秦の始皇帝~大版図を築いた皇帝の生涯~【歴史地図付き】

始皇帝

始皇帝とは、中国全土を初めて統一した秦王朝の創始者です。もともと古い歴史を持つ西方の秦王国の王でした。複雑な生い立ちを持ち13歳で即位するのですが、政治の実権を握っていた親代わりの呂不韋を追い払い、やがて戦国七雄のライバルをすべて滅ぼし秦王朝を打ち建てました。

始皇帝とは

始皇帝

始皇帝(しこうてい…BC.259~BC.210)は、本名を嬴政(えいせい)または趙政、中国戦国時代末期にの35代荘襄王の子として趙の都・邯鄲で生まれました。13歳で秦国の王に即位し、BC.221に中国史上初めて全土を統一し、秦王朝初代皇帝である始皇帝となりました。

年表
年表。始皇帝はB.C.221年に中華を統一し皇帝となります。

春秋戦国時代・秦代の地図

春秋時代の地図
春秋時代の地図。諸侯が乱立し群雄割拠の時代を迎えます。
戦国時代初期の地図
戦国時代初期の地図。
戦国時代中期の地図
戦国時代中期の地図。
戦国時代末期の地図
戦国時代末期の地図。
秦朝の地図
秦朝の地図。秦が統一したことにより戦国時代は終わりを迎えました。

秦とは

秦は古くから中国大陸の西に位置する国家で、黄河中下流域の国家・いわゆる中原の国からは蛮族視されていました。

第9代穆公(ぼくこう)の時代に有能な家臣を得て、その進言により中原の権力争いに加わるようになりました。穆公は西戎(せいじゅう…西の蛮族)の覇者をめざし、大陸の西に広がる広大な土地を手に入れました。穆公は「春秋の五覇」(春秋時代に周王朝に代わって天下を取りしきった5人の覇者のこと)の一人です。

その後25代孝公の時に商鞅という家臣によって大改革を行い、富国強兵を実現して大きく発展しました。秦はのちに宿敵のを倒して秦・の二強時代に、さらには白起将軍の活躍もあって始皇帝が生まれる頃には秦の一強時代となっていました。

始皇帝の複雑な生い立ち

始皇帝像
始皇帝像。

戦国七雄と言われた時から200年後、秦は春秋戦国の超大国となっていました。始皇帝・政はこうした秦一強時代に秦王の子供として生まれましたが、その人生は順調なものではありませんでした。

政の父・子楚は孝文王の子でしたが、その母が王の寵愛を失っていたこともあり趙の国に人質として送られていました。子楚は人質としての価値も低く、母国からの援助も乏しくていつもみすぼらしい恰好をしていたといいます。

呂不韋
呂不韋。

その時呂不韋(りょふい)という一人の商人が子楚に目をつけるのです。…この公子を買っておけば後で高値で売れるかもしれない…商売人の直感です。「奇貨居くべし」(掘り出しものは買っておくべきだ)という成語はここから生まれました。

呂不韋は子楚に大金を投じて名士たちと交流させ、自分は高価な贈り物を用意して孝文王の寵姫・華陽夫人に近づき、子楚を養子にしてもらう工作をするのです。この工作はみごと成功しました。

その祝いの席で呂不韋は愛人・趙姫(ちょうき…本名ではなく「の姫」という意味)を伴います。趙姫は踊り子だったとも、趙の豪家の娘で美しい舞の名手だったともいわれています。

子楚は彼女が気に入り、呂不韋は趙姫が自分の愛人であることを伏せて彼女を子楚に嫁がせます。やがて彼女は子を産み、この赤子が後の始皇帝・政です。こうした経緯から、始皇帝は実は秦王の子ではなく呂不韋の子だったと前漢の歴史家・司馬遷は『史記』始皇帝本紀の中で書いています。その後も始皇帝の父をめぐっては古来議論が絶えません。

政は正とも書かれるのですが、近年発見されたこの時代の竹簡文書に「秦王趙正が巡行中重篤になった」と書かれており、本来の名は政ではなく正だったとニュースになりました。現在までのところ、始皇帝の名は政なのか正なのか、まだ確定はしていません。

秦対趙・魏・合従軍による「邯鄲の戦い」が起きると、呂不韋は子楚を邯鄲から脱出させ、趙姫と政の母子は趙姫の実家ともいわれている趙の有力者の家にかくまってもらいました。この後母子はしばらく趙の厳しい監視の中に置かれて暮らすことになります。

このころから送られてきた同じ人質・丹(後の燕の太子・丹)と幼ななじみになるのですが、後年丹が政の扱いに恨みを募らせ刺客を政に放ったことで、政と丹は不倶戴天の敵となりました。

趙はこの数年前に秦と戦っており(長平の戦い)、秦の白起将軍が趙の捕虜40万人を生き埋めにするという残虐行為を行い、趙の人々にはその記憶が鮮明に残っていました。趙姫と政の暮らしが穏やかなものであったとは思えません。

BC.251に政の曽祖父・昭襄王が亡くなり、その後を継いだ祖父・孝文王が即位しますが、その3日後に急死、父・子楚が荘襄王として即位し、政は皇太子となりました。

高値で子楚を買った呂不韋は、一介の商人から当時の超大国・秦の丞相(じょうしょう…総理大臣)に上りつめます。商売人の勘は当たり、子楚はまさに「買い」の掘り出し物でした。

こうして当時9歳の政は母・趙姫とともに秦に戻りました。

少年王の時代

父・荘襄王の時代、秦は、いまだかろうじて命脈を保っていた東周をBC.249に滅ぼしました。その荘襄王も3年半という短い治世でこの世を去ります。

こうして政が秦王に立つのですが、当時政はまだ13歳、実質的な権力は政から「仲父」(ちゅうほ…叔父様)と呼ばれた呂不韋が握りました。孝文王・荘襄王を経て政の治世まで3代、これがたった3年半です。ここに呂不韋の謀略のにおいを嗅ぐ人も多いのですが当然でしょう。

少年王・政が自ら政治を執るまでにはまだ10年の月日が必要でした。その間政治の実権は呂不韋に握られていましたが、王宮はドラマ顔負けのドロドロとしたスキャンダルに満ちていました。『史記』に描かれたこの部分を読むとあまりの下品さに唖然とするとともに、司馬遷が事実と信じるところを淡々と描く姿に新鮮な驚きを感じます。

政の母・趙姫(ちょうき)はかつて呂不韋の愛人でしたが、夫・荘襄王が亡くなった後二人はよりを戻します。この関係がバレることを恐れた呂不韋は嫪毐(ろうあい)という男を趙姫に紹介します。後宮に男性を入れることはご法度ですから、眉と髭を抜き宦官ということにした上です。嫪毐は趙姫に気に入られ、二人は子供までもうけるのです。政の異父兄弟です。

このことが青年となった政の知るところとなり、嫪毐はその一族ともども車裂きの刑を受け、趙姫・嫪毐の子供二人も犠牲となりました。母趙姫は幽閉、呂不韋は蟄居を命じられますが、その後も呂不韋の元を訪れる客人が絶えなかったため、政は呂不韋に蜀への流刑を命じます。いずれ死に追い込まれると悟った呂不韋は自ら毒をあおぎました。政は呂不韋の葬儀で涙を流した者も記録させ、後に処分しました。

大人たちは政という若者を甘く見ていたのでしょう。二十歳そこそこで佞臣は一族もろとも最も残虐な刑に、血のつながる兄弟や実母、父代わりの人間も容赦なく処分し、秦王・政は果断の王として秦国のトップに立ちました。王宮中が震え上がり、人民はかたずを飲んで新しい秦王の次の一手を見守ったに違いありません。

親政始まる

始皇帝
始皇帝。

後の始皇帝・政とはどういう人間だったのか。『史記』始皇帝本紀には、ある人物による始皇帝評が書かれています。

「鋭く高い鼻、切れ長の目、突き出た胸、山犬のような声。このような姿は彼が情愛に欠け、虎や狼のような心の持ち主であることを示している。苦しい時は人にへりくだり、得意の時は人を食うようなことをする。もし天下を取ったら人はみなその奴隷になるだろう。長くつきあえる人間ではない」。

始皇帝の顔立ちは美貌の母を受け継いでいるのではないでしょうか。

突き出た胸は姿勢の良さやプライドの高さ、己への自信を表しているようです。

山犬のような声とはどんな声なのか?聞く人をぞっとさせる声だったのかもしれません。

母・趙姫の王宮での振る舞いからは品位も教養も感じられず自堕落な印象がありますから、不遇の子供時代この母から豊かな愛を受けたとは思えません。周りの大人たちの権謀術数に囲まれて育った政に人への情愛など育つはずもなかったことでしょう。

家臣たち

父代わりの呂不韋を死に追いやって、若き秦王・政は親政を始めます。彼のブレーンとして最も重要な人物は李斯(りし)です。

李斯は楚の出身で、性悪説を唱えた荀子の弟子でした。秦という大国で自分の力を生かそうと楚からやってきたのですが、秦はこうした有能な外国人に寛容な国でした。

李斯は最初呂不韋の食客になり、その推薦で秦王政府に抜擢されると、その後みるみる能力を発揮するようになりました。

韓非子に傾倒

秦王・政は法家韓非に傾倒します。

韓非(かんぴ…BC.280?~BC.233)は法家思想を集大成した人で、君主の絶対化を主張しました。

君主は宇宙の根本である「道」(タオ)の体現者であり、君主の行為は「道」そのものの表れ。君主によって行われる法は絶対的であり、君主は宇宙の主催者である…という考え方です。

韓非子はの人で、韓王に何度も意見書を差し出すのですがまったく相手にしてもらえません。そこで自分の思想を本にまとめるのですが、これが『韓非子』です。

ある人がこの本の一部を政に献上し、彼はこれにいたく心を揺さぶられます。

王たる者どう政治を執るべきか、周囲にお手本となる人物はなく考えあぐねていたであろう政は、韓非子の本を読んで「この著者に会えるなら死んでも本望だ」とまで言ったといいます。

李斯は韓非と同じ荀子の門下で学んでいました。そこで韓に韓非を使者として秦に送るようにと圧力をかけ、こうして政は韓非に会うことができました。

政が彼を家臣にしようと考えていることを知った李斯は、自分の立場が危うくなることを怖れ、政に「韓非は韓の公子であり、秦の家臣になっても韓を第一に考えるでしょう」と進言して韓非を投獄し獄中で毒を飲ませて死に追いやりました。

こうして韓非はその思想の信奉者・政の国で命を失ってしまいましたが、その政治思想…「法の重視と徹底」はその後の秦でおおいに実践されたのでした。

六国平定

戦国の七雄のうち最初に秦に滅ぼされたのは韓です。

韓は上述したように韓非を秦に送ってこれを失い、また秦の国力を疲弊させようと鄭国という名前の技術者を送って秦で灌漑事業を起こさせるのですが、後にスパイであることが発覚。捕まった鄭国は「この工事は必ず秦の役に立ちます」と言って秦王の心を動かし、許されて韓に戻ります。

この工事は続行され、後の秦の統一事業の原動力になりました。このように秦の役に立つことをしたのが韓なのですがまっさきに滅ぼされてしまうのです。BC.230のことでした。

次は趙です。ここには武安君・李牧(りぼく)将軍がいて秦の攻撃を撃退していたのですが、李牧は讒言によって命を奪われ、その後趙は秦に対抗できずBC.228に滅亡しました。

魏はBC.247に信陵君が五か国による合従軍を率いて秦を撃破するのですが、その後信陵君が批判を受けて引退すると秦の攻撃に抵抗できなくなり、BC.225滅亡しました。

BC.223には楚を滅ぼし、燕が秦と国境を接することになって圧力を受けていました。

その頃燕の太子・丹が、人質として送られていた時の秦の仕打ちを恨んで復讐しようと、刺客・荊軻を秦に送りこみました。

荊軻は咸陽の宮殿に乗り込み、秦王・政を匕首で切りつけますが失敗。あせって刀が抜けない秦王を宮殿の中で追い回しますが、最後は逆に斬られてしまい秦王暗殺は失敗しました。

これに怒り狂った秦王は燕に大軍を送り込み、燕はBC.222に滅亡しました。

残ったのはですが、斉は他の国々が秦に滅ぼされていたのをただ傍観していました。

これは斉の宰相が秦に買収されていたからだとも、またその食客の工作によるものだともいわれています。

秦の攻撃を受けても斉は戦わずBC.221宰相の言うまま降伏しました。

こうして秦による六国平定は終わり、中国は秦によって統一され秦王朝が生まれました。

中国統一

中国が秦によって統一されたのは秦王・政が39歳の時です。13歳で即位してから26年が経っていました。

秦王は最初に自分の称号を決めました。

の天子は「王」と呼びましたが、春秋戦国になると各地の諸侯も自分を王と呼ぶようになりました。

そこで秦王・政は「皇帝」という称号を新たに作りました。これは「三皇五帝」から取ったといわれています。また死者に対する諡(おくりな)の制度もやめ、自分のことを「始皇帝」、2代目以降は「二世皇帝」「三世皇帝」と呼ばせることにしました。

これはたとえば日本でも「昭和天皇」は諡であって亡くなった後で使う称号です。生前の天皇に対しては「今上(きんじょう)天皇」と呼びます。

秦の始皇帝は死後使うはずの称号「始皇帝」を生きている時から使うようにしたのです。

また皇帝の自称を「朕」(ちん)にしたのも始皇帝が決めたことです。この時代「朕」は一般的な自称でしたが、これ以後皇帝以外の人間が朕を自称することは禁じられました。

秦王朝の政治のしくみ

秦王朝は君主・始皇帝にすべての権力を集中させる「中央集権制」を採用しました。

そのために中国全土に郡県制度を敷きました。

郡県制度

中国全土を36の郡に分け、その下に県を置き、各郡には「守」(行政長官)・「尉」(軍事長官)・「監」(官僚の監察役)を、各県には「令」を中央から派遣しました。こうして「守」への権力集中を防ぎ、一切の権力は皇帝に集まるようにしたのです。

こうした仕組みは基本的に清王朝まで続きました。つまり中国では以後二千年の長きにわたって、日本の江戸時代のような封建制度(各地を大名が治める)はなく、皇帝による中央集権政治が続いたのです。

貨幣・文字などの統一

こうした統一的な政治が行いやすいように、度量衡・貨幣・文字を統一し、車の間隔も一定にしました。わだち(車輪が道に残す跡)が同じだと車が走りやすいからです。

文字は「小篆」という文字にしました。

広大な中国で話し言葉は、山や川を隔てただけで通じないということがありましたが、文字が同じなら筆談が可能です。

日本の25倍の面積を持つ中国で統一が可能だったのは同じ文字が使えたからで、これは始皇帝が中国に遺した大きな遺産です。

これがなければ中国はヨーロッパのように、いくつもの国家に分かれていたことでしょう。

法による統治

始皇帝とその腹心・李斯は法による政治を徹底しました。

当時は政治とは君主の徳によって行うべきだという儒教の考え方が主流でしたが、始皇帝はあえてその道は行かず、李斯や韓非子の説く法家の方針を採りました。

その具体的な法ははっきりはしませんが、今判明している秦の法の一つは、報告は口頭ではなく文書によること、取り調べは拷問によらず文書を元にすること…など今読んでも斬新です。

ただし罪を犯した時の罰はきわめて厳しく、人々は委縮してしまい、このことは秦朝の短命の原因の一つになりました。

焚書坑儒

郡県制を行うなかで封建制、つまり各地方は諸侯によって統治させるという制度を採り入れようとする動きが起こり、これに激怒した李斯が思想統制を進言します。

こうして行われたのが「焚書」です。

法家の思想と実用書以外は焼き捨てられ、それまでの貴重な文書が失われました。

また政治批判をした儒者を460人あまり生き埋めにし、これは「坑儒」と呼ばれ、「焚書坑儒」は始皇帝の虐政のシンボルになりました。

大規模建築群

始皇帝は巨大な建築群をいくつも作っています。

万里の長城
万里の長城。
兵馬俑
兵馬俑。

たとえば、異民族の侵入を防ぐため各国がそれぞれ築いていた長城をつなぎあわせて、5000kmにおよぶ万里の長城を作りました。中国の1里は500mですから文字通り万里の長城でした。

始皇帝の生前は完成しなかった阿房宮の宮殿群は、中心となる宮殿の東西が五百歩(約675m)、南北は五十丈(約113m)もありました。

始皇帝即位後すぐ建設が始まった死後の住処である始皇陵は、きわめて豪華な地下宮殿ともいうべき陵で、ここには等身大の官僚や兵士、馬の土偶が置かれ、これら7000体を超えるリアルな表情を持つ兵馬俑は1974年に発掘されて世界を驚かせました。 

巡幸と徐福伝説

蓬莱山
蓬莱山。

中国を統一し、全人民を支配した始皇帝はやがて不老不死の仙薬に執着するようになりました。度重なる領土への巡幸もそれが目的の一つだったとも言われています。

BC.219 徐福という斉の方士に勧められ、徐福を隊長にして、仙人が住むという蓬莱山など東海の三神山を探しに行かせますが失敗に終わります。

この時東の海に向かった徐福は、数千の若い男女を率いて日本に上陸したという言い伝えが今も残っています。

始皇帝死後の秦朝とその滅亡

始皇帝陵
始皇帝陵。
始皇帝陵
始皇帝陵。

不老不死を求め続けた始皇帝は50歳という若さで巡幸の途中に亡くなります。不老不死を求めるあまり怪しげな薬を飲みすぎたからという説もあります。

始皇帝がなくなると、宦官の趙高が李斯と共謀してまずはその死を伏せ、二世皇帝に決まっていた始皇帝の長男をニセの勅書で自殺に追い込みました。

末子の胡亥(こがい)を傀儡皇帝に擁立して、二人が政治の実権を握ります。

やがて趙高が李斯を処刑、胡亥も死に追いやり、権力をわがものにしますが、後に彼もまた始皇帝一族の一人に滅ぼされました。

秦の朝廷が動揺し始めるとともに社会不安も激しくなり、各地で反乱がおき、彼ら反乱軍が中国全土に割拠し、やがてそこから項羽劉邦という次代の英雄が現れました。二人とも秦に滅ぼされた楚の人間でした。

秦朝はこの項羽と劉邦によって滅ぼされました。王朝が成立してわずか15年、壮大な国造りとは裏腹にあまりにもあっけない最期でした。