昭襄王(昭王)【秦を大国にし統一への礎を築いた王・地図・年表】

昭襄王

昭襄王戦国末期の王で、のちの始皇帝の曽祖父に当たります。彼は秦の東方諸国に向けて積極的に侵攻していき、白起将軍がよくこれを助けて活躍し、のちの始皇帝による天下統一に道を開きました。

※写真は昭襄王が指示し築かせた都江堰(とこうえん)。(川の水を平野部に流している。秦の国土を豊かにした)

昭襄王とは

昭襄王(B.C.325~B.C.251)は戦国時代の秦の王で、昭王とも呼ばれ、秦の始皇帝の曽祖父に当たります。昭襄王から下に系図をたどれば、昭襄王→孝文王→荘襄王(始皇帝の父・子楚)→秦王政・のちの始皇帝(B.C.259~B.C.210)となります。

昭襄王は積極的な領土拡大策を採り、白起将軍が東の諸国や南のなどを次々に打ち破り、昭襄王の期待に見事に応えました。また昭襄王の母の弟で宰相の魏冄(ぎぜん)が権力を拡大するのを押さえるために笵雎(はんしょ)を重んじ、彼が有能であることがわかると魏冄を追放しました。やがて白起は笵雎と反目、昭襄王の出陣命令も拒むようになると、王は白起に自害を命じ、この常勝将軍を自刎に追いやりました。昭襄王の領土拡大策は後の始皇帝による天下統一のお膳立てとなりました。

戦国時代中期の地図
戦国時代中期の地図。秦は左側に位置しています。
年表
昭襄王は戦国時代の秦の国王です。

秦という国

昭襄王について書く前にざっと秦の歴史を紹介しましょう。

秦という国の建国史はB.C.900までさかのぼることができます。昭襄王や始皇帝の祖先が周王朝に召し抱えられ、馬の繁殖に成功したことで、周王から「嬴」(えい)という姓をもらったというのが秦建国の起源です。昭襄王も始皇帝も姓は嬴といいます。

その後、秦国の初代・襄公が、西周滅亡の時、東に都を移した周の平王を守護したことで、土地を与えられて諸侯国になりました。

春秋時代には第9代・穆公が、西戎(せいじゅう…西の蛮人)を平らげて広大な土地を手に入れ、春秋五覇の1人となりました。

戦国の世に入ると、隣国・の圧迫を受けるようになり、時の孝公は商鞅を抜擢して、変法と呼ばれる改革を行い、秦を強国に押し上げました。その改革とは一言でいうならば強力な中央集権化で、中央集権とは中央政府が命令を出すや、国のすみずみまでそれに従わせる制度です。

強国となった秦に脅威を抱いた戦国七雄のうち東の6国は、同盟を結んで秦に対抗する合従策を採り、一方秦は対秦同盟を破ろうと1国ずつ的をしぼって撃破していく連衡策を採りました。

昭襄王と白起将軍の活躍

秦がこのようにいち早く内政改革をして富国強兵を図り、国力が高まりつつあった時期に昭襄王は即位しました。まだ20歳前でしたので、はじめは母の宣太后が政治を執り、のちに政治の実権を自分の手に取り戻し、東進策を採って、東の諸国に対して侵攻を繰り返し、秦の領域を拡大していきました。

この積極策に存分に応えたのが、白起将軍です。

B.C.298の函谷関の戦いで、孟嘗君が宰相を務める軍が秦に勝利し、続いてとともに中山国を滅ぼし、秦と並び立つ勢力を保持しました。

B.C.293、・魏の連合軍25万が秦に侵攻すると、白起将軍は伊闕(いけつ…洛陽の南)でこれを打ち破り、秦の勢力を元に戻しました。

白起はさらに魏を打って、その国力を衰えさせました。

こうしてB.C.288昭襄王は「西帝」を名のるようになり、宰相の魏冄(ぎぜん)を斉に送り、斉の湣(びん)王に「東帝」という号を送りました。魏冄は昭丞相の母后の弟、つまり叔父です。

天下を西の秦と東の斉で分けようという申し出です。ここに戦国の世は秦と斉、二強時代を迎えるかに見えましたが、これは一時のことで、まもなく斉王はこの呼称を使うのをやめ、昭襄王もやめたので、二強時代は立ち消えとなりました。

B.C.286、斉が宋を滅ぼすと、斉の湣王はけむったく思っていた宰相・孟嘗君に圧力を加え、命の危険を感じた孟嘗君は魏に亡命しました。このできごとの裏には秦の策謀があったといいます。

孟嘗君を失った斉は勢力が衰え、その隙に秦は魏や趙に出兵しました。

B.C.287には白起将軍が楚を攻め、楚の首都を陥落させました。

この頃秦の朝廷内では、常勝将軍・白起の後ろ盾となった宰相・魏冄の権力が大きくなり、秦の王族をしのぐほどとなりました。

そこで昭襄王は、彼の力をそぐために、笵雎(はんしょ)を重んじるようになり、彼が唱える遠交近攻策を採用して、近隣の魏から領地を奪ったり、韓を圧迫したりしました。

この遠交近攻策とは、遠方の国とは手を結び、近隣諸国を攻め、遠方の領地を所有する負担を避けようとしたものです。

昭襄王は笵雎が有能であるのを見て、叔父で宰相の魏冄を追放し、自分の君主としての権力を確立しました。

秦国内ではこのような権力闘争はあったものの、白起将軍の活躍は続き、B.C.260趙の長平の戦いでは若い趙括を相手に巧みないくさぶりで大勝し、趙軍の捕虜40万を生き埋めにしました。白起はそのまま趙のみやこ邯鄲に攻め込むつもりでしたが、白起の活躍が自分の地位を危うくするのを恐れた笵雎は昭襄王に「兵は疲れています」と進言し、進軍をストップさせて趙と和議を結ばせました。

白起はこのことで笵雎に不信感を持ち、この後まったく戦場に出ていかなくなりました。

後に秦軍が趙の邯鄲に再攻撃をしかけ、逆に押されてしまった時も、昭襄王の出撃命令にも病気と称して出陣しませんでした。

昭襄王はそれに怒り、咸陽から追放した後、自害を命じました。

連戦連勝で秦を強大化させた白起はこの命令に「自分はいったいどんな罪を犯したためにこのような目に遭うのだろう」と自問し、「長平の戦いで、趙の捕虜40万を生き埋めにした。私が命を奪われるのはこの罪のためだ」と言って自刎しました。BC.257のことです。

昭襄王は白起の死から6年後に亡くなりました。

昭襄王が亡くなった時8歳だった後の始皇帝は、昭襄王の死から30年後に東方諸国をすべて滅ぼして天下を統一し、秦王朝を打ち建てました。