魯【春秋時代に孔子を輩出した国家の歴史・地図・年表】
魯(ろ)とは春秋戦国時代に山東省にあった国の名前です。周王朝の周公旦の子がこの地に封じられてできた、古く由緒正しい国です。孔子を生んだ国でもあり、魯国の歴史『春秋』は孔子によって儒教の経典にまとめられたとされています。
魯とは
魯(BC.1055~BC.249)は春秋戦国時代に現在の山東省にあった国の名前で、都は曲阜(現山東省済寧市)です。歴史は古く、周王朝の正統を継ぐ国としてスタートしましたが、やがて権力は家臣に奪われ、君権は有名無実のものとなっていきました。
この地は孔子が生まれ、儒教の祖形を成立させた場所でもあります。魯の役人でもあった孔子は魯王の権力強化を願いますが、うまくいかずに弟子と共に諸国を放浪。やがて魯に戻って数千人の弟子の教育にあたりました。魯の王室の記録『春秋』の編集にも携わったといわれ、やがて『春秋』は儒教の経典になりました。魯は弱小国でしたが、孔子を通して儒教文化生誕の地として大きな意味を持つ国でもありました。
魯の成り立ち
魯という国は、周王朝の初代の王である武王の弟・周公旦(しゅうこう たん)の子である伯禽(はくきん)がこの地に封じられたことでできた国です。
周王朝の直系ですから、春秋時代の諸侯国の中でリーダーシップを取る大国になるべき国でしたが、覇者(はしゃ…周王室に代わって天下を仕切った諸侯国の君主。実力あり、諸侯間からの信望も得た君主がこう呼ばれました)を出すことなく、BC.257楚の攻撃によって滅びました。
周公旦は孔子が生涯尊敬し続けた人物として有名ですが、周王朝の礼制も周公によって定められ、魯にはその遺風が残っていました。
孔子はこの魯で生まれ、周代の礼制をまとめて儒教として広めました。もし孔子が周王朝の遺風なき国で生まれ育ったならば儒教は今の姿だったかどうか…
魯は春秋戦国を通じて弱小国でしたが、孔子を通して中国の歴史に大きな影響を与え、そうした意味では中国史になくてはならない国です。
孔子と魯
孔子が生きていた頃の魯は下克上の風潮が激しく、君主には実権がありませんでした。
家臣である、季孫(きそん)・孟孫(もうそん)・叔孫(しゅくそん)の3氏の権勢が君主の力をしのいでおり、この3氏はまた魯の桓公の末裔なので三桓氏と呼ばれていました。
魯の軍隊も彼らの勢力下にあったので、魯の君主はまさに名ばかりの存在でした。
孔子は若い頃役人をしていたといわれていますが、君主の元での役人ではなく、この三桓の元での役人だったようです。
BC.517君主である昭公は三桓に対して討伐せんといどみますがあえなく敗北。
昭公は隣国の斉に亡命し、36歳だった孔子も昭公について斉に渡りました。
孔子は昭公じきじきの家来ではなかったので共に斉に行く義務はありませんでしたが、三桓がわが物顔にふるまう魯を嫌ったようです。
2年後孔子は斉から魯に戻り魯国の大司寇(法務大臣)の地位に就くのですが、当初の目的・三桓の勢力を抑えて君権を強化しようという政治改革は失敗。
孔子は再び魯を去ってその後の14年間孔子を慕う弟子たちを引き連れ、衛・曹・宋・鄭・陳・蔡・楚などの国々を遊説して回りました。
70歳になろうという頃、孔子は衛から三たび魯に帰国し、その後は3000人いたといわれる弟子の教育に心血を注いで人生の幕を閉じました。
魯の『春秋』と孔子
『春秋』とは魯の公室のBC.722からBC.481までの記録です。
魯の君主の在位年を基本にして記述し、BC.722からBC.481までのできごとが書かれており、この年代をこの『春秋』にちなんで「春秋時代」と呼んでいます。
魯の公室の記録といっても、ここに書かれたできごとはこの時代のほとんどすべての諸侯国のできごとを含んでおり、当時の中国大陸における状況を網羅した記録ということができます。
この『春秋』という書物は五経の一つ、儒教の経典として尊重されてきました。
『春秋』は魯の国の年代記として書かれた当時のままのオリジナルの書ではなく、孔子の手によってその主張をこめて編纂したとされています。
そう主張したのは孟子ですが、孟子は以下のように書いています。
「世衰え道微かにして邪説暴行おこるあり。臣にしてその君を弑する者これあり。子にしてその父を弑する者これあり。孔子おそれて春秋を作る」(道徳が衰え酷い世の中になった。家臣が君主を弑したり、子が父を弑したりというとんでもないことが起こるようになった。孔子はこうした世におそれを抱いて『春秋』を編纂したのである)
この孟子の説は正しいのかどうか確証はなく、孔子やその弟子の言行を記録した『論語』にも、孔子が『春秋』にかかわったという記述はありません。こうしたことからこの孟子の説を疑問視する人もたくさんいます。
とはいうもののこの書が孔子の編纂によるものでその主張も込められている、と長く信じられ読まれ学ばれてきたこともまた事実です。
滅亡後の魯
魯が滅亡して数十年、戦国の雄はみな滅ぼされBC.221に秦が天下統一を果たします。
ところが始皇帝が亡くなると秦はBC.206建国から20年ももたずににあっけなく滅んでしまいました。
その先駆けとなったのが陳勝・呉広の乱です。彼らは一農民、一兵士でしたが、秦の暴政など積年の怨みが積もっていた各地からはあちこちでこれに呼応する動きがあり、陳勝は即位して王を名乗りました。
この陳王のもとに魯の儒者たちが礼器をもって帰順したといいます。孔子の子孫・孔甲も陳王と生死をともにしました。