治世と評価
政権をとった後内政面で光武帝が最初にやったことは、奴婢…つまり奴隷の解放でした。
王莽政権時代は法律に触れて奴婢にされたり、食いつめた農民が妻子を奴婢に売ることがよくありました。
光武帝は地方の軍閥を平定するごとにその地で奴婢解放令を出しました。
民衆の生活を充実させて政権の基盤を安定させようとしたからですが、赤眉の兵や緑林の兵など、自暴自棄になった民衆の恐ろしさを知っていたからだともいわれています。
次に耕地面積と戸籍調査を行い、国家の財政を確立させました。
これは地方の豪族から財力を奪って国政を安定させるためでしたが、この政策は豪族の反発に遭って一回きりでやめています。
光武帝が後漢の皇帝になると、彼をよく知る親族の女性たちは「あの子は若い頃、自分をあけっぴろげにして人と付き合うということはなかった。いつも『柔』(穏やか)だった。今もそうだ」と言い合いました。
光武帝はこの話を聞いて大笑いし、「自分は天下を治めるのも『柔』の道で行うのだ」と言ったといいます。
光武帝の統治は、反発を受けても断固としてやり遂げるというものではなかったことが伺えます。
後漢は、初代光武帝、2代目で陰皇后との間の息子・明帝、その子供の章帝の3代が全盛期といわれています。その後の後漢王朝は皇后の外戚や宦官の横行がひどくなっていきました。
光武帝と儒教
儒教における讖緯(しんい)思想…予言…は前漢王朝の後半から盛んになりました。
讖緯の「讖」は予言、「緯」は経書を補う解説の意味を持ちます。
この時期、経書に対して「緯書」が書かれるようになるのですが、孔子の書とされてはいたものの実際は偽書でした。
この「緯書」は予言的な内容を含み、「緯書」によって表される考え方を讖緯思想といいます。
前述したように、王莽はこの讖緯思想をフルに活用して前漢王朝を簒奪しましたが、光武帝も自分が皇帝になる際にはこれを重んじました。
未来を見通す孔子という神の予言があるのだから、自分は皇帝として立たないわけにはいかない、と考えたのです。
王莽打倒の機運の中で各地の豪族もまた、この讖緯思想によってそれぞれが帝位をめざしました。そうした意味でこの讖緯思想は一種の革命思想でもありました。
そこで後漢王朝を安定させるために、光武帝は緯書を整理して後漢王朝の正統性を示す緯書のみ世の中に広め、臣下にもこの緯書を含む儒教を学ばせました。
こうして後漢は儒教国家になっていき、後世の儒者から後漢は儒教によって統治された理想国家と見なされるようになりました。
志賀島金印と光武帝
博多湾に浮かぶ福岡県の志賀島(しかのしま)は、18世紀の江戸時代に金印が発見されたことで有名です。
「漢委奴國王」と刻まれた純金のハンコです。
この金印を「委奴國王」に贈った人物こそ光武帝だとされています。
これは『後漢書』東夷伝に、漢に朝貢に来た倭奴国の使者に、光武帝が印を授けたとある記述から、当時の儒者によってその金印であると認定され今に至っています。
委奴国がどこを指すのか今も議論の的ですが、日本列島がまだ日本国になる以前、光武帝はそうした日本と関わりがあったのでした。