徐福伝説~不老不死の仙薬を探しに東の神山へと旅立った方士~

徐福

徐福(じょふく)は始皇帝が全国巡幸で斉に立ち寄った際、山東の琅琊で出会ったの方士で、3千人の童男童女を連れて蓬莱山に行って不老不死の薬を探してくると始皇帝に申し出ました。

※上の写真は徐福が出航したと考えられている河北省秦皇島市の沿岸部。

徐福とは

徐福とは斉の方士で、B.C.219に始皇帝が行幸の際、山東の琅琊(ろうや)という神仙術のメッカで出会います。徐福は始皇帝に上書して、東海の神山にある不老不死の仙薬を取りに自分を派遣してもらいたい、その際3千人の童男童女を連れていきたいと願い出ます。

方士とは道士ともいい、方術によって不老不死などを実現しようとした修行者のことです。

大帝国を築き強大な権力を手にした始皇帝に、残る願いは不老不死でした。徐福の言葉は始皇帝にとって渡りに船で、さっそく童男童女3千人と技術者100人、巨額の金銭を徐福に預け、始皇帝は彼を見送ります。ところがその後、徐福が吉報を持って始皇帝の元に戻ることはありませんでした。徐福ばかりでなく、仙薬を作ると豪語した他の方士たちも、言ったことを実現させずにこっそり逃げていく始末。こうした方士たちへの失望は、始皇帝が後に焚書坑儒を引き起こす一つのきっかけとなりました。

始皇帝の天下巡遊

始皇帝は中国を統一すると天下巡遊の旅に出ました。

統一の翌年BC.220には今の甘粛省のあたりを巡幸しますが、BC.219の2回目以降は中国大陸の東や南を巡りました。

この2回目の巡幸の際、始皇帝はまず鄒(すう…山東にある国の名前)に行って嶧山(えきざん…約600メートル)に登り、石を建ててそこに秦の徳を称える言葉を刻みました。

泰山
泰山。

その後泰山(たいざん…道教の聖地。約1500メートル)に登り、土を高く盛って祀りました。山を下ると雨が降ってきたので、松の木の下で休みました。始皇帝は雨宿りができたことに恩義を感じたのでしょうか、この松の木に五大夫という高い位を与えました。今も五大夫といえば松の木を指しますが、これはこの故事に由来します。

次に泰山の下にある梁父山(りょうほざん…288メートル)に登り、地を祀って石碑を建てました。

更に渤海に沿って東に行き、之罘山(しふさん…約300メートル)という海中にあった山に登り、ここに秦の頌徳碑を立てました。

その後、南の琅琊山(ろうやさん…321メートル)に登り、おおいに楽しみ、逗留すること3か月、人民を3万戸を琅琊山の麓に移し、それから12年税を免じることにしました。ここでも秦を称える石碑を立てました。

旅の途中で3か月も逗留したとは、よほどこの土地が気に入ったのでしょう。今も琅琊山は絶景の地として有名です。

徐福登場

この琅琊で秦の頌徳碑を立てたところで「徐福」という人物が登場します。徐福は斉という国の方士ですが、天下統一を果たした秦の皇帝にお目見えするのですから、斉における方士の代表的な人物だったのでしょう。徐福は皇帝への上書を差し出し、その中でこう言うのです。

「海中には三つの神山があり、それぞれを蓬莱(ほうらい)山、方丈山、瀛洲(えいしゅう)山と申します。ここには仙人が住んでいるということですので、身を清め、童男童女を連れて仙人や不老不死の仙薬を探しに行きたいと存じます」

中国東部の渤海湾沿岸にあった斉の方士たちの間では、東海には3つの神山があり、仙人たちが雲に乗り霧を操って山から山を移動し、そこに咲く花は食べれば不老不死となる実を結ぶと信じられていました。

中国大陸という広大無辺の地と人民をわが物とし、自分の命令一つでこれを操れる始皇帝は、天の星の配置と同じように宮殿を建て、地と同様、天もまた我が支配下にあるはずだと思っていました。神のごとき自分がなぜ他の人間どもと同様に時が来れば死ななければならないのか、自分には不老不死の特権を与えられて当然である…と思っていたのかもしれません。きわめてクレバーな頭脳を持っていた始皇帝ですが、国内巡遊で各地に天への祈りを捧げている始皇帝や当時の人々にとって、天と人との境目は現代人とは異なるのかもしれません。

始皇帝は徐福の話に簡単に乗り、3千人といわれる多くの若者を付け、巨額の金を徐福にぽんと渡して、蓬莱山探索の旅に行かせます。目的は不老不死の仙薬です。

ところが待てど暮らせど徐福からの報告はありません。それどころか徐福はその金を自分の懐に入れているというトンデモナイ話だけが聞こえてくるのです。

やがて徐福は、海上の仙薬を探し始めて数年しても得られず、始皇帝から大金をもらっているのも恐ろしく、ある日始皇帝にこう嘘を次げました。「蓬莱には仙薬はあるのですが、いつも大きなサメに邪魔をされて島に上陸できないのです。優れた弓の射手がいたらお送りください」

そこで始皇帝は海に行く者に大きな魚を捕らえる道具を持たせ、大きな魚が出たら自ら連発できる強弓で射てやろうと、琅琊から労山・成山まで行って待ち構えていましたが、とうとう現れませんでした。

こうして徐福の話は実らないまま終わりました。徐福だけではありません、他の方士たちも始皇帝の前では仙薬を作る作るといいながら、こっそり逃げ出す始末です。

こうしたことが方士だけでなく、他の儒者への不信にもつながり、後の焚書坑儒という事件の原因となりました。

徐福ペテン師説

以上の話は『史記』始皇本紀に書かれていることですが、『史記』淮南衡山列伝という前漢の諸侯の王について書かれた場所の中にも徐福についての記述があります。それによると、始皇帝は徐福を東海にやって仙人や不老不死の薬を探させましたが、徐福は帰ってくると始皇帝にこう報告したというのです。

「今回の旅で私は海の大神に会いました。その海神が『お前は西の皇帝の使いか』と聞くので『そうです。私は秦の始皇帝のために延年長寿の薬を探しております』と答えました。すると『その秦王とやらの土産が手厚くないので、仙薬を見せてはやるが持ち帰ってはならぬ』と言い、私奴を連れて蓬莱山に行き、霊芝という霊験あらたかな植物が生えている宮殿を見せてくれました。そこには銅色で龍の形をした使者がいて、光が天を照らしていました。私が拝礼して『どのような贈り物を差し上げたらよろしいのでしょうか』と聞くと、海神は『良家の男子と女子、それと百工を差し出すように』と言いました」と言うのです。百工とは技術者のことです。

この徐福の言葉に始皇帝は大喜びして、さっそく良家の男女3千人と五穀の種と百工を徐福に授けました。

実は徐福が始皇帝に言ったことは嘘八百のでたらめで、彼はその後どこかに行って平原や沢、つまり広い土地を手に入れ、そこを領土として王となり、二度と始皇帝の前には姿を見せることはありませんでした。

これが『史記』の別の場所に書かれている徐福の話です。つまり徐福はペテン師だったというわけです。

方士たちは不老不死の薬などないことを百も承知だったのかもしれません。或いは最初は信じていても、簡単に手に入るものではないことに気づいて、命が危ないと恐怖のあまり逃げ出したのかもしれません。

いずれにせよ、不老不死の薬が喉から手が出るほど欲しかった、そして自分の権力をもってすれば必ず手に入ると信じていたらしい始皇帝は、金だけむしり取られて、何も得ることはできませんでした。

上記のように『史記』の中では内容が多少違っているのです。

司馬遷が『史記』執筆を念頭に中国の各地を歩いたのは、始皇帝の時代より百年以上後のことです。徐福の話は伝説としてあちこちに残っていたのでしょう。司馬遷はそれらの伝説を聞いたままに書き残しているのかもしれません。

そしてこの伝説は、秦に滅ぼされた大国・の反秦感情の中で形作られたという説もあります。確かにこの伝説で描かれる始皇帝は、いいように操られて金だけをむしり取られる欲ボケ爺さんのようです(始皇帝は満49歳で亡くなりましたので、爺さんの域には達していませんが)。

徐福伝説と日本

徐福の話は中国ではなぜか日本と結びつくのです。東の海上に浮かぶ島国といえば日本しかないからでしょうか。ですから蓬莱といえば、中国では時に日本のことを意味します。

また不思議なことに日本にも徐福伝説が各地に伝わっています。

福岡の八女・佐賀・宮崎・鹿児島など九州から山口・広島・京都の伊根・熊野など。和歌山新宮には徐福の墓と伝わるものがあり、徐福公園ができています。さらには愛知の名古屋・東京の青ヶ島・秋田の男鹿・青森の中泊など、徐福伝説は日本列島各地の海沿いにあります。

なぜこんなに多くの伝説が残っているのでしょう…始皇帝の時代、日本は弥生時代ですが、おそらく大陸からは多くの渡来人がやってきたことでしょう。こうした記憶と6世紀の日本に伝わった『史記』の記録が混じり合って、日本各地で徐福伝説は生まれたのでしょうか?