張儀~連衡策により6国の同盟を切り崩した名宰相~

張儀

張儀は、古代中国・戦国時代に弁論の力で諸国に自分のアイディアを売り込んだ縦横家の代表的人物です。彼の考えは、戦国の七雄が覇を争う中、抜きんでた力を持つが他の六か国と個別に同盟を結ぶ「連衡策」で、こうして六か国が同盟を結んで秦に当たる「合従策」を打ち破るというものでした。

張儀とは

の七雄が覇を競う中、西の秦が力をつけ、他の六国の恐怖をかき立てるようになった戦国時代、弁論の力で諸国に自分の政策を売り込む「縦横家」の一人・蘇秦は六国に同盟を組んで秦に対抗する合従策を勧めてこれに成功。同じく縦横家で秦の宰相・張儀は各国と個別に同盟を組んで対秦同盟を破る連衡策を考えました。張儀はまず楚に対して土地を餌に斉との同盟破棄を持ちかけ、これに成功。更に斉と秦の同盟にも成功し、六国対秦同盟は破綻、秦は一層強大になっていきます。

戦国時代中期の地図
戦国時代中期の地図。秦は地図左に位置しています。
合従連衡

張儀は魏の人でしたが、最初、楚に遊説に行って楚の大臣に侮辱され、その後秦に行き宰相に取り立てられて楚をさんざんな目に遭わせ、個人的な復讐も遂げました。

年表
年表。張儀は戦国時代に秦の宰相として活躍しました。

戦国時代と合従連衡策

西周が滅んで、周は東に都を移して東周となり、数多くの諸侯国家が各地に割拠する春秋時代になります。

やがて下克上の戦国時代に入るとの七雄が覇を競って相争い、中でも中原(ちゅうげん…黄河中・下流域)から蛮地の扱いを受けていた西方の秦がメキメキと力をつけて他の6国の恐怖をあおります。どの国も自国を強大にして侵略から身を守る富国強兵の策を求めていました。

こうした中、諸国を巡って弁論の力で自分のアイディアを売り込もうとする人々が現れます。その代表が蘇秦であり、もう一人が張儀です。こういう人々を「縦横家」(じゅうおうか・しょうおうか)と呼びます。「縦横家」という名称は「合従連衡」から来ています。ただし縦横家は何らかの思想を指すものではなく、いわば雄弁家グループを指す名称です。

蘇秦の説は秦以外の6国が連合して秦に対抗しようというもので、これを「合従」(がっしょう)といいます。従は縦を意味し、この6国が縦(南北)に並んでいるところからこう呼ばれました。

これに対して秦の宰相・張儀が唱えたのは、秦と他の6国がそれぞれ個別に同盟を結ぶというもので、これを「連衡」といいます。

張儀のもくろみは個別に同盟を結んで最終的に秦に服従させるというものでした。

張儀の人生

張儀は魏の国の出身で、魏の貴族の末裔だといわれています。

蘇秦と共に鬼谷(きこく…伝記については不明。縦横家の祖)に学びました。

その後諸国を遊説して歩きますが、楚の国に行って楚の大臣と酒を飲んでいた時、大臣が璧という宝物をなくしたことに気づきます。大臣は張儀を疑い、鞭で数百回彼を打たせました。

張儀は家に戻ると妻に「舌を見てくれ。まだオレの舌はあるか?」と聞きました。妻が笑って「ある」と言うと「オレに舌先三寸さえあれば何も心配はない」と言ったといいます。

蘇秦の仕打ちと友情

この頃同じ鬼谷門下の蘇秦は、趙王を説得して秦への合従を約束させました。

ある日蘇秦は、張儀を呼んで張儀を侮辱し、張儀はそれに腹を立てて秦に向かいました。

自分の弁論の力で秦王に趙を攻めさせ、蘇秦を苦しめてやろうと思ったのです。

一方張儀を侮辱した蘇秦は、その胸のうちを家来にこう伝えました。「張儀はタダモノではない。あいつは秦の権力さえ操ることができる。あのように侮辱すれば、今貧乏な張儀も発奮するだろう」と。そして張儀にそれとなく資金を渡すよう家来に命じました。

この金で秦王に会うことのできた張儀はやがて蘇秦が自分を密かに助けてくれたことを知り、「蘇秦という男はさすがだ。私は彼にはとても及ばない」と深く感謝したということです。

秦の宰相に

やがて張儀は秦の宰相にまで出世しました。

秦の宰相になった張儀は楚の宰相に「かつて一緒に酒を飲んだことがあったが、その時あなたは私を泥棒扱いして鞭打った。今度はあなたの国を盗んでやろう。しっかり守るがいい」と挑戦状を送りつけました。

秦の恵文王の時、秦は斉を征伐しようとしますが、斉は楚と合従を組んでいたので、この連合を引き裂くため張儀は楚に行きました。

楚の懐王に、斉との同盟を破棄するなら秦の土地600里を献上しようと説得したのです。

懐王はこの説得を受け入れ、斉との同盟を破棄しました。

こうして張儀の弁舌によって合従の一つが破れました。

張儀は秦に帰国した後、秦の朝廷に姿を見せようとしなかったので、楚の懐王は斉に対する楚の態度が不十分だったのかと家臣を使って斉王を罵らせました。

斉王は楚の態度に激怒し、秦との関係を改善させ、斉・秦の国交が回復しました。

こうしてもう一つの合従が破れました。

秦・斉の国交が回復し楚が孤立すると、張儀は朝廷に現れ、楚の使者に「私には6里の封地があるのでこれを楚の懐王に献上しましょう」と言いました。

600里の約束がわずかその1%になってしまったのです。これに楚の懐王は腹を立て秦に出兵しますが大敗北。

秦は懐王に手紙を送り「秦・楚の国境で秦側にある武関(ぶかん)で王と会見し盟約を結びたい」と呼びかけましたが、これを受け取った懐王はどうしたものか悩みましたが、結局武関に出向きました。

これは秦側のワナで、これに引っかかった懐王は武関で捕まり、脱出を試みて失敗、病気になって秦の地で死んでしまいました。

その後楚は秦との国交を断絶するのですが、このことがゆくゆくは楚の滅亡につながりました。

当時の秦にとっての外交上の難問は、楚に秦との連衡を結ばせることでしたが、張儀はみごとこれをやってのけたのでした。

同時に張儀は芽が出なかった時期の楚への恨みもこうして晴らしました。

彼は舌先三寸で超大国・秦の宰相になっただけでなく、秦による中国統一の道筋を作ったのでした。

蘇秦と張儀の年代

司馬遷の『史記』では上記のように、縦横家の蘇秦と張儀は同時代の人として書かれていますが、実はこの説には疑問符がついています。

1973年に湖南省長沙の馬王堆漢墓(まおうたい かんぼ)が発掘されました。紀元前の墓でありながら、筋肉にまだ弾力があったという貴婦人のミイラが発見された墓です。

この墓からは『史記』以前に書かれた縦横家に関する古い書物も発見され、それによると蘇秦は張儀より後の時代に活躍したとなっていました。

『史記』の記述については、始皇帝による「焚書」が影響しているかもしれません。

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