蒙恬の生涯【秦の統一に一族で貢献し長城を築いた名将】

蒙恬

蒙恬(もうてん)は古代中国・戦国時代末期の武将で、の統一事業に貢献するとともに、匈奴対策に大きな力を発揮しました。北の守りのために万里の長城の建設にも貢献しました。始皇帝の信頼が厚かったのですが、始皇帝死後、宦官趙高に図られて自害に追い込まれました。

蒙恬とは

蒙恬もうてん(?~BC.210)は秦の武門の名家の出身です。祖父の時代から秦の武将として活躍した家柄でした。蒙恬は最初司法に携わる役人でしたが、やがて将軍職を拝命し、を討ち破っています。

秦が中国を統一すると、蒙恬は30万の兵をひきいて河南のオルドスに向かい匈奴を追い払いました。蒙恬は匈奴に睨みをきかせるとともに、甘粛省から遼東まで1万里に及ぶ長城の造営に力を尽くしました。

こうして蒙恬は外征、弟の蒙毅は内政と秦王朝のために力を尽くし、始皇帝の信頼厚い家臣として順風満帆でしたが、始皇帝が亡くなると暗転。蒙恬に恨みを抱いていた宦官・趙高の謀略により、蒙恬は弟ともども自害を命じられて非業の最期を遂げました。

戦国時代中期の地図
戦国時代中期の地図。
オルドス
オルドスの場所。
年表
蒙恬は戦国時代に活躍しました。

蒙恬の経歴…秦の名家

蒙恬の家系図

蒙恬の先祖はではなくの人で、祖父・蒙驁(もうごう)のとき斉から移って秦の昭王に仕えるようにました。

秦の荘襄王の時、蒙驁は秦の将軍となり、を破ってその領土の一部を奪いました。

その2年後蒙驁は趙を攻め37の城を取ります。さらに後の始皇帝である秦王・政の即位3年後には韓を攻めて13の城を陥落させました。始皇帝の5年にはを攻めて20の城を取り、始皇帝7年に蒙驁は亡くなりました。

ちなみに中国語でいう「城」は、日本語でいう天守閣のある城のことではなく城壁で囲まれた町や都市を意味します。(→参考「邑・城郭都市」)

この大将軍・蒙驁の子が蒙武で、蒙武の子が蒙恬です。蒙恬の弟は毅(き)といいました。

蒙恬ははじめ訴訟や裁判の文書に携わる役人でした。

その後始皇帝の23年に父の蒙武が秦の副将となり、王翦(おうせん)将軍とともに攻めに加わり、楚軍を破って楚の名将・項燕(こうえん)を討ち取りました。項燕は劉邦と覇を争った項羽の祖父に当たります。

始皇帝の24年、蒙武は再び楚を攻め楚王を捕虜にしました。

始皇帝の26年、蒙恬はこうした家柄であることから秦の将軍に抜擢されました。その後斉を攻めてこれを破り、内史という役目を拝命しました。

秦統一後の蒙恬

秦が中国大陸を統一すると、蒙恬は30万の兵を率いて北方の匈奴を追い、河南のオルドスを奪います。

さらに万里の長城造りにも尽くしました。この長城は、甘粛省を出発点とし、遼東まで1万里以上の長さを持ち、黄河を越え曲がりくねって北に向かっていきます。

蒙恬の威力は匈奴をも震え上がらせるものでした。

始皇帝は蒙恬を賢人として信頼を寄せ、それによって弟の蒙毅も尊重され上卿の位を得、始皇帝が出かける時は常に同じ車に乗り、朝廷でも御前にはべりました。

蒙恬は外征を受け持ち、蒙毅は内政を受け持って始皇帝に忠義を尽くし、他の大臣は彼らと競おうとはしませんでした。

始皇帝の死後

これほどの活躍をし始皇帝の覚えめでたい蒙恬兄弟でしたが、その運命は始皇帝が亡くなると暗転します。

始皇帝の側近に宦官の趙高(ちょうこう)という者がいました。卑賎な身分の出身でしたが勉強家だったので始皇帝に重用されていました。

あるとき趙高が罪を犯し、始皇帝は蒙毅に法律に照らして処置するよう言い渡しました。

蒙毅は趙高の罪が死刑に当たるのでこれを免職させましたが、始皇帝が彼は勤勉だというので恩赦により復職させました。

始皇帝は国内を巡幸する際、九原から甘泉まで直進して行けるように蒙恬に道路を作らせました。

山や谷がある難工事でなかなか完成しないうちに、始皇帝37年巡幸の途中、会稽(かいけい)から琅琊(ろうや)に向かったところで始皇帝は病に倒れてしまいました。

蒙毅が命じられ山川の神に祈りを捧げようと向かいましたが、まだ始皇帝の元に戻らないうちに皇帝は崩御しました。

始皇帝の死は隠され、丞相の李斯(りし)と趙高以外誰も知りませんでした。

趙高は始皇帝の末子の胡亥(こがい)の寵愛を受けていたため、胡亥を二世皇帝に即位させたいと思っていました。

また彼が罪を犯した時蒙毅が守ってくれなかったのを恨んでおり、いつか蒙毅の命を奪ってやろうと狙っていました。

こうして始皇帝の死後、趙高は隠密裏に李斯および胡亥と打ち合わせて胡亥を皇太子とし、その後始皇帝の名を騙って、二世皇帝になるはずだった長子の扶蘇(ふそ)と蒙恬将軍に自殺を命じました。

扶蘇はこれをニセの勅書とは疑わず自害しましたが、蒙恬はこれを疑ってもう一度勅命を送るよう求めました。

これに対して胡亥は蒙恬を無罪放免にしようとしましたが、趙高は蒙恬の報復を怖れ、胡亥に「始皇帝はあなたを太子にしようと思っていたのに、蒙毅はこれをやめさせました。蒙毅は誅すべきです」と讒言しました。胡亥はこれを真に受け、蒙毅を牢獄に送りました。

始皇帝の棺が秦の都・咸陽に到着し葬儀が終わると胡亥が二世皇帝となりました。

趙高は胡亥に対し何かにつけて蒙一族をそしりました。胡亥皇帝の兄の子・子嬰(しえい)がこれを諫めてこう言いました。「趙王の遷、燕王の喜、斉王の建の三王はいずれも忠臣を捨てたために国を滅ぼし、彼ら自身の身の上にも禍いが襲いました。今皇帝陛下は蒙の一族の命を奪おうとしていますが、こうした行いはまちがっています」

けれども胡亥はこれを聞き入れず、蒙毅に自害を命じました。

胡亥はさらに蒙恬の元に使いをやり「おまえの弟・蒙毅は罪を犯した。お前も同罪である」と蒙恬にも自害を命じました。

二世皇帝からの勅命に蒙恬は「私は30万の兵を持つ将軍です。この力をもってすれば秦の王朝にそむくことも可能です。私が皇帝陛下から死を賜るとわかってなおそうしないのは、先帝である始皇帝陛下の恩義を忘れないからです。

我が一族は代々朝廷に二心を抱く者はいませんでした。それが急にこのようなことになったのは朝廷の中に奸臣がいるからに違いありません。こうしたことを申し上げるのは免罪を求めるからではなく、諫言した後に死のうと思うからです。皇帝陛下にはなにとぞ道に従っていただきたい」

蒙恬の言葉を聞いた使者は「私は陛下から命令を受けてそれを執行するだけの者。将軍の言葉を陛下にお伝えすることはできません」と言いました。

これを聞いた蒙恬は「私はなぜ罪もないのに死ななければならないのだろうか」としばし嘆きました。

しばらくして「私は1万余里にわたって長城を築いた。その中で土地の地脈を断ち切ってしまったこともあったかもしれない。私の罪はこれに違いない」と言って毒をあおいで死にました。

これが秦統一の立役者の一人、蒙恬将軍の最期です。司馬遷はその著『史記』蒙恬列伝の中で、蒙恬の最期の言葉に対して以下のように述べています。

「私(司馬遷)は北方辺境の地で蒙恬が築いた長城を見たが、これはつくづく民衆の苦しみを顧みない行為だと思った。名将・蒙恬はこの人民の苦労を思いやって行動しなければならなかったのに、ひたすら皇帝におもねって功を立てることばかりを考えた。それを思えば兄弟ともどもこうした最期を迎えるのは当然であろう。土地の地脈を絶ったせいなどではないのだ」

蒙恬の人生に対するなかなか厳しい批評です。

蒙恬の生きた時代から二千年後の私たちは壮大な万里の長城の偉業に感嘆するのみですが、その時代からわずか百年後に生きた司馬遷は、万里の長城の影にある人民の犠牲に思いを馳せずにいられなかったのでしょう。