藺相如【多くの故事成語の由来となった知勇兼備の武将】

藺相如

藺相如は古代中国・戦国時代の人で、趙の役人の食客という身分でした。趙王が明玉を手に入れたのをきっかけに国家的危機を招くと、あるじの進言がもとで大活躍します。

完璧」「怒髪天を衝く」「刎頸の交わり」など今も使われている成語は、彼の活躍が元になっています。

藺相如とは

藺相如(りん しょうじょ)とは中国の戦国時代(BC.475~BC.221)の趙の家臣です。元は趙の国の役人の食客でした。

戦国時代中期の地図
戦国時代中期の地図。趙は地図上部にあります。

藺相如の活躍は司馬遷の『史記』などに残されており、中でも「璧」と呼ばれる古代中国において権力者たちに重宝された宝物(翡翠でできているドーナツ状の円盤)をめぐって、秦の昭襄王に対して堂々とした立ち回りをした逸話が有名です。

藺相如は「完璧(かんぺき)」、「刎頸(ふんけい)の交わり」といった成語の故事にも登場します。

B.C.1100年ごろの璧
B.C.1100年頃の璧。
19世紀ごろに作られた璧
19世紀頃に作られた璧。
年表
藺相如は戦国時代に活躍しました。

藺相如の逸話…「完璧」「怒髪天を衝く」のいわれ

秦の昭襄王相手に立ち回る藺相如
秦の昭襄王相手に立ち回る藺相如。

「完璧」は現代日本語でもよく使われる熟語です。元は故事成語だったとも知らずに使っていますが、この成語の主人公が紀元前の趙の国に生きた藺相如です。

趙の恵文王の時、王はの「和氏の璧」(かしのへき)という玉を手に入れました。

すると秦の昭襄王がこの噂を聞き、趙王に手紙を送って「名玉を15の城と交換してもらえまいか」と頼んできました。「城」と聞くと天守閣のお城を思い浮かべますが、中国で「城」とは城壁に囲まれた町や都市のことです。(→参考「邑・城郭都市」)都市が15もあれば規模は小さいですが国家ともいえるほどです。

王はこの申し出を廉頗(れんぱ)将軍や大臣らに相談しますが、秦王に玉を送っても城をくれることはあるまい、といって断ればこれを口実に攻め込まれるかもしれぬ…と結論が出ませんでした。

そこで家臣の繆賢が「うちの食客の藺相如を使者として送ってみてはどうでしょうか。奴はなかなかの人物でありまして」と申し出ます。そして繆賢は次のようなエピソードを話しました。

以前自分が罪を犯し王の怒りを怖れての国に逃亡しようとした時、藺相如が「なぜ燕に?」と聞くのです。

そこでかつて趙王のお供で燕王に会った時、燕王が私の手を握ってあなたと友人になりたいと言ってくれた、だからだと答えました。

それを聞いた藺相如は「燕王がそう言ったのは趙が大国で燕が小国であり、あなたがその大国の王の寵臣だからです。もしあなたが趙から燕に逃げ出したなら、燕王はあなたを捕縛して趙に送り返すことでしょう。ここは死を覚悟して趙王に赦しを請うべきです」と言うのです。

私は彼の言葉に従いました。すると幸いなことに大王様は私を赦してくださいました。このことで私は藺相如の勇気と智謀を知りました。彼ならば秦王を向こうに回しても立派に使者の役目を果たせるでしょう。

趙王は藺相如に玉を渡し秦への使者として送り出しました。藺相如は王に「もし秦が15の城を寄こすなら「和氏の璧」をそのまま秦に置いてきます。もし城を寄こさないようなら、「璧」は秦王の手に渡さず、そのまま趙に持って帰ります」と言って秦に出かけました。

藺相如は秦に行って秦王に会い、璧を秦王に捧げ渡しました。秦王は喜んでそれを女官たちに見せますが、璧の代わりに城をよこすという約束については何も言おうとしませんでした。

藺相如は秦王に約束を果たす気のないのを見てとると、「実は璧には傷がありまして」と言っていったん璧を自分の手に取り戻しました。

璧を手にした藺相如は背中を壁につけ、怒髪天を突くような凄まじい形相で秦王を怒鳴りつけました。ちなみに「怒髪天を突く」(どはつ てんを つく…憤怒のために髪の毛が逆立つ様子)という成語もここから生まれました。

「大国なら大国の礼儀がありましょう。大切な璧を女官ごときともてあそび、城をよこす約束なぞ果たす気もないと見てとりましたぞ。この璧を奪い取ろうとするなら、私の頭もろともこの璧を壁にぶつけ打ち砕いてくれましょう!」

秦王は藺相如のすさまじい剣幕に驚き、詫びて璧を砕かないよう頼みました。

が、秦王には依然として城をよこす様子はなかったので藺相如は「璧が欲しいのであれば5日の斎戒(さいかい…心身を清める)期間を設けていただきたい。それが済んだら差し上げましょう」と言いました。

秦王はこの要求を飲みました。藺相如はこの斎戒の期間を利用して、部下に璧をこっそり趙に持ち帰らせました。

5日間の斎戒沐浴が過ぎると、藺相如は秦王に「これまで秦国においては他国との約束を守った君主はおられません。そこで今回も秦王は約束を守るまいと見て、璧はすでに趙に持ち帰らせました。これが死罪に当たることは重々承知の上です。どうぞお好きなように罰してください」

秦の朝廷は騒然となりましたが、秦王は「こやつを死罪にしても璧は戻ってはこない。むしろ礼を尽くして趙に帰した方があとあと得だ」と言い、藺相如は死罪にならなかっただけでなく、客人として厚遇を受けて帰国しました。

さてこの物語が元になって、中国語では「完璧帰趙」(璧をまっとうして趙に帰る…借りたものをそっくりそのまま返す)という成語になり、日本語では「完璧」(かんぺき…一つも欠点がないこと)という熟語になって今に伝わっています。

元の物語は同じですが、残った言葉の意味は日中でそれぞれ異なります。

藺相如と廉頗…「刎頸の交わり」のいわれ

「刎頸の交わり」(ふんけいのまじわり)とは互いに首を斬られても悔いのない交流・友情のことですが、この成語も藺相如が関わる物語から生まれました。

上記のように、藺相如は当時の超大国・秦に単身乗り込んで、国宝である「和氏の璧」を無事趙に戻し、しかも死罪にも遭わず趙の国に戻れたのですが、彼はこのことで一躍高い地位に就きました。

趙には廉頗(れんぱ)という名将がいました。廉頗将軍は、敵と戦ったわけでもなく口先三寸で自分より高い地位についた藺相如の存在が面白くありません。

そこで事あるごとに「あやつを辱めてくれる」と公言していました。

藺相如はこれを聞くと極力廉頗とは顔を合わせないようにし、朝廷に出向く用事にも病気と称して欠席しました。

道の途中ではるか先に廉頗の一行を見かけるとたちまち車を引き返らせる様に、藺相如の食客たちは口々に「私たちがこうして仕えているのはあなた様を尊敬しているからです。廉頗将軍とあなた様は同列なのにこのようにびくびくしているのはあまりに恥ずかしい」と非難しました。

すると藺相如は「廉頗将軍と秦王とどちらの方が恐ろしいか」と聞きます。

彼らは「それは秦王に決まっています」と答えました。

藺相如は「その恐ろしい秦王に向かって私はこれを面罵しその家臣を辱めた。廉頗将軍が怖くて今のような行動をとっているのではない。この趙を秦が攻めてこないのはひとえに廉頗将軍とこの私がいるからだ。二人が争い共倒れになれば、ここぞとばかり秦が趙に襲いかかるだろう。私には私情より国の存亡の方が重要なのだ」と彼らに説きました。

廉頗将軍は藺相如のこの話を聞くと己を深く恥じ、藺相如の屋敷まで出向いて謝罪しました。その後二人は、互いの首を刎ねられても後悔しないという「刎頸の交わり」を結びました。

そして藺相如の言ったとおり、趙の国にこの二人がいる限り秦が手出ししてくることはありませんでした。

司馬遷の評価

泰山
泰山。古来より聖地として崇められてきました。

司馬遷はその史書『史記』廉頗藺相如列伝の中で、藺相如は勇気を奮い起こすべき場では、たった一人敵陣に乗り込んで敵の大将・秦王を怒鳴りつける胆力を持ち、逆に退く必要がある場面では身を屈して廉頗に譲った。その名は泰山よりも重く、まさに智勇を兼ね備えた人物であると評価しています。

藺相如の晩年と趙の運命

藺相如と廉頗は国家の両輪となって秦の侵攻を防ぎましたが、二人が晩年になり王も代替わりすると秦の攻撃にさらされるようになります。

藺相如はすでに病に倒れ、廉頗が老将軍として戦いの先頭に立って籠城作戦をとります。

戦いの膠着にあせった秦がスパイを使い「秦にとって老いた廉頗は怖くはないが、若い趙括は怖い」という流言を流しました。老練な廉頗では勝てそうになかったからです。

ところが趙王はこの噂を信じて廉頗を退け、優秀だという前評判の若い趙括を将軍に据えようとします。趙括は机上の論では優秀でも実戦の経験はありませんでした。

そこで藺相如は病をおして趙王に会いにいき、廉頗を退けて趙括を将軍にするのは危険だと意見をします。

がこの意見は王に聞き入れてはもらえませんでした。

趙括が将軍になると案の定大敗を喫して、趙は45万という膨大な数の兵を生き埋めなどで失ってしまいます。そしてこれをきっかけに趙は衰退、やがて滅亡しました。