印刷の発明と歴史【木版・活版印刷の古代中国での発明から】

印刷の発明と歴史

中国四大発明の一つ、印刷について紹介します。中国における木版印刷(彫版印刷とも)は6世紀から9世紀ごろ現れ、ドイツ人ヨハネス・グーテンベルクが15世紀に発明したといわれる活版印刷も中国では11世紀に始まっていました。その後中国で活版印刷は廃れてしまったのですが、グーテンベルクの発明に中国の印刷術は影響を与えたのか、それとも彼独自の技術だったのか…。おそらくはなんらかの形で中国からの影響を受けていた、と多くの学者は考えています。

木版印刷と活版印刷

デジタル化以前の印刷には木版印刷(彫版印刷)と活版印刷があります。どちらの技術も、反転させた文字などに墨やそのほかの色料をつけ、紙などに複写します。

木版印刷とは木の板に絵や文字を彫って版を作る印刷のこと。版画のようなものです。

一方、活版印刷とは金属などに文字が凸状になるように彫りハンコ状にしたものを1本1本並べて文章にした板(活版または組版という)を作り、そこに色料をつけ複写することです。

印刷が発明される前の時代…手書き・印章・青銅鋳品・石刻

「印刷」は中国では6世紀ごろから始まりますが、その前に長いプレ印刷とも言うべき時代がありました。

文章の複製品を作る場合、中国人がまず行ったのは「書写」、つま「手書きの写し書き」です。敦煌からはたくさんの仏教写本が見つかっていますが、これらは書写を専門にするプロの書き手が仏典をきれいな書体で書き写し仏教徒たちに売ったものでした。印刷機、ましてやコピー機などなかった時代、書写は職業の一つでした。

また中国では古く殷の時代から印鑑が使われていますが、反転文字を刻みそれに色料をつけて複写するという意味では、印鑑と印刷は同じ原理で作られています。印鑑の材料としては、青銅・銅・金・玉・石などさまざまで、一般には陽文(凸刻…文字を浮き彫りにさせて刻んだもの)ですが、中には陰文(凹刻…文字をへこませて刻んだもの)もあります。色料としては黒い墨が用いられていましたが、5世紀ごろから墨で書写した文章と区別するため朱色が使われるようになりました。ハンコと言えば朱肉です。中国で1500年以上前に始まった朱色で押すハンコが、21世紀の日本でも使われているのですから考えてみればスゴイことです。

青銅器に銘文を鋳刻する中国文化もまた彫版印刷の発明につながっています。青銅器の銘文は反転文字を彫刻した鋳型を使って正文を作り出すのですが、これはまさに印刷の原理です。

「拓」とは、文字などが刻まれたものの表面に紙を置き、それを叩いて写し、刻まれた部分を陥入させ、墨を使って文字を取る方法のこと。石刻の銘文を拓写する時は、石の上に紙を置き、その後墨を使って紙の上を叩き、黒の地に白い文字を浮き立たせます。これもまた印刷と同じ原理を使っています。

中国の彫版印刷はこうした文化の蓄積の延長上に生まれました。印鑑・青銅器銘文・拓本文化…中国でいち早く印刷術が生まれたのも当然と言えば当然かもしれません。

木版印刷の誕生・発展とその時代

木版印刷-1
木版印刷。

中国で木版印刷(彫版印刷)が誕生したのはいつか。はっきりした年代はわかっていませんが、6世紀中期から9世紀末までの間であろうと言われています。

8世紀以前、つまり6世紀・7世紀の印刷物の現物は発見されていませんが、それを伺わせる言葉がいくつかの史料の中にあります。現物としては8世紀のものが日本など中国以外で発見されています。中国の書巻の完全な形のものとしては、868年印刷の仏教経典『金剛般若波羅蜜経』が敦煌とんこうで発掘されています。唐代のものですが、この印刷物からは当時の技術レベルの高さがうかがえます。この時期に完成度の高い印刷物が見つかったということは、この時期以前に木版印刷は誕生していた、と言えるかもしれません。

その後印刷術は10世紀から13世紀の宋代に飛躍的に発展しました。この時代の木版印刷はその後の時代の印刷術の模範となり、宋代は中国の印刷術の黄金時代と言われています。出版されたものとしては、仏教・儒教・道教の経典、歴代王朝の正史、地理、哲学、詩文・小説、演劇、医学など多岐に渡ります。印刷をした場所には北宋の都・開封、南宋の杭州、四川省眉山、福建省建陽などがあります。

元代は当時文化レベルが低かったと言われるモンゴル人の王朝ですが、宋代の技術を継承し、さらに改良を加えています。政府はいくつかの専門官庁を設置し書籍の編集、印刷を行いました。この時代の民間印刷所としては北の平陽と南の建安があります。また元代に出版された書籍の代表に当時流行していた通俗小説と雑劇があります。

明代の印刷の特徴としては木版多色印刷があり、本の挿絵を彩りました。印刷物としては航海記、造船術、西欧の科学書なども刊行されています。政府官庁の中で最も多く書籍を発行したのは国子監(こくしかん…隋から清朝までの最高学府・大学)でさまざまな内容の本300種以上を出しています。明代では民間の書籍発行も盛んでした。私塾や寺院、さらには個人でも本を出版したと言いますから、社会の文化レベルの高さが伺えます。

清朝は異民族王朝ですが、その政府は文化、学術を援助し印刷業の発展も推し進めました。元といい清といい、これら異民族王朝は漢民族から文化的に見下されていたからこそ逆に頑張って文化政策を推し進めたのかもしれません。今も存在する中国の有名な出版社・商務印書館は清朝末期の1897年に創立されています。当時中国最大の出版社として数多くの辞書、古典、翻訳ものなどを出版し、中国文化の発展に寄与しました。定評ある辞書として有名な『現代漢語詞典』もここの出版物です。

このように見てくると、中国文化の深化、発展は印刷術があったからこそと言っても過言ではないことがわかります。

木版印刷技術の工程

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木版印刷。

木版印刷に使った木は、ナシ・ナツメなど木目が細かく彫りやすい木が選ばれました。これらの木を切って板にした後、水中に一か月ほど浸し、陰干しにして、板が反ったり曲がったりするのを防ぎます。その後両面を滑らかに削りよく磨き、幅約30センチ、縦約20センチ、厚さ2センチの板にして、片面に2ページ、両面計4ページを彫ります。この板は数百年保存できたと言われます。

さてこれを彫るにはまず書写する人が原稿を白紙に書き写し、これを校正した後、紙を裏返しにして板の表面に貼ります。その後刷毛を使って、紙の文字が板の表面に現れるようにし、刻字職人が板の表面の文字をそのまま刻んでいきます。

木版が完成すると、紙・墨・刷毛を用意して印刷します。墨は煤煙ばいえんと牛革のにかわ、酒と水を混ぜて作ったものを用います。

有名なイエズス会の宣教師マテオ・リッチ(16~17世紀の明朝で活躍した)はその著作の中で、熟練工一人で一日1500枚印刷できると書いています。

活版印刷

活版印刷-1
活版印刷-1。
活版印刷-2
活版印刷-2。

活版印刷は11世紀半ば、宋代の畢昇(ひっしょう…10~11世紀の人)が発明したと言われています。そのやりかたは、粘土を使って文字を刻み、文字ごとに印を一つずつ作り、それを火で焼いて固める(これが活字)→次に用意しておいた鉄板に松脂やロウを塗り、その上に鉄枠を置いて中に活字を並べていくというものです。畢昇が作ったこの活版印刷技術は発明されたあと普及することはありませんでした。ドイツのグーテンベルクより400年も早い画期的な印刷術でしたが、これが普及しなかったのは漢字の特殊性から来るものです。アルファベットなら100本ほど活字を用意すれば事足りますが、漢字は何千何万とあります。活字印刷するには最低20万個の活字が必要だったといわれます。漢字の印刷には活版印刷よりも木版印刷の方が向いていたのです。

印刷術を普及させたさまざまな要因…仏教・科挙・紙幣

中国の印刷術を普及させた要因としては先に挙げた文化的要因以外にもいろいろ考えられます。その一つに仏教があります。たとえば『西遊記』で有名な玄奘(玄蔵法師)は毎年数十万枚の菩薩像を印刷して人々に配ったと言われています。唐代早期の印刷はその多くが仏教徒の手で行われ、印刷術の発展に大きく寄与しました。

また隋の時代に始まった科挙(かきょ…隋代~1905年まで行われた官僚登用試験)も書物や参考資料など印刷物を必要としました。特に宋代は文を重んじましたので中流層以下の人々もこぞってこの科挙に参加しようとしました。こうして大量の印刷物の需要が生まれました。

元の時代に中国を訪れたベネチアの商人マルコ・ポーロは「この王朝では金属貨幣でなく紙幣を使っている」と驚きの目を見張っています。当時ヨーロッパでは紙幣は使われていませんでした。紙そのものに金貨や銀貨のような価値を持たない紙幣には権威性が必要なことはもちろんですが、偽札を防ぐ必要もあります。こうした要求を満たそうとした紙幣は印刷の高度化を促しました。

日本への伝播と西洋への伝播

中国の印刷術が最も早く伝えられた国は日本です。日本は中国に次いで最も早く木版印刷を発展させた国です。日本からは遣唐使、留学生、学問僧などがおおぜい唐を訪れ、仏教の印刷経典などを持ち帰りました。8世紀の孝謙天皇はこうして中国から伝わった印刷術を用いて仏教の経典を刊行しました。中国を初め他の国では印刷術は民間で細々と行われていましたが、日本では最初から国家が指揮を執って大々的に行われました。

ヨーロッパがシルクロードを経由して中国の造紙の技術を導入し製紙工場を作ったのは12~13世紀です。ただ各種読み物の複写は当時依然として手書きによるものでした。14~15世紀に入るとルネサンス運動が社会・経済・工業・商業などを発展させ、文章を読むことへのニーズが高まりましたが、手書き複写ではそれを充分に満たすことはできませんでした。モンゴルの西征とシルクロードでの貿易活動はユーラシア大陸に道を作り、印刷術の伝播に陸の橋を架けました。こうしたルートを通って中国の木版印刷や活字印刷に関する情報はヨーロッパに伝わり、グーテンベルクの活版印刷の発明にさまざまな影響を与えたと考えられています。

欧州の活版印刷とグーテンベルク

ヨーロッパにおける活版印刷の発明はいくつかの技術が組合わせて行われました。

可動活字(1文字につき1つの棒のような活字になっており、それらを組み合わせて印刷用の版とする)、粘土の高いインク、裏映りのしにくい紙、紙を版にプレスするための機械……。中でも可動活字のアイデアとそれを作る技術が非常に重要でした。

これらの活版印刷の発明には諸説あり、そのうち最も有力とされているのは15世紀中ごろにグーテンベルクによって発明された、というものです。

ただしグーテンベルクに関する資料は裁判に関するものを除いてほとんど残っておらず、グーテンベルクの印刷に使われた技術がどのようなものだったかもはっきりとはしていません。

はっきりとわかっているヨーロッパでもっとも古い活版印刷技術は15世紀末のものです。

その方法は、まず固い金属の表面に文字が凸型(判子のように文字が出っ張っている)になるように彫ります。次に銅などの柔らかい金属にその固い金属を打ち込みます。こうしてできた柔らかい金属には文字が左右反転して刻み込まれます。ここになまり・アンチモン、すずからできた活字用の合金を流し込みます。この合金を冷やして固め、取り外し、また同じ合金を作るという作業を繰り返します。こうしてできたものが活字となります。これらの活字を組み合わせて1ページ分の版を作るのですが、1ページの中に何度も同じ文字が出てくるため、大量の活字を作ることができるこの方法が活版印刷の発明における重要な部分となります。

活字
活字。これらを組み合わせて版を作ります。
欧州の初期の印刷機
欧州の初期の印刷機。活字を組んだ版の上に紙がセットされている板を乗せ、それをプレスして印刷します。左奥に見える太いねじ状の物でプレスしますが、これにはぶどうの圧搾あっさく機などの技術が応用されています。
古い印刷機
古い印刷機。
オリーブオイルの圧搾機
オリーブオイルの圧搾機。印刷のプレス技術の元となりました。

15世紀中ごろにマインツで広まった活版印刷は、その後ドイツ各地に印刷工房が作られ、またその工房の職人たちがヨーロッパ各地で新たに工房を作り…と15世紀末にはヨーロッパの多くの都市で活版印刷が行われるようになりました。

グーテンベルク聖書
1455年に印刷されたグーテンベルク聖書。

初期の印刷物である『グーテンベルク聖書』に使われた活字はおよそ300種類と、表音文字であるヨーロッパの文字(アルファベット)は文字数が少なく、活版印刷に適していました。

一方、中国ではヨーロッパより早くに発明されたものの、表意文字である漢字は文字数が多く、活版印刷に必要な活字が数万種類にものぼったため、活版印刷は19世紀末まで広まらず、印刷は木版印刷によって行われていました。

日本においても活版印刷が主流になるのは19世紀末以降のこと。それまでは木を手で彫らなければならず、版の作成に時間のかかる木版印刷だったため、数百ページにわたるような出版物はあまりつくられませんでした。ヨーロッパがルネサンス以降、世界に先駆けて発展ができたのは、文字の種類が少ないことによる活版印刷の普及により、様々な知識が多くの人々に広がったからではないでしょうか。