法家【春秋戦国時代に法による統治を唱えた者たち】
法家とは春秋戦国時代の諸子百家の一つで、法によって国を治める法治主義を唱える学派のことです。人は生まれながらに悪であるという性悪説を説いた荀子に学んだ韓非が、呉起や申不害などの思想をまとめて法家理論を完成させ、秦の始皇帝の国家運営に大きな影響を与えました。
目次
- 1. 法家とは
- 2. 法家とその人物
- 3. 韓非の人生と思想
- 4. 秦は法家によって天下統一し法家によって滅びる
- 5. その後の中国と法家思想
法家とは
法家(ほうか)とは、春秋戦国時代(BC.770~BC.221)の諸子百家(しょしひゃっか…春秋戦国時代に現れた学者や学派のこと)の一つで、儒家のように「君主の徳」による政治ではなく、「法によって国を統治する」という思想を唱える学派のことです。法家思想は管仲や子産などに始まり、商鞅は法を用いて秦を強力な国家に変え、戦国末期の韓非子は呉起や申不害などの思想を集大成し『韓非子』を著しました。その思想は、君主がその権力を法によって操り政治を行うべきだというもので、独裁中央集権国家に道を開くものでした。韓非子の著作を読んだ秦王・政はこれに大きな感銘を受け、後に始皇帝として法家思想による統治を行い、秦を強力な統一国家に押し上げました。
法家とその人物
春秋戦国時代というのは多くの戦争にあけくれ、特に戦国時代はやるかやられるかというまさに弱肉強食の時代でした。そうした中、どの国もどうしたら国の経済を豊かにし軍事力を高められるかという富国強兵にしのぎを削っていました。法家の思想はこうした国々に歓迎され、法家的思想を持つ人物はそうした国に招かれ、その国の重臣として活用されました。
法家は春秋時代の管仲(かんちゅう…春秋五覇の一人・斉の桓公に仕えて、富国強兵策を執る)や子産(しさん…鄭の政治家で、刑法を厳格に行うことを主張)に始まるといわれています。
さらに時代が下ると、呉起(ごき…魏の文侯や楚の悼王に仕えた。将軍となって功績を残し、兵法書も書いてよく読まれた)や商鞅(しょうおう…秦の孝公に仕えた。法の思想で政治を行い、軍事や経済面でも功績を残した)、申不害(しんふがい…韓の昭侯に仕え、富国強兵策を行った)などが活躍しました。
戦国末期には韓非子(かんぴし)が現れました。韓非子は呉起や申不害の思想を統合して、法家理論を完成させます。秦の始皇帝はこの韓非子の理論を用いることで、中国統一に成功したといっても過言ではありません。
始皇帝自身や始皇帝の大臣を務めた李斯(りし)も、法家の一人として説明されることもあります。
韓非の人生と思想
韓非は韓の公子でしたがうまれつき吃音(どもる)がありました。
秦の政治家・李斯とともに儒家の荀子(じゅんし)の教えを受けました。
荀子は人間性悪説(人間の天性は悪なので、これに対して人為的な矯正をしなければならないという説)で有名です。
韓非子の思想には儒家以外にも法家・道家・墨家・名家(めいか)の影響が入っているといわれています。
韓非子は韓が弱体化していくのを目のあたりにして、韓王にその対策を何度も進言しますが受け入れてもらえません。というより韓は弱体化しすぎて、すでに抜本的な改革をする体力を失っていたのです。
そこで韓非は自分の考えを十数万字にのぼる文にまとめました。これが『韓非子』です。
その一部を読んだ秦王・政(せい…後の始皇帝)は「ああ、この作者に会うことができ、この方と付き合うことができたなら私は死んでもいい」と言ったといいます。
大臣の李斯はかつて韓非と同窓でしたから「この文章は韓非という韓の公子が書いたのです」と始皇帝に教えました。
秦はのちに韓に出兵し、韓は韓非を使節として秦に送りました。
李斯は韓非の高い能力を知っていましたから「こいつが重用されたらワシの地位が危うい」と不安にかられ、始皇帝に韓非の誹謗中傷をします。
「韓非は韓の公子ですからイザとなれば当然韓のために働くことでしょう。ただこのまま帰国させれば、きわめて優秀な男ですから秦にとっては禍となるでしょう。いっそ韓非の命を奪ってしまったらどうですか」
始皇帝はこの言葉にうなずき、韓非を投獄させました。後にこれを後悔し韓非を呼ぼうとするのですが、その時韓非はすでに李斯によって自殺させられていました。
『韓非子』の主な思想
現代でもよく読まれる韓非の思想書『韓非子』の主な内容を以下に紹介します。
1.君主が家臣を動かすのに必要なものは刑罰と徳であり、これを自由に操ることで家臣を怖れさせたり喜ばせたりできる。
2.功績があればこれをほめ、罪があれば罰する。この信賞必罰を正しく行わなければならない。こうして君主の権威を明らかにし、家臣の能力も発揮させることができる。
3.家臣が言葉を述べたら、君主はその言葉に基づいて仕事を与え、仕事についての功績を求める。家臣の功績が仕事に一致し、その仕事が言葉に一致しているならほめ、そうでないなら罰するべきだ。こうした時に愛情は無用である。
4.過去にあった理論(儒教をさす)にこだわらず新しい理論(法家思想をさす)に立脚するべきである。
5.説得することは難しい。なぜなら相手の心を読み取って、その心に自分の意見を当てなければならないから。相手の心が名誉を重んじているのに利益を説いても相手にされない。相手の心が利益を求めているのに、名誉や高潔さを説いても受け入れてはもらえない。
以上のような内容を韓非は歴史のエピソードや卑近な例を使ってわかりやすく、そして筋道を立てて述べています。
韓非は儒家的な理想主義を持ちこまず、特に政治を行う上では人としての情(じょう)を徹底的に排除するよう説いています。
法こそが絶対であって、官吏登用も実力主義、信賞必罰、父が罪を犯したり失策をすれば子はこれを摘発しなければなりません。
これは儒家とは真逆の価値観です。
君主はこの絶対的な法の力によって政治を行いますから当然厳しい独裁政治になります。
「政(まつりごと)をなして民に適う(かなう…民心を得る)を期するはみな乱のはじめなり」と韓非子は言っています。
民心に沿った政治は乱の始まりだというのです。ポピュリズムの拒否です。なぜなら民は開墾を強制されることを「酷」として嫌い、刑罰を厳しくすることを「厳」として嫌い、税金の取り立てを役人の「貪」として嫌い、「徴兵」を「暴」として嫌うが、いずれも結果的に民にメリットがあるものである…たとえば開墾は民を豊かにし、刑罰は社会悪を防止し、税金は飢饉を防ぎ、徴兵は外敵から守るものなのだから…民が喜ばないこの4つは国家の治安の根本なのに、民が喜ばないからといってこれをなおざりにすると国家は乱れるのだ…韓非はこう説いています。
現代の視点から見ても耳を傾ける価値ある言というべきでしょう。
始皇帝は韓非の思想に心酔し、この思想に基づいて政治を行いました。
秦は法家によって天下統一し法家によって滅びる
始皇帝はBC.221に天下統一を果たしますが、この偉業は法家思想に基づく国家経営と切り離すことはできません。
ところがこの法絶対主義によって始皇帝はあやうくテロに斃れるところでした。
それは燕が送った刺客・荊軻による暗殺未遂事件です。
短刀を持って当時の秦王、のちの始皇帝を殿上で追い回す荊軻に、秦の家臣たちはなすすべもありませんでした。なぜなら家臣が剣を抜いて殿上に上がることは死罪と決められていたからです。死罪と法が定めたものはどんな理由があろうとも死罪なのです。
家臣が投げた薬箱によって始皇帝はあやうく難を逃れ、この暗殺事件は未遂に終わりました。
秦は始皇帝が亡くなると一挙に滅びの坂を転がり落ちていきました。帝国内に秦の厳罰主義への不満が積み重なっていたからだといわれます。
最後は地方の農民であった陳勝・呉広の乱をきっかけとして秦はあっけなく滅亡するのですが、辺境の守備に徴兵されていた陳勝たち農民兵が反乱を起こした理由とは、期日までに指定場所に到着しなければならないのに天気が悪くて間に合わないとわかった時、これが死罪に当たるため「どうせ死ぬなら」とやけっぱちになったからだといわれています。
天候という不可抗力の理由も考慮されない硬直した法の運用が全国的に行われていたとするなら、「もうこんな国はうんざりだ」と怨嗟の声が高まったのもうなずけます。
その後の中国と法家思想
世界に二千年も先駆けて法治の概念を持った中国は、それから二千年後の今、法治国家ではないと内外から批判されています。
中国には立派な法律がそろっていますが、厳密に運用されているかというと疑問が多々あるからです。法律がコネ次第で恣意的に用いられる事例は、今も枚挙にいとまがありません。
世界の超大国をめざす中国が、なぜ現代の先進国家にふさわしい法治主義を採れないのか。二千年前の秦の失敗に懲りているからということはないでしょうが、二千年を超える社会の伝統のくびきという気がしないでもありません。