書経(尚書)【儒教の経典『書経』の成立過程と内容の解説】

書経

書経』は『尚書』、或いは『書』とも呼ばれ、伝説の聖王、から始まる古代の帝王の詔勅や言行の記録です。

非常に難解ですが、その難解さがこの書の権威付けになっているといわれます。

始皇帝による「焚書坑儒」をきっかけに『書経』は民間で壁の中に隠され、それが後に発見されたことにより、「今文尚書」派と「古文尚書」派の対立が生まれました。

書経とは

書経』とは、儒教の経典である「五経」の1つです。全58篇。

『書経』は戦国時代以前は『書』、前漢以降は『尚書』、宋代以降は『書経』と呼ばれました。

周代の王の詔勅や言行などを記した書物です。

『書経』の成立

書経』については、各王朝の歴史官による記録が後世に伝わり、そのうち100篇を孔子が編集したのではないかといわれています。

『書経』はもともと『書』とだけ呼ばれ、その1文字だけで「正統な記録」であるということを示していました。

ちなみに『日本書紀』も元々は『日本書』だったのではないかといわれています。

漢代になると孔子が編集した尚(たっと)ぶべき書ということから『尚書』と呼ばれるようになりました。

また儒教の経書の1つなので『書経』とも呼ばれています。

『書』『尚書』『書経』いずれも深い敬意を受けたネーミングです。

今文尚書と古文尚書

尚書』(書経)には、今文尚書というものと古文尚書というものがあります。

秦の始皇帝が命じた「焚書坑儒」が元になって発生したものですが、これは以下のような経緯をたどりました。

焚書坑儒とは、法家、自然科学、占いなど以外の本を集めて焼き、儒家の学者を穴に生き埋めにしたといわれる事件です。

この事件が起きたとき、家の壁の中に本を塗りこめて隠した人が何人もいました。済南の伏生という秦代の博士だった人物もその1人です。

秦が滅び、前漢文帝の時代に、伏生は壁の中に隠しておいた『尚書』29篇を取り出し、これを弟子たちに教えました。その際その当時使われていた隷書体で書写したので、これを「今文尚書」と呼びます。

文帝の次の景帝の時代にも孔子の旧宅の壁から『尚書』58篇が現れました。こちらはだいぶ古い戦国時代の文字で書かれていたので「古文尚書」と呼ばれます。

今文尚書と古文尚書は文字こそ違え同じものだろうと思うと、これが内容も量も異なっていたのです。こうしたことから今文尚書派と古文尚書派の間には対立や競争が生まれました。

景帝の後の成帝の頃には「古文尚書」の偽書が現れました。

唐代の孔穎達(くえいたつ…初唐の学者)は、この偽書…偽古文尚書…に基づいて『尚書正義二十巻を書き、現在の『書経』(尚書)も大部分はこの『尚書正義』に基づいています。

『書経』の内容

書経』の内容は、聖なる帝…堯や舜、そして夏、殷、周王朝の代々の帝王の詔勅…すなわち号令や言葉、行動などが時代順に編成されています。

まずは紀元前11世紀ごろの周の成王や周公の言葉の記録が、神聖なるものとして周の王室に伝わったものが『書経』の原型です。

そこに夏や殷など、周の前の王朝の記録とされるものが書かれ、さらに新しい時代の有力者の言葉や行動の記録も加わって『書』と呼ばれるものになりました。

その後孔子が100篇の『書』を編集したといわれますが、確かではありません。

ただ孔子がこの『書』(書経・尚書)を『詩経』とともに、いにしえの聖人たちの政治の記録として重要視していたことは確かです。

『書経』の文章はきわめて難解で、その難解さ、いかめしさによって王者の号令たる『書』の神聖さや権威を表しているといわれます。

『書経』は経典になって後代も長く読まれましたが、その文章は後代の言葉に翻訳されて人々の理解に資するものにはなりませんでした。難解さにこそ意味があったのです。