文帝【歴史書で仁政と称えられた前漢の皇帝・歴史地図付き】

文帝

文帝前漢の第5代皇帝で、専横を極めた呂后一族が滅びた後、地方の代王から皇帝に抜擢されました。文帝の治世は息子の景帝と共に「文景の治」と呼ばれています。

文帝とは

文帝劉恒…B.C.202~B.C.157)は前漢の第5代皇帝で、前漢高祖・劉邦の4男です。呂后一族を滅ぼした後、前漢王朝の重臣によって、主に外戚の害の恐れがないという理由で、地味な地方の王から皇帝に抜擢されました。皇帝になった後は、戦乱が続いて疲弊した農村を立て直し、農業を発展させるために田税を減免したり、朝廷や皇帝自身の暮らしを質素にしてぜいたくを廃し、国庫を豊かにするべく努力しました。また酷薄な刑罰も減らし、仁政を施したと評されています。

文帝と息子の景帝の時代は「文景の治」と呼ばれ、特にめざましい業績があったわけではありませんが、動乱や呂后一族の専横を経て、前漢王朝はやっと安定し、民も朝廷内も穏やかな時代を享受できました。こうして前漢は文帝の孫・武帝の時代に黄金期を迎えます。

年表
文帝は前漢時代の皇帝です。

文帝の即位まで

前漢は高祖亡きあとは高祖と呂后の長男・恵帝が第2代皇帝となりますが、母・呂后の残虐なふるまいにショックを受けて政治を放棄、若くして亡くなりました。その後は呂后によって幼い子供が2人、第3代、第4代皇帝として即位しますが、まもなく呂后に命を奪われます。こうして呂后や呂一族による政治が行われますが、呂后が亡くなると呂一族は滅ぼされ、重臣たちの議論の末に、代の地で王に封じられていた劉恒が第5代皇帝・文帝に選ばれました。

劉恒が選ばれた大きな理由は、后や外戚の横暴に苦しめられた重臣たちが、二度とこうしたことを起こさないようにと、皇帝の母親や母方一族の人となりを吟味したからです。

劉恒の母・薄氏はかつて劉邦の後宮で雑用をしていましたが、たまたま劉邦の目にとまり劉恒を生みました。けれどもその後劉邦の寵愛を受けることがなかったので、呂后の嫉妬を買わず、その犠牲になることもありませんでした。

薄氏やその一族はなかなか立派な人たちで、外戚となっても呂一族のようなふるまいはしないだろうと判断され、劉恒が選ばれました。

皇帝に選ばれたと聞いて劉恒はどうしたものか側近に相談すると「の重臣たちが何を企んでいるかわかったものではありません。様子を見るべきです」と言う者もあれば「この話は天下の人々の心です。疑ってはなりません」という者あり、劉恒は決心することができませんでした。

亀の甲羅を焼いて占うと「大王になる」という卦が出ました。母方の叔父を漢の重臣・周勃の元を訪ねさせると、その話には謀略めいたものはまったくありませんでした。

そこで劉恒は先ずは側近6人のみを伴って長安に向かいました。長安の北にかかる橋まで行くと前漢王朝の重臣たちがずらりと彼を出迎えています。劉恒は彼らが璽符(皇帝の印章)を渡そうとしてもそれを受け取らず、とりあえず長安にある代王邸に入りました。すると重臣たち…丞相の陳平や太尉の周勃など、かつての劉邦配下のそうそうたる重鎮がそれに続き、劉恒に拝謁して「大王こそ高祖のお子であり、後継ぎとなるべきお方であると、我々一同結論を出しました。どうか大王様には天子の位についていただけますよう」と拝礼しました。

代王は何度も辞退しましたが何度辞退しても「大王様こそ跡継ぎとなるべきお方です」と譲りません。劉恒も最後はとうとう皇帝の座に就くことを承知し、この日の夕方未央宮に入り、夜には詔書を下し、こうして代王・劉恒は第5代皇帝となりました。在位はB.C.180~B.C.157です。

ところで皇帝候補者が受諾する前に何回か辞退するのは一種の儀式であって、必ずしも本心とは限りません。

文帝の治世と業績

文帝の治世についてはしばしば「仁政」という言葉が使われます。

司馬遷(しばせん…B.C.145/135?~B.C.87/86?)の『史記』の中で文帝について書かれた「孝文本紀」を読むと、それまでの始皇帝劉邦項羽などの血生臭い英雄たちの物語とはまったく異なり、そこには稀に見る謙虚で徳高い為政者の物語が描かれています。

よくある後世美化されたストーリーなんだろうと思うところですが、権力者におもねることのない司馬遷が書いたものですから、司馬遷が生きた文帝死後数十年の当時、文帝の評判はきわめて高かったのでしょう。

『史記』「孝文本紀」の最後に書かれた司馬遷による文帝評では、「漢王朝ができて40余年、皇帝の徳はいきわたり、封禅(ほうぜん…王が天と地にその即位を知らせて、天下が泰平であることを感謝する儀式。始皇帝や前漢全盛期の武帝が行っている)を行う時に近づいたが、文帝は謙虚で封禅をしようとはしなかった。ああ、なんと人徳ある皇帝ではないか」と書かれています。

さてその「仁政」の中身ですが、

農業の奨励と田租(農民への税金)の減免で、秦王朝が倒れ前漢王朝が建つまでの戦乱による農村の疲弊が回復した。

宮廷では節約しぜいたく品を制限し、経費を減らした。

宮廷に仕える官僚の数も削減した。

自分の葬儀においても墳墓、副葬品などにぜいたくを禁じ、臣民の服喪期間も短くした。

国の倉庫の穀物を貧しい人々の救済に当てた。

犯罪者を出した家族、一族に対する連座制を廃止した。

犯罪者の体に傷を残す肉刑を廃止し、労働刑に変えた。

等々です。

肉刑の廃止に関して、文帝は以下のような言葉を残しています。

「今、法に3つの肉刑(入れ墨、鼻削ぎ、かかと切り)があるがそれでも犯罪はなくならない。その原因は朕の徳が薄く、教化が明らかではないためである。教化の道が純粋でないと、愚かな民は罪を犯すものだ。今人が罪を犯すと教化を施さずに刑罰が与えられる。刑が人の肢体を断ち、肌を刻んで生涯を不自由に生きるとはなんと痛ましいことか。また朕のなんと不徳なことか。以後肉刑を除くように」

また文帝から2000年後の今も、中国をはじめいくつかの国で行われている政府による厳しい言論統制についてですが、文帝時代の法律にも「誹謗・妖言の罪」というものがありました。政府批判を禁じるものです。これに対して文帝は「こういう法律があっては多くの臣下は自分の心情を存分に述べることができない。皇帝自身、自分の過ちを聞くすべがない。これでは遠方に住む優れた人物を招くこともできない。以後この法律を廃止するようにせよ。

人民の中には皇帝を呪う者もいて、役人はこうした者を大逆罪とするが、朕は彼らを罪することは願わない。以後このような罪を犯す者があっても罰してはならない」と述べています。

いずれも人々に皇帝の仁政を感じさせる言葉です。

農業を重んじた文帝は、朝廷に自ら耕作する田んぼを作らせ、自分で耕し、収穫したものを宗廟(先祖を祭る廟)に捧げたいと言っています。

文帝の治世によって、人々の暮らしは落ち着き、漢王朝は安定期といえる時代に入りました。

文帝は孫の武帝のように特に目覚ましい業績を挙げたわけではありませんが、激動の世が過ぎて約50年、民公ともに穏やかな日々を送ることができるようになりました。

文帝時代の治世は息子の景帝時代と合わせて「文景の治」と呼ばれ、孫の武帝による前漢王朝黄金期のお膳立てをした時代でした。

23歳で即位した文帝は46歳で亡くなり、在位期間は23年間でした。

23歳という即位年齢を思うと、若い頃から成熟した人柄だったと思われます。父・劉邦は無頼の出身ですが、父とはだいぶ異なる人柄で、母方の薄氏一族の感化、教育の賜物かもしれません。前漢建国の功臣・陳平や周勃の選択眼に間違いはありませんでした。

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