春申君【衰退していた楚の復活に貢献した宰相】
春申君(しゅんしんくん)は古代中国・戦国時代に楚の政治家として活躍し、楚を大国に押し上げる上で貢献しました。秦王が楚を攻めようとした時に楚の使者としてこれを説得、秦の攻撃を未然に防ぎました。趙の都が秦によって包囲されると楚軍を率いてこれを解き、また魯を攻め滅ぼすなど将軍としても活躍しました。
春申君とは
戦国四君の一人・春申君(しゅんしんくん…生年不詳~BC.238)は、楚の宰相・将軍として活躍し、衰退しかけていたかつての大国・楚の復活に貢献しました。まず楚の使者として秦に行き、秦による楚攻撃を未然に防ぎました。その代わりに楚の太子を人質に差し出しますが、その後太子を脱出させて楚の孝烈王に即位させ、その宰相となりました。趙の都・邯鄲が秦に包囲されると、軍隊を率いてこれを救出し、その翌年は魯を攻撃してこれを滅ぼし、楚の大国化を進めました。戦国五国が合従して秦攻めを行う時は、楚王が盟主となり春申君が合従軍を指揮しました。この戦いは合従軍の敗北に終わり、この後春申君は楚王から疎んじられるようになりました。最期は食客の一人によって命を奪われました。
※「戦国四君」とは王族として生まれ、弱肉強食の戦国の世に政治的才能を発揮した人物4人のことで、他の3人に、斉の孟嘗君(もうしょうくん…生年不詳~BC.279)・趙の平原君(へいげんくん…生年不詳~BC.251)・魏の信陵君(しんりょうくん…生年不詳~BC.244)がいます。彼らはおおぜいの食客を客分として養っていたことでも有名です。
春申君の生涯
春申君(しゅんしんくん…生年不詳~BC.238)は戦国末期の楚の人で、楚の王族として生まれました。姓は黄(こう)、名は歇(あつ)、春申君という呼び名は死後に送られた諡号(しごう…生前の功績を評価してつけられる名)です。博識で雄弁だったため楚の頃襄王(けいじょうおう)に仕えるようになり、後に孝烈王に仕えました。
秦王との交渉
春申君はBC.273、秦の白起将軍が韓と魏を華陽で破った戦いの頃から歴史に登場します。
当時の秦王である昭王は、戦いで得た韓と魏の兵力を合わせて楚に攻め込もうとしていました。
その時春申君は楚王の使者として秦にいました。
春申君は秦王に対し「秦と楚は二頭の虎のようなもの。相戦えば両者ともに疲弊し、そのスキを狙って韓や魏が攻め込んできます。秦と楚は戦うのではなく親善関係を結びましょう。そうすれば諸国も我らに従うはずです」と説得しました。
秦王はこの説得を受け入れ、楚は親善の証に太子(次の王)完を人質として秦に送りました。春申君は完とともに秦にとどまりました。
人質太子の帰国
それから数年、楚王が病に倒れました。もしこのまま亡くなることがあれば、太子が不在であることをチャンスとばかり他の王子たちが即位する可能性があります。
そこで春申君は完を楚の使者に変装させ密かに楚に帰国させました。
春申君が死を覚悟して秦王にそのことを伝えますと、秦王は激怒しますが側近の取りなしで春申君も無事楚に帰国することができました。
こうしてBC.262に完は即位して考烈王(こうれつおう)となり、春申君はその宰相になりました。
邯鄲を救う
BC.258に趙の都・邯鄲が秦軍に包囲されますと、春申君は自ら軍隊を率いて救援に行き、秦は邯鄲包囲網を解きました。
翌年に春申君率いる楚軍は魯を攻め滅ぼし、一時弱まっていた楚の国力は再び強大になりました。
合従軍、秦に敗れる
BC.241、秦の東方への侵攻に危機感を抱いた楚・趙・韓・魏・燕の五国は合従(がっしょう…縦に連合し秦に対抗する政策)し、打倒秦のため軍を送りました。
この時盟主となったのが楚王で、春申君はこの連合軍の指揮を執りました。
ところが秦の函谷関で連合軍は秦に惨敗し、この後春申君は考烈王から疎んじられるようになりました。
たくらみと死
考烈王には子がなく春申君はこれを心配していました。
春申君の食客の一人に、趙出身の李園(り えん)という男がいました。
美人の妹を春申君のめかけとして献上し、やがて妹は春申君の子供を身ごもりました。
するとその美女が春申君に言うには「あなたは長年楚王の信頼を受けていますが、王に子供がないまま亡くなれば、あなたをよく思っていない王の弟たちが何をするかわかりません。私はあなたの子を身ごもりましたが、このまま黙って私を楚王に献上してください。男の子が生まれれば、楚はあなたのものになるでしょう」
春申君がこの美女の勧めに従って彼女を王に献上すると、王は美女を寵愛、そして男児が生まれました。実は王の子供ではなく春申君の子です。
李園は春申君を亡き者にして秘密を守ろうとしましたが、秘密はすでに他に漏れていました。春申君の食客である朱英もその一人で、彼は春申君にこう進言しました。
「楚王に万が一の場合、李園はまっさきに宮中に乗り込んで権力をわが物とし、あなたの命を奪うでしょう。そうなる前に私があなたのために李園の命を奪いましょう」
すると春申君は「李園がそんなことをするはずがない」と言ってこの進言を退けました。
その後しばらくして楚王が亡くなると、朱英の言ったとおり李園は宮中に入り、刺客を門のところで待ち伏せさせました。そこに春申君がやってくると刺客は春申君を襲撃し、その頭を門の外に投げ捨てました。李園は役人に命じ春申君の一族をすべて滅ぼしました。
この話を『史記』に載せた司馬遷は春申君についてこう評しています。
「春申君が秦王を説得し、自分が犠牲になることを覚悟して楚の太子を密かに帰国させたが、この謀略は智慧がなし得たすばらしい仕事だった。晩年春申君は食客の進言を退け李園の刺客に襲われたが、これは耄碌したと言うほかはない。決断すべきときに決断しないと、後に乱を招く」と。
また考烈王の子供が実は春申君の子供だったという話とよく似たものに、秦の荘襄王と呂不韋の話があります。荘襄王の子は実は宰相・呂不韋の子供だったという話です。この子供こそ後の始皇帝です。