孫子の兵法 【全13章の解説と歴史・歴史地図付き】
孫子の兵法とは、今から2500年ほど前、古代中国・春秋戦国時代に、孫武という軍略家にして将軍によって書かれた兵法書です。中国やアメリカでは今も軍事、軍略の書として研究の対象とされています。日本では主にビジネス書でその有用性が語られています。読んでみると、なるほど現代人もひきつける書物であることがわかります。
目次
- 1. 孫子の兵法とは
- 2. 孫子の生きた時代
- 3. 銀雀山の発掘による証明
- 4. 『孫子の兵法』と斉
- 5. 『孫子の兵法』全13章の概略
- 6. 『孫子の兵法』と老子
- 7. 『孫子の兵法』と名言
- 8. 『孫子の兵法』の日本への影響
- 9. 『孫子の兵法』と武田信玄
- 10. 『孫子の兵法』とビジネス
孫子の兵法とは
孫子の兵法とは、春秋時代(BC.770~BC.476ごろ)の斉出身の軍事思想家であり将軍でもあった孫武(そん ぶ)によって書かれた体系的な軍事思想の書『孫子兵法』のことであり、またそこで書かれた軍略思想のことでもあります。
孫武を孫子と呼ぶ時の「子」は、尊敬の意味を持つ敬称です。
『孫子兵法』は『孫子』とも『十三篇』とも呼ばれています。
中国語では普通『孫子兵法』と呼ばれていますが、ここでは『孫子の兵法』で統一します。
孫武は元々は斉の国の生まれですが、一族での内紛の後、呉に移住し、そこで呉の宰相である伍子胥(ごししょ)による厚遇を受けます。
『孫子の兵法』はその時期に書かれたと言われています。
そうして出来上がった『孫子の兵法』をB.C.515年に即位した闔閭(こうりょ)に伍子胥が献上したところ、宮中に招かれ将軍に任ぜられることとなります。
『孫子の兵法』は日本では、中国に遣唐使を派遣していた8世紀ごろには伝来しており、特に日本の戦国時代以降深い影響を武士たちに与えました。
欧米への影響としては、18世紀末に宣教師によって部分的にフランス語に訳され、ナポレオンがこれを愛読したと伝わっていますが、これが事実かどうか証拠としては残っていません。
『孫子の兵法』はきわめてすぐれた軍事思想の書として今も広く世界で読まれ研究されています。
日本ではビジネス書または啓蒙の書としても依然高い人気を誇っています。
孫子の生きた時代
『孫子の兵法』は孫子によって、今から2500年ほど昔の紀元前5世紀ごろに書かれたものです。
ヨーロッパはローマ帝国初期の時代、イギリスもフランスもドイツも国家としてはまだ存在していませんでした。
アメリカは大陸としては存在していても、アメリカ合衆国が登場するにはまだ2200年以上待たなくてはなりません。
そんな人類の夜明けに近い時代に、21世紀でも十分通用する軍事思想が個人によって構想され書物として残されました。
孫子・孫武(生没年不詳)が生きた春秋時代といえば、夏や殷の次の周王朝が衰微し、諸侯国、いわば江戸時代の大名に相当する存在が支配する国が中国各地にあり、互いに勢力争いをしていた時代です。
これら諸侯国どうしの戦いは記録に残っているだけでも500以上あり、孟子はこれらの戦いについて「春秋に義戦なし」つまり道理にかなった戦争は一つもない、と言っています。
こうしたいわば弱肉強食的になっていく時代の変化の中で、兵器が発達し、戦争は複雑化し、戦法が工夫され、軍略の専門家が求められるようになっていきました。
『孫子の兵法』はこのような時代に書かれました。
銀雀山の発掘による証明
孫子・孫武についてはあまりよくわかっておらず、『孫子の兵法』も孫武が書いたものではなく、その子孫だといわれる孫臏(そんぴん…生没年不詳。紀元前4世紀ごろの斉の軍師)が書いたのではないかともいわれていました。
ところが1972年山東省にある銀雀山から発掘された竹簡(ちくかん…竹製の細長い札で、紙が生まれる前の時代の書写の材料)から『孫子の兵法』の一部や、それまで幻の書といわれていた孫臏による兵法・『孫臏兵法』すら発掘されたのです。
これにより孫武の実在と、『孫子の兵法』は孫臏ではなく孫武の著作であることがわかりました。
『孫子の兵法』と斉
孫武が生まれた斉(現在の山東省)は、周の文王を助けた太公望・呂尚(りょしょう)が建てた諸侯国です。
太公望は釣り好きの代名詞となっていますが、実は最も早期の軍事思想家で、『六韜』(りくとう)という兵法書を書いたといわれています。斉国の軍略は太公望が基礎を作ったとされ、その土壌のある国で孫武は育ちました。
斉は中国大陸の沿岸部に位置したため農地が少なく、そこで商業が発展しました。
斉の人々は商人的な個性…実践的、開放的で頭が柔軟、しかし詐欺師的でもあった…ともいわれています。
朴訥な農民が多数を占めた時代、商人的な頭の巡らせ方を詐欺師と感じる人も多かったのでしょう。
『孫子の兵法』の有名な言葉に「兵とは詭道である」(戦争とは敵を欺くことである)がありますが、この言葉の背景に斉という国のこうした文化があったのかもしれません。また孫子は戦争と経済を結び付けて初めて論じた軍略家でもありました。
『孫子の兵法』全13章の概略
『孫子の兵法』(または『孫子』・『十三篇』)は全13篇、5500余字で書かれた書です。
では以下にそれぞれの篇の内容を紹介しましょう。
1.計篇…戦いの前に整えておくべき条件や心構え。
この最初の章で孫子は「兵は国の大事にして、死生の地、存亡の道なり。察せざるべからず」と書いています。
戦争は国家の一大事であり、国民の生死そして国家の存亡にかかわる。したがって慎重に取り組まなければならないということです。
カーっと頭にきたから兵を出す、というものではないというのです。やるなら勝て。勝てないならやるなと述べ、冷静で緻密な方法論を展開しています。
孫子はここで戦争に勝つための5つの条件を書いています。
(1)道。民の心を君主の心と一体化させること。
(2)天。天候・気候・時間などの条件を知っておくこと。
(3)地。距離・険しさ・広さ・高さなど地理的条件を知っておくこと。
(4)将。将軍の知恵・信頼・仁愛・勇気・威厳などの徳について。
(5)法。軍隊の細部にいたるまでの制度や規定やその運営について。
この計編には「兵は詭道(きどう)なり」とあり、敵をだますことの大切さ、戦争とは敵をだますことによって成り立つのだという有名な説を唱えていることでも知られています。
孫子以前の時代、戦争とは一種の儀式でもありました。いくさでは多く平原に戦車を置き、それを馬にひかせた貴族の戦士によって戦われました。勝敗も短時間で決着がつきました。
まるで柔道や剣道の試合のようです。
『司馬法』という古代中国の軍礼を集めた書には以下のような軍礼が書かれています。
(1)敗走する敵を100歩以上追撃しないことで「礼」を示す。
(2)戦闘不能になった敵には止めを刺さず、傷ついた敵には情けをかけて「仁」を示す。
(3)敵が隊列を整えてから進撃の太鼓を打ち鳴らして「信」を示す。
(4)大義を求めて戦い、利は争わないことで「義」を示す。
(5)降伏した敵は許し「勇」を示す。
(6)戦争を始めても終わらせる潮時をわきまえ、「智」を示す。
この『司馬法』は孫子と同時代に生きた斉の司馬穰苴によって書かれています。『孫子の兵法』が孫子によって一から作られた兵法書であるのに対し、『司馬法』は当時の斉に伝わる古代の兵法の儀礼を中心にまとめられたものです。
こうした伝統がまだ生きていた時代に孫子は「いくさは詭道だ」と現実をリアルに読んでシビアな勝ち方をめざしたのでした。
孟子も「春秋に義戦なし」といっているのですから、現実は軍礼の理想どおりにはいかなかったのでしょう。
ただ宋の襄公が『司馬法』の軍礼(3)に従ったことで楚に敗北してしまった話は、今も「宋襄の仁」という成語に残っています。「愚かな仁」という意味です。春秋の時代にあっても当時の軍礼に従おうとした襄公は笑い者になっていたのです。
また孫子の生きた時代は、エリートたる貴族たちによる儀式的な戦争スタイルから、ふだんは農業を営んでいる庶民を無理やり引っ張ってきて歩兵にし、彼らが戦いの中心となるような戦争スタイルへと変化しつつありました。
こうした時代の変化の中で『孫子の兵法』は生み出されました。
2.作戦篇
戦争が与えるデメリットについて。
戦争とはばく大な消費や損失を伴うので、戦うなら短期決戦がベストだと説いています。戦争を経済の観点から考えているという点で画期的です。
3.謀攻(ぼうこう)篇
戦う前の謀略戦の重要さを説いています。いくさは戦わずして勝つことが最上である、と。
「百戦して百勝するは、善の善なるものにあらざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり」(百戦百勝はベストではない。戦うことなく相手を屈服させることこそがベストだ)。
そこで最上の戦争とは敵の謀略を見抜いてこちらの謀略で勝つこと。
次善の手は敵と断交すること。
最後が敵の軍と戦うこと。
最大の悪手は敵の城を攻めること。
ここで現代日本でもよく使われる有名な言葉…「百戦危うからず」が説かれます。
「彼を知り己を知るならば百戦戦っても危ういことはない。
彼は知らず己を知るならばいくさは五分五分である。
彼も己も知らないならば戦うたびに必ず危ういこととなる」
4.形(けい)篇
「形」とは軍隊の行動や陣形のこと。
この編では態勢や守備の重要性について説いています。
「昔のよく戦うものは、まず勝つべからざるをなして、もって敵に勝つべきを待つ」(昔のいくさ上手というのは、まず敵が勝てない態勢を作っておいて、それから自軍が敵に勝てるチャンスを待った)。
敵が勝つことができないのはこちらの態勢にあり、こちらが勝つことができないのは敵の態勢にあると説いています。
5.勢(せい)篇
軍の編成や戦術の重要性を説いています。
「よく戦うものはこれを勢(せい)に求めて、人を責めず。ゆえによく人をすてて勢に任ず」(うまく戦う者は戦いの重点を勢いに置き、人を責めない。そこで人をあてにせず勢いに任せて戦うのだ)。
「勢い」とは、せきとめられていた水が一挙に流れ出すようなもの、丸い石を高い山から転がし落とすようなものだといいます。
わかるようなわからないような言葉ですが、確かに「時の勢い」とか「その場の勢い」という言葉があるように、こうした勢いに逆らうとうまくいかないというのは日常的に経験することです。
6.虚実(きょじつ)篇
自軍の実によって敵の虚をつくことの大切さを説いています。
「それ兵の形は水に象(かたど)る。水の形は高きを避けて下(ひく)きにはしり、兵の形は実を避けて虚を撃つ」(軍隊の形は水に似ていて、水は高いところから低いところに流れる。軍隊の形も敵の「実」…充実しているところは避け、敵の「虚」…スキを突くのだ)。
「兵に常勢なく、常形なし」(軍隊にはきまった勢いというものはなく、決まった形というものもない)。
敵情に合わせてこちらも変化させ勝利を勝ち取ることを「神妙」というのだ、と説いています。要するに臨機応変です。
7.軍争(ぐんそう)篇
戦闘の実際について説いています。
この編に武田信玄の軍旗で有名な「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」(はやきことは風のごとく、そのしずかなることは林のごとく、侵掠することは火のごとく、動かざることは山のごとく)が出てきます。
「ゆえに兵は詐(さ)をもって立ち、利をもって動き、分合をもって変をなすものなり。ゆえにその疾(はや)きことは風のごとく、その徐(しずか)なることは林のごとく、侵掠(しんりゃく)することは火のごとく、知り難きことは陰のごとく、動かざることは山のごとく、動くことは雷の震(ふる)うがごとくにして、郷を掠(かす)むるには衆を分かち、地をひろむるには利を分かち、権をかけて而(しこう)して動く」
(戦争とは敵を欺くことから始まり、利を得ようと行動し、分散集合によって変化をつける。だから風のようにすばやく進み、林のように静かに待機し、火が燃えるように敵を侵略し、闇のように人に知られないようにし、山のように落ち着き、雷鳴のように激しく動き、村から糧食をかすめ取って兵士に与え、土地を奪って広げたらその利を土地の者に与え、すべてを秤にかけてから行動するのだ)。
この文章の一部が上記したように日本の戦国武将・武田信玄の軍旗に用いられたことで、孫子の言葉としては日本で最も有名なものになりましたが、最後の方を読むと戦争のリアルを嫌でも感じさせられます。
8.九変(きゅうへん)篇
臨機応変の重要性を説いています。「九」は九つの事例を挙げているのではなく、「九変」で「さまざまな変化」ということです。
9.行軍(こうぐん)篇
軍隊が行軍する際の注意事項について説いています。
「およそ軍は高きを好みて下(ひく)きをにくみ、陽を貴びて陰を賤(いや)しみ、生を養いて実に処(お)る。これを必勝といい、軍に百疾なし」
(およそ軍を駐めるには高地をよしとして低地を嫌い、日当たりのよい所を尊び、日当たりの悪いところを避け、兵が健康であるようにして、水や草のある所を占める。これを必勝の軍といって兵士がさまざまな病気になることがない)。
「木々が動くときは敵が来たときだ。
鳥が急に飛び立つのは伏兵がいるからである。
獣が急に走るのは奇襲部隊がいるからである。
塵埃が高く舞い上がって先が鋭いのは戦車が来るときである。
塵埃が低く広がっているときは歩兵が来るのだ。
塵埃が分散し細く伸びている時は薪を取っているのだ」
ここを読むと、実戦の様子が命がけで観察されていることがわかります。孫子は軍学者であると同時に、実戦を戦った将軍でもありました。
10.地形篇
戦場における地形を十分に知っておくべきことを説いています。
戦場となる地形には、通じ開けた場所・障碍のある場所・細かく道が分かれた場所・狭い場所・険しい場所・遠い場所がある。
通じ開けた場所では、敵より先に高く日当たりのよい場所を自軍のものとすべきで、補給の道を断たれないようにして戦うと有利だ、等々と述べています。
また以下のタイプの兵がいる場合はその軍隊は敗れるとして、
逃げる者・緊張感のない者・落ちこむ者・規律を破る者・乱れる者・負けて逃げる者の6者を挙げ、兵がこういう状態に陥るのは将軍の過失であるとしています。
「将軍は兵士を赤子のように見て万事いたわっていくと、兵士といっしょに危険な場所にも行けるようになる。
我が子のようにみて愛情をもって接していくと、兵士たちと生死をともにできるようになる。
ただし可愛がるばかりで命令ができず、でたらめをやっても咎めることができないのであれば役に立たない」としています。
11.九地(きゅうち)篇
地勢を9種に分類し、それをよく把握して作戦と用兵についてよく考えるべきことを説いています。
この中で孫武はいくつかのたとえを用いて説明しています。
率然(そつぜん)の蛇…恒山(山西省にある名山)に率然の蛇という蛇がいて、この蛇の首を打つとすぐ尾っぽが助けに来、尾っぽを打つとすぐ首がやってくる。
中腹を打つと首と尾っぽがすぐ助けに来る。軍もこのように前後左右がかばい合い、直ちに反応すべきである。
呉越同舟…軍隊は率然の蛇のように動くだろうか、と問われた孫武は、「動く」と答えてさらに「呉と越の人々は互いに憎み合っていたが、彼らがともに同じ船に乗っていた時嵐に遭った。すると呉と越の人々は互いに左右の手のように協力しあった。このように軍隊を動かすべきなのだ」と説明しています。
この話が「呉越同舟」という成語の由来となりました。
12.火攻(かこう)篇
ここでは火攻めの心得を説いています。
「火攻めには、乾燥した気候と風が起こる時を選ばなければならない」。
13.用間(ようかん)篇
スパイを使って敵の情報収集に努めることの重要性を説いています。
敵情を知るには、祈ったり占ったりという方法ではなく、人…間諜・スパイを使わなければならない。
間諜こそが戦争のかなめであり、それを頼って行動するのだ、と書いています。
戦争を始める時期やその勝敗について亀の甲羅、雲や気、夢などによる占いに頼ることが常識だった時代、孫子のこうした兵法はきわめて合理的で斬新なものでした。
この篇で、孫子はスパイ…「間者」(かんじゃ)を以下の5つに分けています。
(1)敵の村里の人を利用する。…郷間(きょうかん)
(2)敵の役人を利用する。…内間(ないかん)
(3)敵のスパイを利用する。…反間(はんかん)。これは敵のスパイを捕らえて二重スパイとして使うものです。
(4)味方がウソをつき、味方のスパイを通してそれが事実であると敵国に思い込ませる。…死間(しかん)。
なぜこのタイプのスパイに「死」の文字が使われるかというと、このスパイは「味方を裏切って敵に機密をもたらすと思い込ませる」危険な役回りだからです。
死間は双方のスパイ網を通して敵・味方にこの情報(味方を裏切って敵に機密をもたらす)を同時に伝え、敵に伝わる情報の信ぴょう性を増しておくという高度な情報のやりとりを敵地で行います。
これがうまくいっても祖国生還の見込みはほとんどありません。だから「死」間なのです。
(5)味方のスパイが無事帰国し、敵国情報を伝える。…生間(せいかん)。
この場合、味方のスパイは敵国の内部に入り込み、長い年月をかけて敵の信頼を得る必要があります。
以上のスパイの中で最も重要なのは③の反間で、これによって他のスパイが生きる。だからこの二重スパイは厚遇すべきである、と孫子は述べています。
「これただ明王賢将のみよく上智をもって間者となして、必ず大功をなす。これ兵の要にして、三軍のたのみて動くところなり」
(だから聡明な君主や優れた将軍だけが、優れた智慧を持つ者をスパイとして使いこなし偉大な功績を挙げることができる。スパイこそ戦争のかなめであり、軍全体がこれに頼って行動するのだ」
という文で『孫子の兵法』は終わっています。
『孫子の兵法』と老子
『孫子の兵法』は『老子』の影響を受けているとも、逆に『老子』が『孫子の兵法』の影響を受けているともいう説があります。
確かに「虚実篇」に出てくる「水」のたとえは『老子』を連想させます。
老子・孔子・孫子は同時代の人といわれていますが、年齢的には老子が最も年長で当時から賢者として有名だったようです。
孔子は周王朝の礼(周礼)について何度も老子の元を訪れています。
孫子は老子の影響を受けている可能性があるといわれているのですが、『孫子の兵法』は『老子』(『道徳経』とも)より前に書かれているということが銀雀山の発掘からわかりました。
すると孫子が老子の影響を受けている、という説は矛盾してしまうのですが、孫子は老子の影響を受けたが、『老子』という書物は『孫子の兵法』が世に出たあと、老子学派によって書かれたとすれば成り立ちます。
また『老子』という書物が『孫子の兵法』という書物の影響を受けたという説もあり得ます。
ともあれ確かに『孫子の兵法』にある「戦わないで敵の軍隊を屈服させることこそ最も優れたことである」とか「最大の悪手は敵の城を攻めることだ」というような、人を戸惑わせる逆説的な論理の運び方は老子的です。
こうした表現の意味するところは日本人にはなんとなくわかる気がするのですが、欧米人には極めて難解な思想だといわれています。
また「虚」と「実」、「正」と「奇」など、『孫子の兵法』にしばしば登場する対比的な二つの概念も老子的な陰陽思想を感じさせます。
孫子が老子の影響を受けたというより、この時代の風潮そのものがいわゆる「老子的」だったのではないか、という説もあります。
『孫子の兵法』の戦略観は毛沢東のゲリラ戦にも影響を与えていて、こうした中国人の戦略思考を理解しようとするなら、まずは『老子』哲学(タオイズム)を知ることが必要かもしれません。
『孫子の兵法』と名言
『孫子の兵法』によってできた成語を下に挙げます。
「兵は拙速を聞く」(作戦篇)
戦争は方法はダメでもはやく勝った方がいいと聞いている、ということ。
戦争が長引くと疲弊する。疲弊すればそこに付け込まれて攻められる。そうなると智慧者がいても処理は難しい。戦うとなれば方法はヘタでもはやく勝つ方がいいのだ。
「彼を知り己を知れば百戦殆からず」(謀攻篇)
敵についても自分についても、その情勢を熟知していれば何度戦っても必ず勝つ、ということ。
「風林火山」(軍争篇)
→『孫子の兵法』と武田信玄の項で詳しく述べています。
「呉越同舟」(九地篇)
危機の中で仇どうしが協力し合うこと。また、仲の悪い者が同席する意味にも使う。この言葉が出てきた背景については「九地篇」で紹介しました。
「初めは処女のごとく、のちは脱兎(だっと)のごとく」(九地篇)
初めはつつましやかな乙女のごとく物静かに、あとは逃げるウサギのように素早く行動すること。
戦いの際、最初は物静かにして敵を油断させ、その後逃げるウサギのように鋭く攻撃すれば敵は防ぎようがない…という戦い方について述べた言葉です。
『孫子の兵法』の日本への影響
『孫子の兵法』はAD.700年以降、白鳳・奈良時代に他の漢籍とともに日本に伝わりました。
源義経(みなもとのよしつね…1159~1189 平安末期の武将)・北条時宗(ほうじょう ときむね…1251~1284鎌倉幕府第8代執権 元の襲来を撃退した)・楠木正成(くすのき まさしげ…1294~1336 鎌倉末期から南北朝時代にかけての武将)などはみな『孫子の兵法』の愛読者だったといわれています。
戦国時代になると、武田信玄(たけだ しんげん…1521~1573 戦国時代の甲斐の武将)が『孫子の兵法』(軍争篇)に出てくるいわゆる「風林火山」を自らの旗指物としました。
江戸時代には兵書として多くの人々に読まれ、山鹿素行(やまが そこう…1622~1685 江戸初期の儒学者・軍学者)・荻生徂徠(おぎゅう そらい…1666~1728 江戸中期の儒学者・思想家)がすぐれた注釈書を書いています。
このように古来日本人の心をとらえてきた『孫子の兵法』ですが、戦後は平和主義もあって、軍学書ではなくビジネスへの応用に特化して人気を集めています。古代のいくさイコール現代のビジネス社会ということでしょうか。
欧米、特にアメリカでは今も軍事・軍略の書として研究され、中国では毛沢東のゲリラ戦に応用され、現代でも中国共産党において兵法書の古典として学ばれていると聞きます。
「兵は詭道なり」(戦争とは敵を騙すことである)をモットーとする孫子…油断ならない大国・中国を隣人に持つ日本はその防衛戦略に今も『孫子の兵法』は欠かすことができないでしょう。
『孫子の兵法』と武田信玄
戦国武将・武田信玄の軍旗「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」は、『孫子の兵法』に出てくる言葉を使ったことで有名ですがこの言葉は上記したように、『孫子の兵法』軍争(ぐんそう)篇に出てくる言葉です。
「軍争」とは、「敵に先んじて戦場に着き、有利な態勢で軍事行動を行うことを競う」行為を意味します。
「ゆえに兵は詐(さ)をもって立ち、利をもって動き、分合をもって変をなすものなり。ゆえにその疾(はや)きことは風のごとく、その徐(しずか)なることは林のごとく、侵掠(しんりゃく)することは火のごとく、(略)、動かざることは山のごとく、(以下略)」
(戦争とは敵を欺くことを基本とし、利益にだけ従って行動し、分散集合によって臨機応変の処置をする。だから風のようにすばやく進み、林のように静かに待機し、火が燃えるように敵を侵略し、山のように落ち着き~)と後ろに続けて、軍の動かし方を述べているところです。
この言葉を旗印とした武田信玄は、孫子の兵法に従って軍を動かしたのかといえば、信玄の軍学書『甲陽軍鑑』(こうよう ぐんかん)に「唐(から)より日本へわたりたる軍書を見聞きたるばかりにては、~(略)~よき軍法を定ること、なし難くおぼえたり」という信玄の言葉が記されていて、そのままでは適用できなかった様子がうかがわれます。
また「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の通称である「風林火山」については、こう呼ばれる軍旗は存在せず、後世作られた名称ではないかといわれています。
『孫子の兵法』とビジネス
日本では『孫子の兵法』に書かれた戦略がビジネスに役立つと人気です。
たとえばどんなところがビジネスに使えると言われているのか、参考にいくつか挙げてみましょう。
(1)戦いを始める前の入念な計画
(2)1に情報、2に情報、3、4がなくて5に情報
(3)百戦百勝はベストではない
まず(1)の「戦いを始める前の入念な計画」について、『孫子の兵法』(計篇)では「戦争は国家の一大事、死活が決まり、国家存亡の分かれ道なのでよくよく考えるべきである」と書き、その後5の「事柄」、7つの「目算」によって敵と味方の実情を冷徹に見極めるべしと言っています。
感情や願望に支配されてはならないのです。
7つの「目算」のところでは、敵味方を対比して、君主はどちらの方が人心を得ているか、将軍はどちらの方が有能か、自然界や土地はどちらの方が有利か、法規はどちらの方が守られているか、軍隊はどちらの方が強いか、兵士はどちらの方が訓練されているか、賞罰はどちらの方が公正か…と書かれていて、「これらを検討すれば戦争をする前に勝敗はわかる」とあるのです。
ビジネスを展開する前にこれらの言葉は役に立つのではないでしょうか。
(2)『孫子の兵法』といえば「1に情報、2に情報、3、4がなくて5に情報」と言いたいほど孫子は情報にこだわっています。
「用間篇」に「スパイこそ戦争のかなめであり、軍全体がこれに頼って行動する」とあります。
現代日本でスパイというと何とも胡散臭いイメージがあるのでピンとこないのですが、「戦いに勝つにはまず情報戦で勝つことだ」と言い換えれば現代でも常識的な話です。
(3)の「百戦百勝はベストではない」について、この言葉は『孫子の兵法』謀攻篇にあります。
戦争は国家を疲弊させます。戦いは戦いのために存在するのではなく、国家にメリットがあるからこそやる、なければ何の価値もありません。ここぞという時だけ勝てばいいのです。
ビジネスも百戦百勝をねらう前に、そこにどんなメリットがあるのか、デメリットはないのかなど、孫子のように考えてみる価値はあるでしょう。
以上書いたことのほかにも、たとえば「正攻法にこだわらない」とか「臨機応変・融通無碍であれ」、「勢いの流れに沿う」、「トップの姿勢」など、『孫子の兵法』は確かにビジネスに役立ちそうな言葉や考え方がたくさん入っています。