劉邦の生涯~400年続く王朝を打ち建てた高祖~【歴史地図】
劉邦は秦の始皇帝の後、中国を統一して漢王朝を建てた人物で、高祖・劉邦と呼ばれます。農民出身で、遊侠無頼の徒でした。彼を慕って集まる同じ身分の若者と共に決起し、楚の英雄・項羽と並ぶ、秦打倒の一方の旗頭となっていきました。
劉邦とは
劉邦(りゅう ほう…BC.256?~BC.195/BC.247?~BC.195)は沛という小さな町の農民出身ですが遊侠無頼の遊び人でした。不思議な魅力の持ち主で、陳勝呉広の乱が伝わると、周囲から持ち上げられて反秦決起の中心に祭り上げられます。沛の若者数千人を引き連れて出陣、その後項梁・項羽軍の配下に入りました。やがて秦の本拠地である関中(函谷関の西)に一番乗りし、秦の三世皇帝を降伏させますが、遅れて関中に入った項羽が激怒、危ういところを鴻門の宴で和解します。項羽は圧倒的に強く、劉邦軍は負け戦が多かったのにやがて勢いは劉邦側に。和議によって項羽が東、劉邦が西をそれぞれ治めることになりましたが、劉邦はこれを無視。項羽軍を追撃して垓下で包囲、自刎に追い込みます。こうして漢王朝を建国しますが、その後も功臣の反乱が続き、劉邦は反乱討伐時の傷が元で死去しました。
劉邦の出生伝説
劉邦は、沛(はい…江蘇省沛県)の豊邑に生まれましたが、その出生にはこんな伝説があります。
劉邦の母親がある日沢のほとりでうたたねをしていた時、神に会った夢を見ました。この時空が真っ暗になって稲妻が走り大きな雷が鳴りました。そこで父親が行ってみると、母親の体の上に蛟竜(みずち…竜の一種)が乗っていました。それからしばらくして母親はみごもり、男の子を産み落としました。これが劉邦だったという話です。
劉邦の外見と人となり
今から2300年ほど前に生きた劉邦は鼻が高く、竜顔で髭が美しかったといいます。天子の顔を竜顔と呼びますが、劉邦の容貌を伝える「竜顔」とはどんな顔だったのか?鼻が高いとありますから何やら高貴さを感じさせる容貌だったのかもしれません。また左の腿には72のほくろがあったそうです。本人がヒマつぶしに数えて周りに教えたのでしょうか。だとしたらなんだか人を食ったような面白そうな人です。劉邦は人情に厚く、人にものをやるのが好きで、ものごとにこだわらずいつも悠然として、家業である農作業はしなかったと『史記』に書かれています。またある本には、若い時の劉邦は「遊侠の徒」だったとあります。遊侠の徒つまり侠客です。中国語の「侠客」とは義に厚い男のことで良いイメージがありますが、正業にはついていない者の意味もありますから、一種のやくざもんだったのしょう。
劉邦は労役に徴用されて咸陽(かんよう…秦の首都)に行った時、始皇帝の行列を垣間見ました。その姿に劉邦は「男と生まれたからには、ああなりたいものだ」とため息をついたといいます。宿敵・項羽は呉中で同じく始皇帝の行列を目にしますが、彼は「いつかあいつに取って代わってやろう」と呟き、叔父の項梁があわててその口をふさぎました。秦の役人の耳に入ったら、一族もろとも命がないからです。
ギラギラと野心がたぎっているような項羽と、どこかのほほんとした劉邦…二人の個性の違いがよくわかる話として古来よく取り上げられています。
決起以前の劉邦
劉邦は壮年になってからやっと正業につきました。沛を流れる泗水(しすい)という川のほとりの町の亭長という小役人の仕事です。劉邦は周りの役人たちを馬鹿にし、酒色にあけくれ、酒場に入り浸っては酔いつぶれていました。ところがその劉邦の体にはいつもとぐろを巻く龍の姿が見えたので、酒場のマダムたちは不思議に思っていました。劉邦はツケで酒を飲み長居を続けるのですが、彼がいると酒がよく売れるのでこれも不思議でした。劉邦の体にまとわりつく龍の姿を見てからというもの、酒場では劉邦のツケを帳消しにして酒代を請求することはなかったといいます。
沛の県令(県知事に当たる)の知り合いに呂公という人物がいて、仇を避けて県令の客人となっていました。仇を避けるということはどこかで人をあやめてきたのでしょうか。沛の豪傑や郷吏といったそれなりの人物たちは、県令に重要な客があると聞くと進物を持って呂公の元に挨拶に出かけました。
後に劉邦配下となる蕭何(しょう か…?~BC.193 劉邦の腹心。漢の政治家)は沛県の役人だったので、こうした進物を管理していました。進物イコール金だったのでしょう。蕭何は挨拶に来た人々に「手土産千銭以下の人は堂下に座るように」と声をかけました。屋敷に上げてもらえるのは金をたんまり持ってきた人だけということです。
亭長という役職についた劉邦も出かけていきましたが、彼は一文も持っていかなかったくせに「進上一万銭」と書いた名刺を差し出しました。
呂公は名刺に書かれたこの額に驚き、わざわざ劉邦を玄関先まで出迎え奥に通して上座に座らせました。蕭何は劉邦をよく知っていたので「あいつはほら吹きです。一万銭など持っていないですよ」と忠告しましたが、劉邦はいつも周りの人間を馬鹿にしていたので、周囲の視線などどこ吹く風で上座にどっかと座りました。
酒宴が始まると呂公は劉邦に近づき「あなたは実に立派な人相をしておられる。うちに娘が一人おりますので下女として使ってやってはもらえぬか」と声をかけました。
呂公の妻は酒宴が終わると夫に「あなたはいつも、うちの娘は優秀だからそれなりの男にしかやらないといって、沛の県令の求婚だって断っているではないですか。それをあんな劉邦なんてつまらぬ男に」と文句を言いました。
すると呂公は「こういうことは女子供にはわからんのだ」と言って、娘を劉邦に嫁入らせてしまいました。
この呂公の娘こそ後の劉邦・漢の高祖の正妻・呂后(りょ こう…BC.241~BC.180中国三大悪女の一人といわれる)です。呂后は後に漢の第二代皇帝・恵帝となる息子と魯元公主となる娘を生みました。ちなみに公主とは皇帝の娘のことです。
二人が結婚した後、呂后と子供二人が劉邦の実家の田畑で草刈りをしていると、一人の老人が通りかかりました。老人が水を一杯ねだったので呂后は食事を与えてやったといいます。後年すさまじい悪女として知られるようになる呂后も若い頃はなかなか良い人だったのです。すると老人は呂后の顔を見て「あなたは天下取りの貴相をしておられる」と言いました。そこで子供たちの人相も見てもらうと、男の子には「あなたはこの息子によって貴くなれる」といい、女の子にも「この子にも貴相がある」と言いました。この老人が立ち去った後に劉邦がやってきたのでこの話を伝えると、劉邦は老人を追いかけ自分の人相も見てもらいました。すると老人は「あなたの人相はまた格別じゃ」と言ったので、劉邦は「じいさんの言葉が当たったら、この恩は忘れないぞ」と言って老人を見送りました。劉邦は皇帝の地位まで上りつめた後この老人を探しましたが、その行方はわかりませんでした。
老人は縁もゆかりもない若いかみさんが食べ物まで恵んでくれたので、思い切りリップサービスをしたのかもしれません。でも皇帝になった後この老人を探したということは、劉邦はこの予言にずいぶんと励まされたのでしょう。
劉邦がある日役人の仕事として、始皇帝の陵(あの有名な兵馬俑が出てきた所です)建設のために徴用された者を都・咸陽まで送り届けることになりました。ところが彼らは次々と途中で逃げ出し、劉邦はこれでは咸陽に着く前にみんないなくなるだろうと思い、豊邑の西沢という所にとどまって酒を飲み、彼らに「わしも逃げるからお前らも好きな所に行け」と言いました。何ともやる気のないお役人です…
するとその中の十人ほどが「わしらはあなた様についていきたい」と言うので、ともに沼地を先に進んでいきました。劉邦にはどこか人を惹きつけて担ぎたくなるところがあったのでしょう。途中大蛇が道をふさいでいたので劉邦がこれをたたき切ると、老女が現れ「私の子は白帝の子だが大蛇に変身していたところを赤帝に切られた」と泣きました。
この話の中の白帝は秦を指し、赤帝は漢を指すと『史記』は書いています。
その頃始皇帝は「東南に天子の気がある」と言い、その気を鎮めようと南東に巡幸しました。劉邦はその話を聞いて自分のことを言っているのではないか、命を奪われるのではないかと恐れて沢の岩のかげに身を隠しました。
呂后は夫がどこに行ったかわからなくなると探しに出かけ、いつもその隠れ場所を探し当てました。劉邦がどうしてわかるんだといぶかると、「あなたのいる所にはいつも雲気がただよっているのですぐわかるのですよ」と答えました。
沛の若者たちは劉邦のこうした奇譚を伝え聞き、彼に付いていこうとする者が増えていきました。
決起以後の劉邦
始皇帝の死後数年経ったBC.209に陳勝・呉広の乱という農民の反乱が起きました。陳勝は秦の諸都市を陥落させると陳で王を名のり、国名を張楚としました。この反乱に呼応して全国各地で土地の長官の命を奪い陳勝に続こうとする動きがありました。
沛の長官はこの動きを怖れ、自分の方から秦を裏切り沛の民を率いて陳勝に応じようとしましたが、蕭何と獄吏の曹参(そう さん)が「長官のあなたが秦に背いても、沛の子弟はあなたについて行こうとはしないでしょう。それより沛の民で秦の支配から逃げ出した者を呼び戻し、彼等を使って民を動かした方がいいですよ」と進言しました。
そこで樊噲(はん かい…後に漢の武将となる)に劉邦を呼びに行かせると、劉邦に付き従う者は百人ほどに増えていました。ところがこの頃になると沛の長官は秦に反旗を翻そうとしたことを後悔し、城門を閉じて蕭何たちの命を奪おうとしました。そこで蕭何や曹参は逃げ出し、劉邦を頼りました。
劉邦は沛の有力者たちに「秦の天下で我々は長く苦しんだ。今諸国の将軍たちが決起し、彼らはこの沛にもやってくるだろう。我々は今のうちに沛の長官の命を奪い、若者を選んで精鋭軍を作り、諸侯に呼応して秦打倒に立ち上がったならば、この町も家も無事まっとうできるだろう」と説きました。
沛の有力者たちは若者を率いて沛の長官の命を奪い、劉邦を代表に立てようとしました。劉邦は自分は能力がないと言って断りましたが、蕭何たちはこの決起に失敗したら秦に一族もろとも滅ぼされるのが怖く、代表は劉邦がなってくれるよう頼みました。
有力者たちも「あなたにはさまざまな不思議があると聞いた。将来必ず貴人になられるお方だ」と言うので劉邦は引き受けざるを得なくなり、立って沛公(沛の長官)と名のることになりました。
劉邦はまず、黄帝(こうてい…神話に出てくる皇帝)と蚩尤(しゆう…神話の中の神)を祀り、決起の成功を願って旗の色を赤く染めました。
蕭何や曹参などもと秦の役人たちは沛の若者を数千人集め、劉邦は彼らを従えて出陣しました。
翌年のBC.208に劉邦軍は、呉で決起しそのころ薛(せつ 山東省)にいた項梁軍の配下に入りました。はじめ項梁軍は連戦連勝でしたが、その後項梁は態勢を整えた秦の将軍・章邯(しょう かん)に敗北し戦死しました。
項梁によって反秦のシンボルとして楚王に担がれていた懐王(かいおう…秦に酷い目に遭わされた楚の懐王の孫)は劉邦に西を攻略して函谷関に入るよう命じ、諸将にも「一番早く函谷関に入って関中を平定した者を関中の王としよう」と約束しました。
函谷関は秦の関所で、関中とは秦の領地のことです。つまり秦の本拠地を取れと命じたのです。この時期章邯率いる秦軍は強く、諸将は誰も函谷関に行きたがりませんでしたが、秦によって叔父を喪った項羽だけは敵討ちのために函谷関に行くことを希望しました。
ところが諸将は「秦の首都陥落に向かうのに項羽は残忍すぎる。あいつが攻略した土地では民はみな生き埋めなどにされて生き残るものがない。ここは人柄の穏やかな沛公に任せるべきだ。彼に秦の人々を説得させよう。乱暴をしなければ彼らは戦わずに降伏するはずだ」と口々に言いました。そこで懐王は項羽の函谷関行きは認めず、劉邦軍のみ函谷関に向かわせました。
劉邦軍は函谷関に向かう途中各地を攻略しつつ、とうとう函谷関を突破して関中に入りました。関中というのは春秋戦国の秦の領土を指し、ここは肥沃な土地として知られていました。
関中に入ってまもなく、秦の二世皇帝を亡き者にして独裁者にのし上がった宦官の趙高(ちょう こう)が人をよこし、関中の地を二人で山分けし共に王になろうと持ちかけました。劉邦はこの話を偽りだとして相手にしませんでした。
関中に入ると、劉邦は配下の兵士に民家の略奪を禁じたので秦の人民は喜び、秦軍は戦意を失って劉邦軍に敗れました。
BC.206、劉邦軍は覇上(はじょう…西安郊外)に至り、秦の三世皇帝・子嬰(しえい)は劉邦の元を訪れ降伏しました。劉邦は三世皇帝の命を奪うことなく監視下に置き、樊噲と張良の進言によって秦の財物の蔵を封鎖し手をつけようとはしませんでした。
また秦の人々に向かって法三章を約束しました。法三章とは、人をあやめた者は死刑、人を傷つけたり盗みを働いたものは相応の処罰、これ以外の秦の法律はすべて撤廃というものです。この布告に秦の人々は大喜びし、劉邦が関中の王(秦王)になってくれなかったらどうしようと心配するほどでした。
楚漢の戦い
翌月項羽も函谷関に到着しましたが、劉邦軍が守っていて項羽軍を中に入れようとせず、項羽は激怒しました。そこで配下の将らに函谷関を開けさせ、項羽もまた関中の地に足を踏み入れました。
そこへ劉邦配下の曹無傷(そう むしょう)が人をよこして「沛公は関中の王となり、秦の三世皇帝を丞相(じょうしょう 首相のこと)とし、秦の財物をわが物にしようとしています」と讒言しました。曹無傷はこの後は項羽の世の中だと読んで、功臣として領土を求めたのです。
項羽は軍師の范増(はん ぞう)が劉邦を討つことを勧めたので、翌朝にも劉邦軍と一戦を交えることにしました。
この時項羽の軍勢は自称100万、実数40万、劉邦の軍勢は自称20万、実数10万で項羽軍の敵ではありませんでした。
そこで項羽の叔父・項伯は恩義のあった劉邦配下の張良を救おうと夜会いにいきました。張良は項伯の話を聞いてこれを劉邦に伝え、項羽の元へと戻った項伯は劉邦の釈明の手紙を項羽に渡しました。項伯に説得され、項羽は劉邦を討つ気がなくなります。
こうして劉邦は鴻門にいる項羽の元へと釈明に訪れることになりました。項羽の軍師・范増はこの宴会(「鴻門の会」)で劉邦を討とうとしますが、項羽は劉邦を斬る気になりません。
劉邦が項羽の元を訪れ詫びたとき、項羽は「おぬしの左司馬である曹無傷の言葉が元になった。それがなければこんな事はやらない」と言いました。
宴会に途中から入ってきた樊噲(はんかい)が、項羽に勧められるまま大量の酒を飲んでいる間に劉邦は厠(かわや…トイレ)に立ち、逃げ延びることに成功します。
劉邦はあやういところを樊噲と張良のおかげで命拾いし、自陣に戻るとすぐさま曹無傷を斬って捨てました。
このあと項羽は咸陽の都に入って秦の宮殿・阿房宮を焼き払っただけでなく、到るところを破壊しました。この状況に秦の民は失望しましたが、項羽の恐ろしさに口を閉じ従うほかありませんでした。
こうした状況に楚の懐王は「先に関中に入った者が関中の王になるという約束を守るよう」項羽に伝えました。項羽は「アンタはわが項一門が作った王位に乗ってるだけではないか。実力などないくせに」と言って、懐王に「義帝」という名ばかりの地位は与えたものの、その命令はまったく聞こうとはしませんでした。
翌年の正月に項羽は西楚の覇王を名のり、梁や楚の九郡の王となって彭城(ほうじょう…江蘇省徐州市)を都にしました。懐王との約束を反故にして、まっさきに関中に入った劉邦を関中の王とはせず、巴、蜀、漢中のみの王として漢王を名のらせ、南鄭(なんてい…陝西省漢中市)を都とさせました。
関中は3つに分け、項羽に帰順した秦の将軍3人に分け与えました。また秦打倒の旗印のもとに戦った諸将たちにもそれぞれ領土を封じました。そののち項羽や諸将はみな東方にある自分の国に向かいましたが、劉邦軍のみ西の漢中に向かいました。劉邦配下の韓信は「沛公のみ流罪になったも同然です。軍吏も兵士もみな山東から来ており、故郷に帰りたがっています。われわれも東に戻って、項羽と天下を争いましょう」と劉邦に進言しました。
劉邦は韓信のこの進言を受け入れ、漢中から東に進み関中に入りました。
項羽はのちに義帝に移動を命じ、義帝の群臣がこれに背く動きをみせると義帝の命を奪いました。諸将の中にも項羽に不満を持って兵を起こす者がありました。
BC.205、劉邦は楚の都・彭城を占領しますが、対斉戦から急きょ戻った項羽軍に大敗を喫しました。劉邦軍の兵士の屍で睢水(すいすい…河南省を流れる川の名)は埋まり川の水の流れが止まったといいます。この時項羽軍は劉邦の父と妻・のちの呂后を捕らえて人質としました。劉邦は敗走する際家族を探しましたが息子・孝恵と娘・魯元だけが見つかり、他の家族は見つけることができませんでした。子供二人を自分の車に乗せましたが項羽軍に追いつかれそうになると、劉邦は邪魔になった子供を車から蹴落としました。御者の夏侯嬰(かこう えい…漢の武将)がその都度子供たちを拾い上げまた車に乗せました。こうしたことが三度繰り返されました。
この戦いで劉邦側についていた諸将たちは項羽軍の強さを見て再び項羽側に寝返りました。
翌BC.204、劉邦は滎陽(けいよう…河南省鄭州市の西)や成皐(せいこう…河南省滎陽県北西)でもそれぞれ項羽軍に包囲されますが、劉邦はなんとか脱出。翌BC.203広武山(こうぶさん…河南省滎陽県北東)で両軍は対峙し、互いに一歩も譲らず戦いは膠着しました。そこで項羽が「我々二人だけで決戦しよう」と呼びかけました。
すると劉邦は項羽の罪をあげつらいました。
「お前は楚の懐王との約束を破り、わしが先に函谷関を破って関中に入ったのに、わしを関中の王にはしなかった」「懐王は秦に入ったら略奪をしてはならぬと言ったのに、お前は秦の王宮を焼き、始皇帝の墓を暴いて財宝を自分のものとした」「秦の三世皇帝・子嬰は自ら降伏したのにその命を奪った」「降伏した秦軍兵士20万を生き埋めにした」「義帝の命を奪った」等々10の罪状を挙げて「お前は大逆非道の悪党である。わしは正義の兵士を率い、諸将を従えてお前を討たせているのに、わしがそんな悪党と一騎打ちなどするはずがなかろう」と言いました。
これを聞いて項羽は激怒し弓で劉邦を狙いました。矢は劉邦の胸に当たりましたが、足をさすって「指にかすり傷じゃ」と言いました。この後韓信が楚軍をおおいに破りました。
項羽は糧道(りょうどう…食料の補給路)が断たれ韓信が自軍を苦しめている状況に、劉邦に対して和議を申し入れました。西を劉邦の領土に、東を項羽の領土にしようというもので、劉邦の父や妻も解放しました。
和議が成立し項羽軍は東に戻り、劉邦軍は西に向かうことになりましたが、劉邦は張良と陳平の進言を受けて項羽軍を追撃し、韓信や彭越とともに項羽軍を討つことにしました。ここに黥布(げいふ)や劉賈(りゅう か)も加わりました。
こうしてBC.202垓下(がいか…安徽省蚌埠市)で戦いが始まりました。項羽は自軍を包囲する劉邦軍から楚の歌が流れてくるのを聞いて、楚の地はすべて劉邦軍の手に落ちたと思い、包囲網をかいくぐって脱出しました。劉邦はこれを騎将・灌嬰(かん えい)に追撃させ、東城(安徽省定遠)を経て烏江(うこう…安徽省馬鞍市和県烏江鎮)で項羽を自刎に追い込みました。
こうして劉邦は楚の地を平定しましたが、魯の民だけは降伏しようとしませんでした。劉邦が魯人に項羽の首級を見せるとやっと降伏しました。
項羽は魯公とされていたことと魯人が項羽への節を立てて最後にやっと降伏したことにより、項羽を魯公の名で穀城(こくじょう…山東省東阿)に葬りました。
漢の皇帝時代
項羽を垓下で破ったBC.202劉邦は皇帝の地位に就きました。
劉邦は都・洛陽の宮殿で酒宴を開き、諸侯たちに「自分がなぜ天下を取ったのか、項羽はなぜそれに失敗したのか、わしに気兼ねすることなく述べてみよ」と問いかけました。
王陵(おう りょう)が「陛下は人を馬鹿にしていましたが、項羽は人を愛しました。ただ陛下は土地を攻略させた後その武将にその地を与えましたが、項羽は賢い者や能力のある者に嫉妬し、こうした人々に褒美を与えず、逆に命を奪ったり疑ったりしました。これが項羽が天下を取れなかった理由です」と言いました。
すると劉邦は「そちは一を知っても二を知らない。謀略をめぐらし勝利を決めることに関してはわしは張良に及ばない。国家を運営し、戦いにおいて糧道を保つことではわしは蕭何に及ばない。いくさの強さにおいてはわしは韓信に及ばない。この三傑をわしは使うことができた。これこそわしが天下を得た理由である。項羽は范増一人さえ使うことができなかった(劉邦側の謀略により項羽は范増に不信感を持ち、怒った范増は項羽の元を去った)。これこそヤツが天下を取れなかった理由である」と言いました。
この後諸侯を功に基づいて各地に封じ、漢の都を長安に定めましたが、反乱が相次いだため、劉邦は自ら征伐に出かけました。
BC.201韓信が謀反を図っているとの話を聞いて、いったん楚の王に封じた韓信を淮陰侯(わいいんこう)に格下げし、楚の地を楚と荊に分けました。
BC.200匈奴が韓王を攻撃し、韓王は匈奴と図って漢王朝に反旗を翻したのでこれを討ちました。BC.196韓信が反乱を起こしたのでこれを討ちました。
同年黥布が反乱をおこしたので劉邦はこれを討伐に行きました。この途中ふるさとの沛を通り、ここで酒宴を開きました。昔なじみなど沛の民を招いて上下の隔てなく酒盛りを楽しみました。沛の子供たち120人を集めて歌を教え、劉邦自身が筑(ちく…弦楽器の一種)をうちながらみずから歌いました。
大風起こって雲は飛揚す
威は海内に加わって故郷に帰る
いずくに猛士を得て四方を守らん
子供たちにはこの歌に唱和させ、劉邦は舞い、感極まって涙が頬を伝わりました。
劉邦は沛の民に「わしは関中に都を作ったが、わが魂はいつまでも沛を懐かしく思っているだろう。沛の地は以後民の賦役(ふえき…税金と徴用)を免じよう」と告げました。
こうして漢の高祖となった劉邦はこの地で10日余りを楽しみました。
劉邦は黥布を討つ際、流れ矢に当たって道中傷がひどくなりました。
呂后が宮中に名医を呼び劉邦の診察にあたらせました。劉邦が「傷は治るか」と聞くと、名医は「治ります」と答えました。これを聞いて劉邦はひどく腹を立て、「わしは、しがない身分から身を起こして天下を取った。これは天命だったのだ。天命が尽きれば病など治せるはずがあるまい」と言って治療をさせず褒美だけやって帰らせました。
呂后が「陛下が百歳になって蕭何大臣が亡くなったら誰に国家を任せたらいいでしょうか」と聞くと劉邦は「曹参がよい」と言いました。
「ではその次は」と聞くと「王陵がよい。ただし陳平に助けさせよ」と言いました。
「ではそのまた次は」と聞くと「その後はお前の知ったことではない」と言いました。
BC.195高祖・劉邦は長安の長楽宮で亡くなりました。享年62歳(53歳説も)。波乱万丈な中に不思議なユーモアの漂う、大王朝建国の英雄というにはあまりに人間臭い、魅力ある歴史的人物の終焉でした。
呂后は4日間高祖の死を発表せず、審食其(しんいき…?~BC.177 呂后が項羽の捕虜になった際世話をした。のちに漢の丞相となる)と相談し「諸将は高祖と似たような身分だったから、今臣下となっていることに不満があるだろう。今高祖亡く若い皇帝が立つなら、諸侯一族を滅ぼさなければ天下は揺らいでしまうだろう」と結論を出しました。
この話を漏れ聞いた者が酈商(れい しょう)将軍に話すと、酈商は審食其のところに行って「もしあなた方が考えているようなことが事実であるならば、諸将は兵を従えて都を攻めに来るだろう。漢王朝の滅亡はあっと言う間だ」と言いました。
審食其がこれを呂后に伝えると、后は高祖の薨去を発表し大赦を行い、孝恵帝が皇帝に立ちました。
高祖・劉邦には8人の息子がいました。
長男は庶子で斉の悼恵王となっている肥(ひ)。
次は父・劉邦から3度車から蹴落とされた孝恵で、呂后の子です。父・劉邦に次いで第二代皇帝・孝恵帝となりました。
次は戚(せき)夫人の子で趙の隠王・如意(じょい)。まだ子供でしたが呂后に命を奪われました。
その次は薄太后の子で代王の恒(こう)。彼は後に第五代文帝となりました。
この他に、梁王の恢(かい)、淮陽王の友(ゆう)、淮南の厲王の長(ちょう)、燕王の建(けん)がいます。