阿房宮の設計と歴史【3か月間燃え続けた秦の大宮殿】

阿房宮

阿房宮(あぼうきゅう)は始皇帝が建てた巨大な宮殿で、天の星の配置を模して造られました。始皇帝は完成を待たずに死去、後に項羽によって焼き払われ、3か月間燃え続けたと伝わっています。

阿房宮とは

阿房宮
阿房宮。

阿房宮(あぼうきゅう)は秦の始皇帝が自ら計画し、B.C.212渭水の南側に建設した巨大な宮殿です。後に項羽によって火を放たれて焼失したとされています。宮殿の大きさは東西が約690メートルで南北が約115メートル、殿上には1万人が座ることができ、渭水の北側にあった咸陽宮とは2層の廊下でつながっていました。宮殿の配置は天の星座の配置に対応し、阿房宮を天の極に、渭水を天の川に、咸陽宮を「天子の宮」とされるペガスス座の二つ星に見立てたもので、皇帝の住まいを天帝の住まいと同じ構造にしようとしたものです。始皇帝は地を支配するとともに、天をも支配しようとしたのでした。始皇帝は阿房宮の完成を見ることなく、建設から3年後に死去。その4年後に秦は滅亡しました。

年表
阿房宮は秦の時代に建設されました。

咸陽の都と宮殿群

秦は全国を統一すると、咸陽をみやことしました。皇帝の権力の威容を示そうと、財力を注ぎ、贅を尽くし、当時の建築技術の粋を集めて、首都と宮殿を建設しました。他の諸国の都市設計とは異なり、咸陽には中国の古代都市には必ず見られる城壁がありません。城壁は防衛のためのものですから、始皇帝はそれだけ防衛には自信があったのでしょう。宮殿は天帝の住む天に見立てられており、壮大な構想と始皇帝の天帝たらんとする凄まじい野望が伺えます。

咸陽は秦の孝公の時代(B.C.350)から、秦王朝が滅亡する(B.C.206)まで144年間秦のみやこでした。秦王政の時代には六国平定の過程で、一国を攻め落とすと、その国の最も壮大にして美しい宮殿の測量をし、咸陽に同じ宮殿を建てました。これら宮殿群を「六国宮殿」といいます。天下統一の時にはこれら六国宮殿は全部で145あり、それらの宮殿には各地から連れてきた1万人の美女を住まわせていたといいます。

阿房宮の造営

阿房宮の造営プランは始皇帝自身が立てました。みやこの政治の中心を咸陽宮のある渭水の北から南に移して、南に広がる平地に、新しく建てる宮殿を中心とした都市を作ろうとしたのです。この新宮殿こそ阿房宮です。

阿房宮の阿房とは地名で、始皇帝の存命中、この宮殿の正式の名前はまだ決まっていませんでした。

史記』秦始皇本紀によれば、正殿の大きさは東西五百歩(約690メートル)、南北五十丈(約115メートル)、堂上には1万人が座れ、堂下には五丈(11.5メートル)の旗を立てることができました。

ここから閣道(2層の渡り廊下)が南に伸び、南山の頂を宮殿の正門とし、北に伸びる閣道は咸陽宮につながりました。これは阿房宮を天極に、渭水を天漢(天の川)に、咸陽宮を営室(二十八宿の星座の名。ペガスス座にあたる)に見立てた構造になっています。これはまた当時の人々が理解していた天体の構造そのもので、始皇帝は皇帝である自分の住まいを天帝の住まいに見立てていたのです。

阿房宮の閣道はさらに始皇帝陵(始皇帝の陵墓)にまでつながっていました。始皇帝陵はB.C.247始皇帝が秦王に即位した時に造営が始まり、中国統一後は大幅に拡張されました。この地下にはあの有名な兵馬俑が眠っています。

始皇帝陵
始皇帝陵。
始皇帝陵
始皇帝陵。
兵馬俑
兵馬俑。

始皇帝は天地を統治するとともに、冥界をも支配しようとしていたのでした。

阿房宮の門前には、全国から没収し集められた武器を溶かして作った、青銅製で金メッキを施した巨大な人物の像を置きました。北方や南方の楚や蜀など国のあちこちから石材や木材を運び、建設には70万人以上の囚人などが従事しました。

建設中、民間では「阿房、阿房、始皇を滅ぼす」という歌が流行っていたと伝わっています。

事実阿房宮をはじめとし、始皇帝陵や万里の長城などの巨大建築群の造営は、秦王朝の早い滅亡の原因の一つにもなりました。

阿房宮の運命

始皇帝の飽くなき夢を実現させようと作られた阿房宮ですが、この世に長く残ることはなく、打倒秦の先頭に立った楚の項羽が咸陽入りした時これに火を放ち、阿房宮は焼失してしまいました。

ところが近年、この時焼失したのは阿房宮ではなく咸陽宮だという説が登場しています。

阿房宮は項羽軍に焼かれて3か月燃え続けたと『史記』項羽本紀に書かれているのですが、中国の考古学チームの発掘調査によると、広い範囲で発掘したにもかかわらず、阿房宮の跡からは焦土が数か所しか出てこなかったというのです。3か月も燃え続けたのに、焦土がこれしか出てこないということはあり得ない。逆に咸陽宮の跡地からは広い範囲の焦土遺跡が発掘されているのだとか。

もし阿房宮が燃えていないのだとしたら、以降そこはどうなったのでしょうか。謎が深まります。

今も阿房宮の跡には高さ20メートル、広さ26万平米の基壇が残されており、この基壇を土地の人は「始皇台」と呼んでいるそうです。

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