荀子【書物『荀子』の内容と性悪説など思想家としての生涯】

荀子

荀子(じゅんし)とは儒家の一人で、孟子が人間性善説を唱えたのに対して、性悪説、つまり人は生まれながらに「悪」であると唱えました。悪を改善させるのは教化や礼だという荀子の考え方は、やがて韓非子などの法家思想に発展していきました。

※上の画像は荀子の出身地、の首都・邯鄲。

荀子とは

荀子(BC.313?~BC.238)は中国戦国時代末期の儒家で、孟子の「性善説」に対して「性悪説」を唱えたことで有名です。に生まれ、後にに学んで、斉の都の臨淄で「祭酒」という高い地位に推薦されました。後に戦国四君の一人・春申君に招かれてに行き地方長官になりますが、春申君が亡くなると学問や教育に専念し、韓非子李斯などの指導にあたりました。

荀子はまた彼が著した『荀子』という書物の名前でもあり、その中で、「性悪説」や「学問の勧め」、「社会や制度の規範としての礼」などについて述べています。これらの内容はやがて韓非子など法家思想に影響を与えたといわれています。

戦国時代中期の地図
戦国時代中期の地図。荀子の生まれた趙は中央上部、祭酒になった斉は右上、李斯などを育てた楚は右下に位置しています。
年表
年表。荀子は戦国時代に活躍しました。

荀子の人生

荀子戦国七雄の一つであるの国の人です。50歳のときに同じ戦国七雄のに遊学しました。

斉の都・臨淄(りんし)は戦国の世の大都会で人口60~70万人、道路は馬車や歩行者でごった返し、ドッグレースやすごろく、蹴鞠など娯楽にも事欠かなかったといわれています。

この都市の一角には諸国から招いた優秀な学者が住む町もありました。彼らは政府の次官級の待遇を受け、それぞれの思想や学問の研究をしていたといいます。彼ら学者や思想家は「稷下(しょくか)の学士」と呼ばれていました。この町の入り口の楼門が「稷門」という名前だったからです。

戦国時代という食うか食われるかの世で、斉は生き残りをかけて富国強兵に努め天下の人材を集めていたのです。

荀子はこの「稷下」において祭酒(さいしゅ…大学の学長的な存在)に推薦されました。最年長だったからです。学長的な存在を「祭酒」と呼ぶのは、会議や宴会の時まず神に酒を捧げる儀式があり、最年長者がそれを行う習わしだったからです。このような学問の世界のトップや文科省トップ(大臣や次官)的存在を「祭酒」と呼ぶ習わしはのちの清朝まで受け継がれました。

荀子は祭酒を三度務めましたが、その後人からの誹謗中傷を受けたため、春申君(しゅんしんくん…楚の孝烈王の宰相。戦国四君の一人)に招かれて楚に行き、地方長官となりました。

春申君が亡くなった後は学問や教職に専念しました。その時の弟子に韓非子の宰相・李斯がいます。

荀子の著書とその思想

荀子の著書としては『荀子』(『孫卿氏』ともいう)があります。全32編で、編名はそれぞれ以下のようになっています。

勧学・修身・不苟・栄辱・非相・非十二子・仲尼・儒效・王制・富国・王覇・君道・臣道・致士・議兵・彊国・天論・正論・礼論・楽論・解蔽・正名・性悪・君子・成相・賦・大略・宥坐・子道・法行・哀公・堯問

この中からいくつかを選んでその思想について簡単に説明しましょう。

性悪

荀子は「人の性は悪なり。その善なる者は偽なり」と言っています。

「偽」はいつわりという意味ではなく、人為的という意味で、要するに後天的なもの、努力によって作ったものという意味です。

性善説を唱えたのは孟子ですが、孟子は人間はもともと善なるもので、不善をなすのは環境や習慣による、だからそれらをなくせば人は善人になれるのだ、と説きました。

それに対して荀子は、人間が生まれ持った性は「悪」であり、これが、好悪・喜怒・哀楽など情を生じる。人間はその情をコントロールする知を働かせる理性や能力もまた持っている。この理性や能力とは先生による教化と「礼」であると説いています。

勧学

『荀子』の最初に「勧学」編があります。学問の勧めです。

人間の生まれながらの(悪)性をコントロールする人為的方法の一つが学ぶということだというのです。

この中に日本でも使われる有名な言葉が入っています。

「出藍の誉れ」(しゅつらんのほまれ…弟子の方が師よりも優れている)です。

青い色は藍という植物から取りますが、そこから「青は藍より出でて藍より青し」(青い色は藍草から取るのに藍の色よりも青い)や「出藍の誉れ」という成語になりました。

礼論・議兵

荀子は「礼」は、人の欲望を満たすとともに欲望を抑えると説いています。

また「礼」は社会や制度の規範となり、やがては法という力になっていく。

法になればそこからはずれたものには刑罰が下されるとしています。

この説は荀子の弟子・韓非子の「信賞必罰」論に近く、韓非子の法家思想には、儒家である荀子のこうした考え方の影響があるともいわれています。

天論

自然現象には法則性があり、時の君主が聖人か暴君かなどには左右されない。自然現象と人間社会の吉凶とは無関係である、と説いています。

したがって人は人として最善を尽くし努力して生きていけばよい。

当時は陰陽という概念から人や人間社会の吉凶を判断するのが当たり前だったので、荀子のこの考え方は画期的なものでした。