東方朔の生涯と伝説【皇帝の笑いを取り続けた宮廷の役人】

東方朔

東方朔(とうほうさく)は前漢時代武帝から気に入られ、突飛な行動で武帝の笑いを取り、『史記』などの歴史書では宮廷芸人のように描かれた役人です。のちに話術の神様のようにも扱われるようになりました。

東方朔とは

東方朔

東方朔(とうほうさく…B.C.154~B.C.93)は、の人で、東方が姓、朔が名前です。の第7代皇帝・武帝(B.C.156~B.C.87)に仕えた宮廷芸人ともいうべき存在で、その突飛な行動や面白い話で武帝を楽しませました。

若い頃、竹簡3千枚という度肝を抜く量の意見書を朝廷に出して、その量をもって武帝の注意を引き役人として採用されました。宮廷に入った後、武帝の関心を引くことができなかったので、再び突飛な方法を使って印象を残すことに成功。その後も奇矯なことを言ったりやったりして、武帝の笑いを取り続けました。時には真面目な諫言も行い、受け止めてもらうこともあれば、無視されることもありました。彼の一生は司馬遷の『滑稽列伝』に他の滑稽人と共に紹介され、今も笑いの神様として祭り上げられています。

年表
東方朔は前漢時代に活躍しました。

武帝との出会い

東方朔
東方朔。

東方朔は武帝お抱えのお笑い芸人的存在です。もちろん彼は最初からこうした役回りに就きたいと思っていたわけではなく、おそらくは武帝の朝廷で政治家または役人として出世しようと野望を抱いていたに違いありません。大変な博学の人でした。

20代初めに前漢の都・長安に行って、許されて他の多くの野心家とともに武帝に意見書を差し出しました。その量、竹簡3千枚といいますからとんでもない量です。

当時の武帝は東方朔と同様まだ20代の若者です。16歳で皇帝の地位に就いてから10年近く経っていました。

若い皇帝は進取の気性に富み、人材を採用するにあたって前例などおかまいなしです。

たとえば優れた儒学者・董仲舒とともに武帝に採用された公孫弘は山東の薛(せつ)の出身で、海辺で豚の飼育をして暮らしを立てていました。40歳を過ぎてから儒者を目指して勉強をし、武帝の官吏採用試験に応じました。この時すでに61歳。採用されたものの仕事はうまくいかず辞職。10年後に再チャレンジ、再び武帝の目にとまって合格し博士に採用されました。時に71歳です。前職が豚飼いであろうと、現代でも定年年齢である70歳を超えていようと、「コイツはいける」と思えば、武帝は採用するのです。しかもその眼力は大したもので、公孫弘は後に丞相にまでなっています。性格的には問題があったようですが、官僚としての能力は確かでした。

また対匈奴戦で百戦百勝の衛青将軍は、最初は一妾だった衛子夫の弟で、辺境で羊飼いをやっていました。衛子夫は元歌手でその美貌を武帝に見染められ、後に皇后になるのですが、衛青や衛子夫の母は奴隷出身だったともいわれ、彼女はいわばシングルマザーとしてこの2人を生んでいます。こういう出身の者を将軍に抜擢し、抜擢されるや衛青将軍は無敵の活躍をするのですから、若き武帝畏るべしです。おそらくは直感的に「コイツはいける」とにらんだのでしょう。武帝は天才的な政治家でした。

3千枚の竹簡でアピール

では東方朔はどうだったかといえば、彼は意見書を3千枚の竹簡に記して上奏しました。彼はこの中で自分をアピールすると同時に、政治に対する考え方を披露しました。

3千枚の竹簡といえば、量も重さも大変なものです。東方朔はこのとびぬけた量と重さがネライでした。ネライは当たり、あまりの量、あまりの重さに武帝の目がとまりました。これを読み終えるには2か月かかりました。よくも読み続けたものですが、読ませるだけの文才があったのでしょう。こうして東方朔は朝廷の役人に無事採用されました。

侏儒を使って再度アピール

採用されたのはいいものの、待てど暮らせど、それ以上の連絡がありません。そこで東方朔は再び作戦を練りました。

宮廷に侏儒(しゅじゅ…身長が3尺余り(約67.5センチ)の人)のグループがあって、使い走りをしていました。

東方朔は彼らに「お前たちは無為徒食だから、武帝は命を奪うとおっしゃっている。死にたくなかったら武帝の前で頭を地にうちつけ、お詫びをせよ」と言い、驚いた侏儒たちは武帝の元に行って号泣しながら頓首しました。

驚いてわけを尋ねた武帝は、東方朔がやらせたことだと知り、彼を呼びました。すると東方朔は「侏儒たちは3尺、私は9尺と3倍もあるのに食糧は同じ。私はもうじき飢え死にするでしょう」とユーモアたっぷりに訴えたので、武帝は腹を抱えて大笑いしました。

こうして東方朔は武帝に自分を印象づけることに成功しました。

奇矯なふるまい

といって高級な役人に取り立ててもらえたわけではなく、いわば武帝お抱えのお笑い芸人扱いです。

時に武帝に諫言をし、それを聞いてもらったり無視されたり、武帝のお気に入りであったことは確かですが、偉い役人にはなれそうもありません。

こうした日々が続くうちに、東方朔は奇妙な言説やふるまいをするようになりました。たとえば武帝の食事のお供をして、肉を賜るとそれを着物のふところに直接入れるとか、金銭や絹をほうびとして下賜されると、ぱっぱと美女にふるまって一文無しになるとか…朝廷では、東方朔は狂人だ…という噂が広まっていきました。

俗世を避けて朝廷に隠棲する

狂人だといわれるようになると、東方朔は「昔の人は深山に隠遁したが、私は朝廷に俗を避け隠遁しているのだ」と言い返しました。

すると「あなたは博学の士であり、弁舌流れるごとくなのに、あたら才能を浪費して、何の仕事もしていない。昔の遊説家・蘇秦張儀を見よ。6国を束ねる丞相になったり、超大国・を取り仕切って活躍したではないか」ととがめる者がいました。

すると東方朔は「時代が違う。蘇秦や張儀が活躍できたのは、当時の世界が混乱していたからだ。どの国も人材がいなければ国が亡びるから、彼らは人材として採用され活躍できた。今のこの朝廷を見よ。聖帝が君臨し、天下は泰平なので、あの蘇秦や張儀であったとしても、この朝廷に連れてこられたならば、私程度の地位にしか就けないだろう」と言い返しました。

東方朔はこうして武帝の朝廷内で約40年、言いたい放題を言い、やりたい放題をやりながら、最後まで命をまっとうして60代で亡くなりました。言いたい放題といっても、武帝がどこで切れるか間合いの測り方は絶妙で、決して武帝を怒らせることはありませんでした。

東方朔は人の心理を読む上でも抜群の才能を持っていたのでしょう。

しかし武帝は、自分より2歳ほど年下のこの奇妙な男をなぜ最後まで手放さなかったのでしょうか。ぎりぎりの間合いで、真顔で諫言したり、笑いに逃げたりする、この博学な男の才能が気にいったのでしょうか。

ともあれ司馬遷の『滑稽列伝』で、朝廷コメディアンとして紹介されている東方朔は、後の世でも愛されて「笑いの神様」に祭り上げられ、時に道教の仙人のようにも扱われています。

獰猛なトラの前で噛まれるか噛まれないか、微妙なところでフワフワと飛び交っているオジサン妖精のような東方朔は、中国史に個性的な魅力を残しています。