管仲の生涯【鮑叔と共に桓公を支え斉を強国にした名宰相】

管仲

管仲かんちゅうは古代中国・春秋時代の宰相です。鮑叔との友情の逸話で有名です。

管仲とは

管仲(かん ちゅう…?~BC.645)は春秋時代の斉の宰相。名は夷吾(いご)で、仲は字(あざな)です。河南省から安徽省に流れて淮河(わいが)に注ぐ頴水(えいすい)流域に生まれました。

春秋時代の地図
春秋時代の地図。管仲は斉の宰相でした。
年表
年表。管仲は春秋時代に活躍しました。

管仲の生きた時代

管仲が生きた斉の襄公(じょうこう…在位BC.697~BC.686)時代は国内が混乱しており、襄公の弟である糾(きゅう)は、生母の出身国である(ろ)に亡命し、弟の小白(しょうはく)は莒(きょ)に亡命していました。

管仲は襄公の弟・糾に仕え、友人の鮑叔(ほう しゅく)は小白に仕えていました。

斉国の有力者である高氏と国氏が小白を斉に呼び戻そうとすると、魯も軍隊をつけて糾を斉に戻しました。その途中、糾に仕えていた管仲は小白に矢を放ち、それは小白の帯の留め金に当たりました。小白は死んだふりをし、管仲はそれを見て、これで安心と斉国に戻りました。

死んだふりをしていた小白は立ち上がって急いで斉の都に戻り、高氏・国氏の協力のもと、斉国の王に即位しました。これが斉の桓公です。

桓公・かつての小白は自分を暗殺しようとした管仲を処刑しようとしますが、その時、管仲の友人・鮑叔(ほう しゅく…生没年不詳)が桓公をこう諫めます。

「王が天下取りをお考えなら管仲は不可欠です。殺してはなりません」

そこで桓公は管仲を宰相に抜擢し、鮑叔はその部下となりました。

鮑叔の姓は「姒(じ)」で、「鮑」は氏(うじ)、「叔」は字(あざな)、「牙」は諱(いみな…生前の実名)で、鮑叔牙ともいいます。

当時、斉は中原から離れた海辺の小国でしたが、管仲は商業を発展させ、国庫を豊かにし、強力な軍事態勢を整えました。彼は民に命令する時には民の気持ちや感情に注意を払ったといいます。

「衣食足りて礼節を知る」は今もよく使われる言葉ですが、元は「倉廩実則知礼節、衣食足則知栄辱」…倉廩(そうりん)実(み)つれば則ち礼節を知り、衣食足れば則ち栄辱を知る…といい、これは管仲が言ったとされる言葉です。軍事力を高めるなら、先ずは国民を豊かにしなければならない。そのためには商業の発展だ!

管仲の政治

管仲はその政治において、失敗から成功を導き、事の大小を見極めてバランスをとったといわれています。

彼が仕える桓公が蔡(さい)出身の奥方との夫婦喧嘩が元で、蔡(さい)を攻めようとした時、管仲はこれをきっかけにしてを討ちました。

桓公が北方の異民族を討った時は、それをきっかけに(えん)の政治改革を進めました。

BC.681年に斉と魯が同盟を組んだ時、魯の将軍が刃物を桓公に突き付けて、斉がかつて魯から奪った土地を返すよう脅しました。

桓公はその時はそれを約束し、後になって反故にして魯の将軍の命を奪おうとしますが、管仲は「信義は守らなければいけません」と桓公を諫めました。

管仲は政治というものについてこう言っています。

「与うることの、取ること為(た)るを知るは、政(まつりごと)の宝なり」

(人に与えるとは、実は人から与えられるということだと気づけるかどうか、これが政治の要諦だ)

管仲によるさまざまな提言を聞き入れることで桓公は諸侯から信頼を得ることができ、BC.679年に諸侯と衛で一堂に会して、覇者の地位に就きました。

管仲が桓公からほうびとして得た富は莫大なものでしたが、斉の民はそれを当然だとして管仲を批判することはありませんでした。

管鮑の交わり

管仲といえば鮑叔であり、「管鮑(かんぽう)の交わり」といえば深い友情のたとえとして現代でも使われています。

管仲は、自分が成功したのは鮑叔のおかげだと言い、以下の言葉を残しています。

「昔鮑叔といっしょに商売をしたが、私は分け前を鮑叔より多く取った。しかし鮑叔はそれを見て私を欲張りだと非難しなかった。私が貧乏であるのを彼はよく知っていたからだ」

「かつて鮑叔のために私がやってやったことが失敗に終わったが、彼は私を愚か者と罵ることはなかった。ものごとには運というものがあることを知っていたからだ」

「私は3回仕官し3回罷免されたが、彼は私をダメな奴だとは言わなかった。私を認めてくれる人にまだ出会っていないことを知っていたからだ」

「私は3回いくさに出て、3回とも逃げ帰ったが、彼は私を卑怯者とは言わなかった。私には老母がいることを知っていたからだ」

「私を生んでくれたのは父母だが、私を真に知る者は鮑叔である」

「知己」(ちき)という言葉がありますが、日本語では「知り合い・知人」程度の意味で使うことが多いですが、中国語では「親友」という意味になります。「自分を深く理解してくれている、かけがえのない人」、それが「知己」です。

孔子は管仲をどう評価したか

孔子は『論語』(憲問篇)で、管仲に対して以下のように高く評価しています。

子路・子貢:「管仲が桓公に滅ぼされたかっての主人である糾に殉じることなく、桓公の宰相になった行為は果たして仁者の行為でしょうか」

孔子:「桓公は諸侯たちをまとめる時に武力を使わなかった。これは管仲のおかげだった。これに勝る仁はない」

ところが八佾篇で孔子は「管仲の器は小さい」と、管仲の狭量さや派手好み、礼儀知らずなどを批判しています。