張良【漢王朝建立の立役者、名軍師の生涯・歴史地図・年表】

張良

張良前漢高祖・劉邦の腹心として、天下取りの戦いやその後の漢帝室の基礎固めなどに貢献し、韓信蕭何とともに漢の三傑の一人です。張良には、始皇帝暗殺未遂事件や、『三略』という兵法書のいわれなどさまざまなエピソードがあります。

張良とは

張良

張良戦国時代の丞相一族の出身で、によって滅ぼされた仇討ちをしようと始皇帝の行幸の車列に鉄槌を投げお尋ね者になります。その後下邳の町に身を潜めていましたが、そこで不思議な老人に会って、代の呂尚の兵法書『三略』を手に入れます。陳勝呉広の乱が起こると、彼もまた決起し、劉邦軍に身を投じます。そこで劉邦にこの兵法の話をすると素直に耳を傾けてくれ、張良はこれぞ天が与えた我が君と従い、優れた参謀になりました。劉邦最大の危機・鴻門の宴の変では、張良の働きで難を避け、楚漢戦争における危機では、項羽の強さに諦めようとする劉邦に、黥布、彭越、韓信を使って戦うよう進言し、これが見事に功を奏しました。漢王朝成立後は、後継ぎを巡るお家騒動で、知恵を絞って太子の廃嫡を防ぎ、その後は政局を離れて仙人修行に明け暮れたといいます。

戦国時代中期の地図
戦国時代中期の地図。韓は中央左に位置しています。
戦国時代末期の地図
戦国時代末期の地図。韓は秦によって滅ぼされました。
年表
年表。張良は秦末期から前漢時代にかけて活躍しました。

張良の生い立ちと黄石公の逸話

張良(?~BC.186)は韓の貴族で、祖父・開地は韓の昭侯、宣恵王、襄哀王に仕えた宰相。父の平も釐王(きおう)、悼恵王の宰相です。悼恵王の治世23年の時に父・平が亡くなり、それから20年後、韓は秦によって滅ぼされました。

韓が滅んだ時、張良はまだ若くて韓の王朝に出仕してはいませんでした。

彼の家には召使が300人もいましたが、彼はこの家にそのまま安住しようとはせず、秦に復讐しようと刺客を求めて旅立ちました。

まず淮陽(わいよう)に行って礼を学び、次に東に行き倉海君という人物に会って大力の男を刺客として手に入れました。

120斤もの重さがある鉄槌を作り、秦の始皇帝が東方に巡幸した際、刺客とともに始皇帝を狙いましたが、始皇帝の車からはそれ、副車に当たりました。

未遂に終わったテロに始皇帝は激怒し犯人を全国指名手配しました。

張良は名前を変えて下邳(かひ…江蘇省)に逃亡しました。

ある日張良が下邳の町の散歩に出かけると土橋のところで一人の老人に会いました。

老人は粗末な衣服を着ていましたが、張良に近づくとわざと履いていた沓(くつ)を橋の下に落とし「おい、橋から下りてあの沓を拾ってきてくれ」と言いました。

張良はこの言葉に腹を立てなぐりつけてやろうと思いましたが、相手は老人です。ぐっとこらえて橋の下から沓を拾ってきてやりました。

するとこの老人は再び「沓をはかせてくれ」と言います。

張良はしかたなくひざまずくと老人に沓をはかせてやりました。

黄石公と張良

老人は沓をはかせてもらうと笑ってその場から立ち去りました。

なんだあいつは、と張良は老人をしばらく見送っていましたが、老人は1里ほど行くとまた張良の元に戻ってきました。

「おい、お前に教えてやることがある。5日後の早朝またここで会おう」と言うので、張良はひざまずき「わかりました」と言いました。

5日後の夜明け、張良が土橋に行くと老人はすでに来ていました。老人は張良に「約束していながら遅れるとは何事だ。帰れ!」と怒鳴りつけ帰ってしまいましたが、その時また「5日後の早朝ここで会おう」と前と同じことを言いました。

5日後、張良が鶏鳴(けいめい…午前2時ごろ。一番鶏が鳴くころ)の時刻に土橋に着くと、老人はまたもや先に来ていました。そして「遅れるとは何事だ、帰れ!」と張良を怒鳴りつけ、帰る時にはまた「5日後の早朝ここで会おう」と言いました。

5日後、張良は夜中にやってきました。老人はまだ来ていません。しばらくしてやってきた老人は「こうあるべきだな」と喜び、本を1冊取り出しました。

黄石公が張良に三略を授ける場面

「これを読むがいい。そうすればお前は王の師になれるだろう。お前は10年後に身を起こし、13年後にはまたわしに会うだろう。済北の穀城山(こくじょうさん)のふもとの黄石がわしじゃ」と言うと、立ち去り、その後二度と張良の前に現れることはありませんでした。

老人が張良に渡した本は太公望が書いた兵法書でした。太公望とは周王朝の軍師・呂尚(りょしょう)のことです。

張良はこの本を暇さえあれば熟読しました。この時期張良は下邳の町で任侠に身を置き、項羽の叔父・項伯が他の土地で人をあやめた時には張良を頼って身を隠したこともありました。このことが後に張良の身、ひいては張良が支えた高祖・劉邦の運命に大きく関わってきます。

この出来事から10年後、陳勝・呉広の乱が起きました。

雇われ農民で下級兵士となった陳勝と呉広が起こした秦打倒の反乱です。

強力な中央集権国家を作った始皇帝ですが、巡幸の途中で亡くなると王朝は宦官であった側近・趙高に実権を奪われ、後継ぎを誰にするかの混乱の中で秦は急速に弱体化していました。

陳勝・呉広による反秦ののろしには各地で呼応する動きが相次いで起こりました。みな秦の圧政に不満を抱いていたのです。

張良も決起に備え、若者を100人以上集めていました。

張良と劉邦の出会い

こうした動きの中、景駒(けいく)という人物がの仮の王を名のって留(りゅう…江蘇省沛県の東南)にいたので、張良はこの景駒に従おうと手下を従えて出発しますが、途中で劉邦に出会い、張良は劉邦の配下に入ることに決めました。

当時劉邦は数千人の手下を従えており、すでに進軍を開始していました。

劉邦は張良を厩将(きゅうしょう)という武官に任じ、張良はしばしば劉邦に太公望の兵法を語って聞かせました。劉邦はそれを優れた策だとして採りあげました。

張良はそれまでいろいろな人にこの兵法を説きましたが誰も興味を持たなかったので、劉邦を「天が授けた英雄だ」と思い、周りにもそう説きました。

劉邦が2万にふくらんだ兵を率いて秦と戦うことになった時、張良はこう進言しました。

「秦軍は衰えたとはいえまだ強力です。くれぐれも油断をしてはなりません。これから戦う秦の将軍は商人の子だそうで、こういう人間は利益で動くことが多いのです。戦う前にこの将軍を買収しましょう」

果たして秦の将軍は買収によって劉邦側に寝返り一緒に戦いたいと申し出たので、劉邦はこの申し出を承諾しました。すると張良は

「将軍は寝返っても兵士は従いますまい。兵士が従わなければ危険です。秦軍の気がゆるんだところで討ち取りましょう」と進言し、劉邦がこれに従ってこの将軍が率いる秦軍を討つと、張良の予想のとおり秦軍は敗北しました。

こうして劉邦は函谷関(かんこくかん…秦の関所)を突破し関中に入り、咸陽(かんよう…秦の首都)の都へと到達しました。

函谷関
函谷関。
函谷関
函谷関。周囲が崖になっています。
関中の地図
関中は函谷関の西一帯のことです。

秦の三世皇帝・子嬰(しえい)は投降し、劉邦が秦の王宮に入ってみると、財宝や美女などがそのまま残されていました。劉邦はこの王宮に留まりたいと思いましたが、樊噲(はんかい)は「ここを出て宿営しましょう」と勧めました。

劉邦がこの進言を聞き入れようとしなかったので張良は「沛公(劉邦のこと)がここまで来られたのは秦の暴虐極まりない治世に民の心が離れたからです。秦の都に入ったばかりでもう財宝や美女に目がくらむようでは、秦の暴虐な王と変わりません。どうか樊噲の進言をお聞き入れください」と言いました。

劉邦はこの張良の言葉を受け入れ、咸陽の都を出て覇上(はじょう)という場所で宿営しました。

鴻門と覇上の地図
鴻門と覇上の地図。

その頃、秦打倒の旗印の元で劉邦軍ともに戦ってきた項羽は、叔父・項梁の配下にいた劉邦が真っ先に函谷関から秦の牙城に入り、自分以外の諸将を秦の土地に入れまいと函谷関を封鎖している、秦王になろうとしているという話を耳に入れ、激怒して鴻門(こうもん)で劉邦を撃とうとしました。

以前張良にかくまってもらったことのある項伯が、夜劉邦の陣地に駆け付けて張良を呼び出し、密かに項羽のもくろみを伝えて一緒に逃げようと誘いました。

張良はこれを「そんなことをするのは義に反する」と言って、項伯の話を逐一劉邦に伝えました。

劉邦は項羽が激怒していることに驚き、どうしたらよいか張良に相談し「函谷関を封鎖させたのは、諸侯を中に入れなければ秦の地はすべてわしのものになると耳打ちした者がいたからだ」と言いました。

張良が「沛公は項羽に勝てますか」と聞くと、劉邦はしばらく押し黙り、それから「自信がない…」と言いました。

そこで張良は項伯を劉邦に会わせ、劉邦は項伯とともに酒を飲んで項伯の長寿を祝し、自分は項羽に背こうなどという邪心はないと項羽に伝えてもらいました。

こうして劉邦と項羽は鴻門で会い和解しました。

BC.206、秦を滅ぼした項羽は、劉邦を漢王とし、巴(は)と蜀(しょく)に封じました。劉邦は張良に褒美を与え、張良はその褒美の多くを項伯に渡しました。その後項伯を通して項羽は漢中の地も劉邦に与えました。

劉邦はその後自分に与えられた領地に行き、張良をふるさとの韓に帰すことにしました。

このとき張良は劉邦に「漢王(劉邦)がこれから西の領地に行くのであれば、途中通過する桟道(さんどう…山の崖のところに造られた道)を焼き払って、東のふるさとに帰って項羽に反旗を翻すことはないと安心させるといいでしょう」と進言しました。

劉邦は張良のこの進言を受け入れ、道々桟道を焼き払いながら西に向かいました。

張良の進言で桟道を焼き払う場面
張良の進言で桟道を焼き払う場面。

張良はふるさとである韓に帰りましたが、その後項羽が韓王の命を奪ったので、また劉邦の元に戻っていきました。

劉邦は、項羽から秦の旧地を封じられた元秦の将軍たちを撃ち破り、関中の地をすべて自分のものとし、張良を成信侯に取り立てました。

その後劉邦は張良を伴って東に向かい、項羽がその領地とした楚を撃ち、都・彭城(ほうじょう…江蘇省徐州)まで進軍しましたが、そこで項羽軍に敗北しました。

楚漢戦争初期の地図
楚漢戦争初期の地図。
彭城の戦いの場面
彭城の戦いの場面。

劉邦は函谷関以東はあきらめようと思うがどうか、と諸将に聞きました。

すると張良が「黥布、彭越、韓信に任せるなら項羽軍を破ることができます」と言いました。

劉邦は張良のこの言葉に従い彼らを重用して各地を攻略させ、これが劉邦軍の最終的な勝利につながりました。

劉邦即位後の張良

BC.201項羽との戦いを制し漢の高祖となった劉邦は、諸侯を功によって各地に封じました。

張良には戦功はありませんでしたが、劉邦は「いくさの作戦を考え、戦場から千里の外で勝利を決したのは張良である。斉で3万戸の邑を封じるので自分で選ぶように」と言いました。

これに対し張良は「私は下邳から出発し陛下と出会いましたが、これは天が授けてくれたものです。陛下は私の作戦を用いてくださり、それが幸い成功しました。私を留に封じていただけるならそれで満足であり、3万戸の邑などとんでもありません」と答えました。

劉邦は張良を留侯に封じました。

張良の身分は決まりましたが、まだ領地が定まっていない諸将が何人もいました。

洛陽の南宮から諸将の様子を眺めると、彼らがあちこちに集まって何やら話し合っていました。そこで劉邦は張良に「あれは何を話しておるのだ」と聞くと「謀反について話し合っているのです。陛下はご存じないのですか」と張良が言いました。

「なぜわしに背こうというのだ」「陛下は庶民から身を起こし、彼らとともに天下を取りました。皇帝となった陛下が封じているのは蕭何や曹参など同じふるさとの者ばかりです。逆に平素にらまれていた者は命を奪われています。また天下の土地がどれほど広くても諸将全員を封じることはできません。ですから彼らは自分たちもまた土地を封じてもらえないだろう、それだけでなく命も奪われるのではないか、それなら謀反を起こした方がよいと相談しているのです」

劉邦が「どうしたもんだろう…」と言うと張良は「陛下が普段から嫌っており、皆もそのことを知っている者は誰でしょうか」と聞きました。

劉邦は「雍歯(ようし)には恨みがある。何度もわしを苦しめ辱めた。あいつを亡き者にしたいと思っているのだが、いくさの功もまた多いのでそうするわけにはいくまい」と言います。

「それではすぐに雍歯を封じ、そのさまを諸将に見せてください。そうすれば皆安心します」

張良からこう言われた劉邦は宴会を開き、そこで雍歯を什方侯(じゅうほうこう)に封じました。

諸将は「雍歯でさえ侯に取り立てられたのだから、わしらも心配はない」と言って喜び合い、謀反の動きは消えました。

漢の都を決める際、劉敬が関中を推薦すると、側近たちはみな東方の出身だったので東の洛陽を推しました。洛陽は周囲が堅固で守りやすいというのです。

これに対して張良は「洛陽は守るに堅固ですが、土地が狭く痩せています。関中の地であれば函谷関を左に(※関中は函谷関の西側。北を背にした玉座から南を見たときの左という意味)、山々を右に、南には巴蜀の豊かな土地が広がり、北には異民族との通商の利益があります。南、北、西には険しい山があって守ることができ、東側だけ警戒を十分にしておけばいいのです。

反乱のきざしがない時は黄河や渭水(いすい)によって西の長安に貨物を輸送することができます。

諸侯に反乱のきざしがあればこの川を使って下ればよく、これまさに金城千里、天府の国です。劉敬の言を取り上げるべきだと思います」と言いました。

そこで劉邦はその日のうちに車で西に向かい、関中に都を置きました。

関中の地図
関中の地図。

張良は生来病気がちでした。そこで道引(どういん…道家の養生法)をやり、穀物は口にせず、1年以上外出しませんでした。

この頃劉邦は呂后の子・孝恵を太子(皇太子)としていたのを廃して、戚夫人(せき ふじん…劉邦の側室)の子・如意(じょい)を太子に立てようとしていました。

周囲はこれを諫めましたが、劉邦は聞く耳を持ちませんでした。呂后がこの事態に嘆き苦しんでいた時、ある人が「張良を頼るといいですよ。皇帝は彼の言葉には耳を傾けます」と助言しました。

呂后がこの助言に基づいて張良の元に人をやって「今陛下が太子を変えようとしているのに、重臣であるあなたは平然としていられるのか」と脅すと、張良は「いくさの時陛下は私の策を取り上げてくださいました。平和の世になった今、陛下は女性への愛情から太子を変えようとなさっている。こうした問題では私が役に立てることはありません」と答えました。

呂后がさらに頼み込むと「口で諫めても成功はしますまい。今陛下には呼んでも来てくれない人が4人います。この4人はみな老人ですが、傲慢な陛下を嫌って山から下りてきてはくれないのです。陛下は、高い義を持つ人々だとこの4人を尊敬しています。

もしあなたがこの方たちのために金銀や迎えの車を用意し、太子に手紙を書かせ、腰を低くしてお願いするならやってきてくれるでしょう。四老が来てくれたなら朝廷にお連れし、陛下に謁見してもらえたら陛下は不思議に思い、彼らにいろいろお聞きになるでしょう」と言い、劉邦がこの老人たちを高く買っているところを利用すべきだと教えました。

こうして4人の老人たちは呂后の兄・呂釈のもとにやってきました。

BC.196黥布が謀反を起こしました。劉邦は病床にあったので太子を将軍として黥布討伐に向かわせようとしました。この話を聞いた四老は「われわれは太子を守るために招かれたのであろう。しかし今太子が将軍になっては危ない。将軍になっても位が増すことはないし、功労がなかったら罰を受けよう。しかも太子に同行する将軍はみな猛将だ。太子が彼らを率いても誰も力を貸すまい。太子が功を立てることはあり得ない。黥布がこのことを聞けば勇んで刃向かってくることでしょう」と言い、劉邦自身が兵を統率するよう呂后から頼むとよいと進言しました。

呂后が四老のアドバイスに従って劉邦の出陣を頼むと、劉邦は「確かにあの小僧では無理だな」と言って、病床から起き上がり自ら出征しました。

劉邦が太子を換えようとしたのは戚夫人への寵愛からだといわれていますが、軟弱な太子・孝恵にも不満があったのです。

張良もまた病床から身を起こし出征前の劉邦に会いました。「陛下、私も従軍すべきですが、病気のせいでかないません。楚人は強く足が速いので、楚人といくさになるのはくれぐれもお避けください」と言った後、「太子を将軍として関中の兵士を監督させてください」と付け加えました。

BC.195劉邦は黥布を撃退して凱旋しましたが、その後病状は重くなっていき政務を執ることができなくなっていきました。

劉邦にはやはり太子を代えようという思いがあり、そのことで宴会を開きました。

太子は四老を従えて宴席につきました。四老の年齢は皆80余。髪も眉も髭も真っ白で美しい衣冠を身に着けていました。

劉邦がいぶかしく思って「あの者たちは?」と聞くと、四老はそれぞれ自分の名前を言いました。劉邦はそれを聞いて驚き「わしはずっとその方たちを探していたのに、わしを避けていたであろう。どうして今わしの息子に従っているのだ」と聞きました。

すると四老は口をそろえて「陛下はよく人を罵ります。私たちはそうした恥辱は耐えられません。そこで隠れておりました。太子は人の言うところを聞きますと、仁孝恭敬の人で部下を愛し、太子のためなら死ぬことも惜しまぬ者が大勢いるとか。それを聞いて出て参ったのです」と言いました。

それを聞いた劉邦は四老に向かって「そうだったか。それではどうか太子を護り助けてやってくれ」と言いました。四老は劉邦の長寿を祈ると帰っていきました。

その後劉邦は戚夫人を呼んで四老の後ろ姿を指さし、「太子を代えようと思っていたが、あの4人が太子を補佐している。すでに翼を持ってしまったからにはどうにもならない。呂后がそちの主人となる」と言いました。

戚夫人が涙を流すと劉邦は「わしはそちのために楚の歌を歌うから、そちはわしのために楚の舞を舞ってくれ」と言って歌い始めました。

鴻鵠(こうこく)高く飛んで 一挙に千里

羽翼すでになって 四海を横絶す

四海を横絶すれば まさに如何すべき

いぐるみ(糸をつけて射る弓)あれど 何処に施さん

こうして太子は廃嫡されることなく、戚夫人の息子・如意が太子として立つことはありませんでした。こうなったのも張良が四老を招き寄せた知恵によるものでした。

この後も劉邦について代を討ったり、蕭何を大臣にしたり、張良は活躍しました。しばしば劉邦と天下を語り合うことも多かったといいます。

張良は自分の人生を振り返って以下のように述べています。

「我が家は代々韓の宰相の家柄だった。韓が滅んだ時、私は万金の財産を費やすことを惜しまず、韓のために始皇帝を討たんと思い、天下を騒がせた。

今弁舌をもって皇帝の師となり、3万戸の邑に封じられ、高位を得た。しがない身分から始めた人生にしては頂点を得たという思いで満足だ。できることなら今後はこの世を忘れ、仙人に従って過ごしたいものだ」

こうして張良はその後穀物を口にせず、道引の術を行って体を軽くする修行をしました。

劉邦が崩御した後、呂后はなんとか張良にものを食べさせようとし「人生なんてあっと言う間に終わるのに、どうしてわざわざ苦しむ必要があるのです」と言うので、張良はこれに従って食事を取りました。

それから9年後に亡くなり、文成侯と諡(おくりな)されました。

張良は昔下邳の橋で会った老人から太公望の兵書を貰い、それから13年、劉邦に従って済北を通った時穀城山の麓で黄石を見つけ、これを宝としました。張良が亡くなると、周囲はこの黄石も張良とともに葬って祀りました。

史記』の「留侯世家」では張良について、劉邦が危機に陥るたびに張良が不思議な力を発揮してそれを救ったことを挙げ、これは天が与えた不思議な力と言うほかないと述べています。また張良の容貌について「壮大魁夷(かいい)な大男だと思い込んでいたが、その絵を見ると若い美女のようだったとも書いています。

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