春秋戦国時代~諸国分立の時代~【勢力図・地図・年表】

春秋戦国時代

春秋戦国時代とは西周王朝が滅亡したBC.770から、始皇帝が中国を統一したBC.221までの、諸国分立の時代をいいます。この時代はまたBC.475頃を境に、春秋時代戦国時代に分けて呼ぶこともあります。戦乱の時代でもありましたが、諸子百家というさまざまな思想が豪華絢爛に花咲いた時代でもありました。

春秋戦国時代とは

春秋戦国時代とは、中国の古代王朝であるがBC.770に滅んで(西の鎬京に都があったことにちなんで西周ともいいます)、その時の王である幽王の子・平王が都を東の洛邑(現 洛陽)に移してから(これを東周と呼びます)BC.221に始皇帝が中国を統一するまでの約550年を言います。春秋時代戦国時代を分け、春秋時代を紀元前5世紀まで、それ以降を戦国時代と呼ぶこともあります。

周王朝の地図
周王朝の地図。鎬京から洛邑へと遷都した時点から春秋時代が始まります。

春秋戦国時代とは、周王朝が諸侯の助けを得て都を東に移し、かろうじて保ったその権威がだんだんと失われていき、地方の群雄が割拠し勢力争いをしていく時代です。

一方文化的には百家争鳴の時代を迎え、古代中国のあらゆる思想が勢ぞろいする時代でもありました。孔子もこの時代に生まれています。

年表
年表。

春秋戦国時代の地図

周王朝の地図
周王朝の地図。春秋時代が始まる直前です。
春秋時代の地図
春秋時代の地図。諸侯が乱立し群雄割拠の時代を迎えます。
戦国時代初期の地図
戦国時代初期の地図。
戦国時代中期の地図
戦国時代中期の地図。
戦国時代末期の地図
戦国時代末期の地図。
秦朝の地図
秦朝の地図。秦が統一したことにより戦国時代は終わりを迎えました。

なぜ春秋時代・戦国時代と呼ぶのか

「春秋時代」という名称は、孔子が編集したといわれる魯(ろ)の国の年代記『春秋』に由来しています。『春秋』は魯の隠公元年(BC.722)に始まり、魯の哀公14年(BC.481)で終わっており、このBC.481までを春秋時代とする考え方もありますが、この年は特に時代を分けるような大きな出来事は起きていません。

そこで当時の大国・晋が分裂しての3国となり、それが諸侯として認められたBC.403や司馬遷の『史記』の六国年表が始まるBC.476までを春秋時代とするなどさまざまな説があります。

中国政府による第9次5か年計画プロジェクト「夏商周断代工程」による結論では、BC.770~BC.476を「春秋時代」、 BC.475~BC.221を戦国時代としています。

一方「戦国時代」という名称は前漢の劉向の編による『戦国策』という書名に由来しています。この書物は、戦国時代の遊説(ゆうぜい…自分の主張で政治を動かそうと諸国を巡り歩くこと)の士の主張や献策などをまとめたものです。

春秋時代の周王室と鄭

春秋時代の主要国は、・晋・・宋・衛・陳・蔡・曹・鄭・の13国。この中で最初に頭角を現したのは鄭でした。

鄭の桓公を継いだ武公は東周王室の復興に尽力しますが、その次の荘公の時に勢力が増し、周王室の穀物を奪ったりして東周・桓王の怒りを買います。桓王はこれが原因で鄭・荘公に会っても礼ある態度をとりませんでした。そこで鄭・荘公は東周・桓王への当てつけに鄭の土地の一部と魯の土地の一部を勝手に交換してしまいます。これは周王室に仕える諸侯の態度としては王権への挑戦でした。

その後東周・桓王は自分もまた鄭と同様勝手に土地を諸侯と交換し、周王室の権威の基盤である宗教的権威を自ら無視して諸国の信頼を失ってしまいます。

鄭・荘公はその後東周の王室に出向くのをやめ、桓王はこれに怒って自ら鄭征伐に向かいますが逆に敗北し、東周はさらにその権威を失うことになりました。BC.707、西周が滅んで70年後のことです。

「春秋時代」と呼ばれるこの時代には、権力を増しつつあった諸侯たちもそれなりに東周王室を尊重していましたが、時代が下るとともにそれは名ばかりになっていきました。

春秋時代の地図
春秋時代の地図。諸侯が乱立し群雄割拠の時代を迎えます。

春秋時代の主なできごと

鄭はその後北方の異民族を撃退して黄河流域の中心国家になるように見えましたが、内紛が起きて国力は衰えました。鄭は中原(ちゅうげん…黄河中下流域を指すと同時に、中華文明の中心をも意味する)にあった国ですが、この頃、西方にあった秦や北方にあった晋、東方の斉、南方の楚が力をつけてきました。

斉の勃興

斉は西周建国時の功労者・太公望(呂尚)が封じられてできた国です。現在の山東省にありました。この地からは近年巨大な城址が発掘され、鉄器鋳造の工房や貨幣鋳造所、計画的に作られた道路なども出土、斉の往年の繁栄を物語っています。

斉は太公望の後いったん歴史から消え、14代襄公のころから再び歴史に登場します。襄公の次の桓公は当時の諸国と会盟(かいめい…覇者が諸侯を集めて盟約を結ぶこと。覇者とは春秋時代、諸侯の信頼を得て一目置かれるようになった君主のこと。諸侯たちのリーダー)を結び、その際「信義を重んじること」をモットーにしました。現代の国連のようなものが紀元前からあったわけです。

斉の桓公は異民族に滅ぼされた衛を助け、魯の内乱もおさめ、周王のやるべきことを代わってやり遂げて中原の秩序を維持することに努めました。こうしたことができる存在を上記のように「覇者」と呼びます。

楚の北上と「宋襄の仁」

楚は荊(けい)とも呼ばれますが、古い時代から江淮(こうわい…長江下流と淮河下流の間にある平野)に勢力を持っていました。春秋時代になると中国大陸の北方諸国の領地に侵入するようになりました。BC.638に楚は宋と戦いこれを破るのですが、この時の戦いでは後に「宋襄の仁(そうじょう の じん)」という成語が作られる出来事が起きています。

当時宋の襄公は覇者すなわち諸侯のトップを目指していたのですが、この戦いの時、楚の大軍が川を渡ってくるのを目にした家臣が「奴らが川を渡り切らないうちに攻めましょう」と進言すると、「敵のスキをついて攻めるのは君子の戦い方ではない」と言ってそれを止め、結果敗れてしまいました。後にこれが「宋襄の仁」という成語となり、「無用の哀れみ」の意味で今も使われています。

当時南の楚は中原の人々からは蛮族扱いをされていましたが、この頃から中原の国々と対等の立場で付き合うようになりました。

晋の文公(重耳)

晋は西周の成王が弟を今の山西省太原の近くに封じてできた国です。後に後継ぎをめぐってお家騒動が起き、晋の公子・重耳(ちょうじ)は命の危険を感じて他国に亡命しました。その後重耳は秦の助けを得て晋の懐公の命を奪い、自分が晋の君主・文公となります。

彼は善政を施し晋を発展させました。BC.636東周の王室に内乱が起き、北の異民族がそれに乗じて介入してきたところを文公が鎮圧し、周の王室からその褒美に土地を貰いました。晋はこの土地を得たことで中原や東方、南方とつながる交通の便を獲得し、その後の戦いを有利なものにしました。

この頃南の楚が北方への進出を狙っていましたが、文公の晋は斉、宋、秦とともに楚を打ち破り、文公は周王室から覇者として認められました。

晋は文公亡きあとも覇者としての地位を保ちますが、勢いは衰え始め、やがて南の楚の勢いに押されていきました。

勢いを増す楚と「鼎の軽重を問う」

楚は荘王(そうおう)の時に内乱や飢饉、他国の侵略をはねのけて国力を高め、異民族を討った後、東周王室の国境で観兵式を行います。これに対して周王室では使者を送り荘王をねぎらいますが、その時こんな話が記録されています。

…楚の荘王が東周王に、王朝のシンボルである鼎(かなえ)の重さや大きさを尋ねました。荘王は王権の権威である鼎を周から楚に移そう、つまり王権を奪おうとして、弱体化した周王朝に対し、鼎をくれるなら軍を退けてもよいと示唆したのです。

すると周王朝側の使者が「王朝の徳が盛んであるなら鼎は小さくても重いものです。徳を失うとたとえ鼎は大きくても軽くなってしまいます。天は徳を持つ国に幸いを与え、鼎もそこにとどまります」と答えました。

よく高校の漢文の教科書に載っている話です。この話は「鼎の軽重(けいちょう)を問う」という成語となって、「トップの力量を試す」、「トップの地位を奪おうとする」などの意味として今も使われています。

覇者となった楚の荘王

BC.597楚の荘王は、鄭を助けようとした晋軍と戦ってこれを打ち破り、その後も魯と組んで宋を破ります。この後中原の諸侯は皆かつての南の蛮族・楚に従うようになりました。覇者となった荘王は、もはやかつての覇者のように会盟を行って周王室を守り中原の秩序を保とうとはしませんでした。東周の王室はすでに権力も権威も失っていたからだとも考えられていますが、南の楚にはもともと中原意識が乏しかったからとの説もあります。ここからは、古代中国の黄河流域と長江流域間の文化的な違いも伺えます。

呉越の戦い

やがて中国大陸では北の晋と南の楚を中心とする抗争が繰り広げられるのですが、紀元前6世紀半ばくらいになると江南の呉と越が勢力を伸ばしてきます。

呉は(西)周の文王の伯父たちが興した国という伝説がありますが、第19代君主の世になって急に勢力を伸ばし始め、晋と手を組んで楚に攻め込んできました。

BC.506呉は楚を破り楚の都を占領しました。

この時呉の伍子胥(ごししょ…呉の政治家・軍人)はかつて楚によって父と兄の命を奪われ、自分もまた亡命を余儀なくされたことの恨みを晴らそうと、楚の平王の墓をあばいて墓の中の骸(むくろ)を300回鞭打ったといいます。

呉が楚に攻め込んでいる時、越(えつ)が呉に攻め込んできました。越は呉と同じ、かつては南の蛮族と目された民族で、呉人同様体に入れ墨を入れ、髪を結わずに断髪にしていました。

この時の越王が死ぬと子の勾践(こうせん)が後を継ぎました。この代替わりの隙を狙って呉が越に攻め込みます。勾践は呉軍を打ち破り、呉王が負傷してその後死んでしまうのですが、その際呉王は子の夫差(ふさ)に必ず復讐せよと言い残します。

その後夫差は薪の上に寝て、体の痛みを感じるたびに越への復讐を誓いました。成語「臥薪嘗胆」(がしん しょうたん…薪の上に寝、苦い肝をなめて復讐の思いを新たにすること)の前半の故事です。

その後呉の夫差は越を攻め、これを打ち破って越の都を攻略します。越の勾践は会稽山(かいけいざん…浙江省紹興にある名山)で呉に包囲され和睦を求めます。呉の伍子胥はこれを拒否するよう進言しましたが、呉の宰相・伯嚭(はくひ)が越側から賄賂を貰っており、呉王・夫差をそそのかして呉は越王・勾践と和睦してしまいます。夫差は越に勝った後贅沢な暮らしをしたり、越から献上された美女・西施に溺れるようになりましたが、その後も魯や斉を打ち破り、やがて諸侯の中での盟主の地位につきました。

夫差に敗北した越王・勾践は肝をなめてはその苦さに会稽山の屈辱を思い出し、復讐のチャンスを待っていました。「臥薪嘗胆」の後半の故事です。

やがて国力を充実させ、毎年のように呉に攻め込み、BC.473には夫差を自決に追い込みました。こうして呉を滅ぼした越は呉に代わって中原に進出していくのですが、勾践が亡くなると越は力を失ってしまいます。

この呉越のドラマチックな物語は後に昆劇『浣紗記』などに書かれ、中国四大美女の一人・西施の哀しいストーリーとも相まってよく知られています。

春秋時代の社会…権力の移動

西周滅亡以降、中国社会の階層としては、(東)周王を最高権力者とし、その下に諸侯・卿大夫(けいだいふ)・士・庶人(しょじん)がいたと言われています。このうち諸侯・卿大夫は自分の領地を持つ支配階級でした。諸侯の国の中の小領主が大夫で、大夫の中で大臣になる者が卿です。

では士とは何かというとあまりはっきりとはせず、大夫の中の下層のもの、あるいはさらに没落して農村で地主や自作農になったもの、あるいは農民たちの長などのことではないかと言われています。つまり諸侯・卿大夫など支配層・貴族階級と農民など非支配層・庶民の間にいる中間管理職のようなものです。

春秋時代では、周王室が力を失って各地の諸侯が力を持つようになりますが、やがてその諸侯の下で働く大夫たちが政治の実権を握るようになります。力を持った大夫たちの領地が増えて実務に手が回らなくなると、さらにその下の階層である士が政治の表舞台に登場し始めます。

こうして由緒ある諸侯から大夫という貴族に、さらにその下の士へと、身分ではなく、より実力のある者が活躍する時代・戦国時代に入っていきます。

戦国時代

時代が戦国に入ると、日本の戦国時代同様、各国が勢力範囲を広げようと諸国どうしで戦いを繰り広げていきます。

司馬遷は『史記』の中で「六国表」というBC.475から始まる年表を作っています。

当時黄河中下流域にある中原には6つの国があったので「六国」としているのですが、ここには西の秦の年表も入っているので実際は7つの国・「七国」の年表です。

当時の中国大陸ではこの7つの国が覇権を争って戦い、やがてその中の秦によってBC.221に統一されるのですが、それまでを戦国時代と言います。この戦国時代が始まった年代については上記したように諸説あります。

春秋時代の(東)周は力は失ったものの、かつての周王朝としての権威はかろうじて保たれ、諸国からそれなりに重んじられていましたが、戦国時代に入るとこの権威も失い、弱小諸国よりも更に力のない国となってBC.249に秦に滅ぼされました。

春秋時代の諸侯国は血族意識が濃厚で、各国とも先祖を祭る祭祀が重んじられていました。当時の人々は、もし国が滅ぼされると祭祀を維持できなくなり、祭られることがなくなって浮遊する先祖の霊は、自分たちを滅ぼした国に祟るということを信じていました。

春秋時代はこの怖れが他国侵略の歯止めになっていたといいます。やがてこうした宗教意識が希薄になるにつれ、他国を滅ぼしてその土地を自分たちのものにすることへの怖れが消えていきました。

春秋時代に200以上あった国家は、こうして戦国時代に入ると弱肉強食が進み、7つの強国に統合されていったのです。

戦国の七雄

戦国の七雄とは、です。

魏・趙・韓

春秋最大の強国は晋でした。晋は中国大陸北方の雄として、南方の雄・楚と対立していました。晋の実権を握っていたのが魏・趙・韓という姓の大臣たちです。彼らはBC.453に、晋国で権力を振るっていた知氏を破り、それから半世紀後のBC.403に東周王によって、それぞれが独立した諸侯であることが認められました。こうしてかつての晋は下克上によって3つの国に分かれたのです。この3つの国を「三晋」とも言います。

斉は西周のはじめに、文王を助けた太公望・呂尚が今の山東省に封じられてできた国です。その後、この斉に亡命した田氏が斉を乗っ取りBC.386に斉の威王を名乗りました。この新しい斉を「田斉(でんせい)」とも言います。

楚・秦・燕

上記4か国は古い国の上に興った新興国家ですが、7強国家としては他に、春秋の雄・楚と西で力を蓄えてきた秦、そして中原からややはずれた、今の北京あたりに孤立して位置した燕があります。

戦国時代の各国の政治改革

三晋(魏・趙・韓)と田斉(斉)は、それぞれ臣下の身でありながら王位を簒奪した後ろめたさから、庶民の人気を得るべく新しい政策を行ったといわれます。

改革のトップバッターは三晋の一つ・魏で、李悝(り・かい)という学者を大臣にして法律を整えました。

李悝は孔子の弟子である子夏のそのまた弟子、つまり孫弟子で、『法経』という法律に関する書物を著し法体系を整えました。

春秋時代までの法律は文章化されていない慣習法でしたが、李悝は成文法を初めて制定し、これが元となって秦や漢の法律ができ、やがて隋や唐の律令となりました。つまり中国の法律の起源です。これはまた後の日本にも伝わりました。

李悝は人々に農地を開拓させたり物価安定の政策を採るなどし、こうした一連の政治改革によって魏は戦国時代初期、七雄の中で最も豊かな国になりました。

田斉は魏の新しい法制を採り入れ、同様に政治改革を行いました。特に当時の新興勢力である「士」にメリットのある政策をとりました。魏や田斉のこうした改革は中原の他の国家だけでなく、南方の楚にまで波及していきました。

たとえば楚で行われた土地改革では、農地などの世襲を3代までとしてそれ以上は没収し、かつての世襲貴族ではなく、新興地主に有利な政策を採りました。

七雄のうち政治改革が最も遅れたのが、西に位置した秦です。秦は亡命貴族・商鞅(しょうおう)を用いて新しい法律を作り、土地や農民を国の支配の根本に置いて自作農を増やし生産力を高め、下級兵士の軍功への褒美を厚くしてやる気を起こさせたりしました。こうした政策によって秦は軍事力を高め経済を成長させて国力を増大させていきました。

世襲制から郡県制へ

春秋時代は貴族が世襲によってさまざまな特権を得た時代でしたが、戦国時代になると世襲ではなく能力によって官僚が選ばれるようになりました。

特に新しく生まれた辺境の領土は、世襲ではなく中央から官僚が派遣され、彼らが中央から俸給をもらってそうした地を統治しました。これを「郡県制」と言います。

戦国前期

BC.425に魏の文公が諸侯になって三晋のリーダーになりますが、魏はBC.362に山西省から河南省に都を移して全盛期を迎えます。BC.353に魏は田斉と戦い、ここで斉が勝利して覇権が魏から斉に移ります。

戦国時代初期の地図
戦国時代初期の地図。

戦国中期

BC.341にも斉と魏の戦いがあり、斉は『孫子の兵法』で有名な孫子を軍師としてこの戦いに大勝し覇権を守ります。その後北方の燕を攻めてこれを征服しました。

BC.330の頃になると西の秦が商鞅による制度改革によって国力を高め、やがて東進して中原諸国を脅かすようになります。

こうしてこの時代は、魏を真ん中に西の秦と東の斉が対立する時代となりました。

戦国時代中期の地図
戦国時代中期の地図。

戦国後期

秦が東方に向けて進出してくると、魏など6国は秦の脅威に向けて秦と協調していこうという考えと、6国が連合して秦に対抗しようという考えなどが議論されました。

秦と協調しようという考えを「連衡」(れんこう)、秦に対抗しようという考えを「合従」(がっしょう)といいます。いわゆる「合従連衡」です。

「合従」は秦以外の6国が南北・縦に並んでいるところからこう呼ばれ、「連衡」は秦と他の国がそれぞれ個別に結ぶという意味です。

一方秦の方は近隣の魏を侵略し、遠方の斉(田斉)には和平政策を採りました。これを「遠交近攻策」といいます。

こうしてBC.330以降は外交的に複雑な様相が生まれてきます。

当時はさまざまな思想が主張される諸子百家・百家争鳴の時代です。

この中で弁舌や発想で諸侯を説き伏せて高い地位に就こうとする縦横家(じゅうおうか・しょうおうか)蘇秦(そしん)は合従策を主張、張儀は連衡策を唱えました。

BC.285の頃になると秦は東の斉や南の楚を圧倒するようになりますが、北にあった趙もまた北方遊牧民を征服して国土を拡張し、秦と趙が覇権を争うようになります。BC.261頃から秦と趙の最後の戦争が繰り広げられ、その1年後秦が勝利し、秦の覇権が確立しました。

この戦いは「長平の戦い」と呼ばれ、この時40万の趙軍が降伏しましたが、秦はほぼ全員を生き埋めにし、生きて帰れたのは240人だけでした。後の反乱を恐れ、秦への恐怖を他の国々に浸透させるためだったといわれています。それにしても40万の生き埋めというのは…。最近この時の坑が発見されています。

この後秦に抵抗する国はなく、BC.221に秦は6国を滅ぼし中国を統一しました。

戦国時代末期の地図
戦国時代末期の地図。
秦朝の地図
秦朝の地図。秦が統一したことにより戦国時代は終わりを迎えました。

戦国時代の社会

戦国時代の社会は春秋時代から大きく変化します。

まず商工業が発展しました。各国で産業が興り、生産物が国境を越えて市場で売買されるようになりました。大商人が現れ、都市が発達しました。斉の都では50~60万人が暮らし、音楽・闘鶏・ばくちなどさまざまな娯楽を楽しんでいたといわれます。道路では人と人の肩がぶつかるほどの賑わいでした。こうした古代都市が今中国のあちこちで発掘されています。

都市は都市計画が施され、排水設備もあり、高級住宅地や学者たちが住む地域もありました。

王宮の庭…つまり朝廷では役人が会議をし、市場では市民が政治のあれこれを議論していたといいます。

都市に住む知識人は「君子」と呼ばれ、都市の外に住んでいる農民は「野人」(やじん)と呼ばれました。君子は国から土地を与えられて地主となり、その地の農民から税を取り立てていました。

農民の大多数は自作農でしたが、貧しくて土地を手放す農民もいれば、それを買って大地主になっていく者もいました。土地を失った農民は雇われ農民となり、彼らの生活の不安定さは後の社会不安の原因にもなっていきました。

諸子百家の時代

戦国時代は七雄が対立した時代ですが、これらの国々は閉鎖的ではなく、人々は自由に往来することができ、他国に行ってそこの政治に参画することもできました。

こうしてこの時代の学者や知識人などがあちこちの国に行って自由に議論をする風潮が生まれました。

この時代の思想家を「諸子百家」といいます。「子」は「先生」という意味、「百」は「数が多い」という意味です。

諸子百家には儒家墨家(ぼくか)道家・名家・法家・陰陽家・農家・縦横家・雑家・小説家の10家があります。後に小説家が除かれて、それぞれの思想に属する9つの学派として九流と呼ばれました。

儒家

儒家は春秋末期、魯の国に生まれた孔子によって始められた学派の名で、諸子百家の頂点に立ちます。孔子の後も孟子荀子(じゅんし)など優れた後継者が出て発展し、前漢の武帝の時代に国教に相当する存在となりました。

孔子

孔子とは春秋時代末期の思想家で、儒教の開祖です。名は丘(きゅう)、字は仲尼(ちゅうじ)。「孔子」の「子」は敬称です。仕官を志しますが生涯のほとんどは野にあり、弟子の育成に力を注ぎました。孔子とその弟子との間の問答をまとめたものが『論語』です。孔子の思想は戦国中期の孟子や戦国末期の荀子に継承され、その後二千年以上もの間中国の正統な思想・儒教の開祖として尊敬を受け続けました。

孔子が生きた春秋時代は周王朝が有名無実化し権力は臣下に移って、政治の道も人の間の礼も乱れ、社会は無秩序化していました。こうした時代において孔子は治世者の徳治・仁政を訴えました。権力や刑罰のみに頼った政治ではなく、仁に基づく政治です。ただしこの「仁」はのちの墨家のいう「兼愛」とは異なり、親子など血縁どうしの愛が基本になるものでした。

孟子の革命論

孟子は孔子と同じく魯に生まれ、孔子の孫弟子・子思(しし)の門人から儒教を学んだといわれています。当時は墨家と道家の全盛時代で、儒家の勢力は弱いものでした。彼は初め、当時勢力がきわめて大きかった斉に行き、その後諸国を経て魏(当時の名称は梁)の朝廷に行き、仁義を国家の基礎にするよう梁の恵王に説きました。恵王が亡くなると斉に戻り宣王と問答します。

その中で宣王は孟子に「殷王朝の湯王は夏王・桀を滅ぼして殷を樹立したが、この君主殺しはゆるされるか」と聞きます。この時の斉は田氏が乗っ取った田斉ですから、この問いかけは斉の君主にとっては切実なものだったでしょう。

すると孟子は「仁愛を損なう者は賊であり、道義を損なう者は残である。こういう残賊は天子ではなく単なる人間なのでこれを殺してもゆるされる」と答えます。

これが「革命論…民の世論に応じて天が命(めい)を革(あらた)めるという論」です。孟子は民による革命の権利を初めて打ち出し、後世に大きな影響を与えました。

荀子の性悪説

荀子は戦国後期を代表する思想家で儒家の一人です。趙に生まれ、斉や秦、楚を遍歴して、それらの国で行われた諸子百家の学説など古代思想を総合して、哲学の体系を作り上げました。

荀子の思想で有名なものは「性悪説」です。人間は生まれながらに欲望があり、欲望には限界がないので争いが起こり動乱が起こる。この欲望を制限することで人は集団の中で調和して生きていくことができる。この欲望を制限するものが「礼」であり、国家の統治原理も「礼」であるとしました。

孟子は「性善説」を唱え、人間をあるがままにしておけば社会も国家もうまくいくと考えましたが、荀子は「礼」という人為的な制度によって本性を抑えなくてはならないとしました。

この礼は現代から見ると「法」に近く、荀子の弟子からは韓非子など「法家」の代表が出ており、韓非子は荀子のいう「礼」を「法」に置き換えました。

墨家

墨家は戦国時代に墨子(ぼくし)によって始められた学派です。

墨子は仁を重んじる儒教の影響を受け、弱肉強食的な社会や国家関係を正そうと「兼愛」(けんあい)という博愛主義や非戦論を唱えました。

教祖の命令には絶対服従という一種の宗教団体を組織し、ここから「墨守」(ぼくしゅ…頑固に守ること)という言葉も生まれています。また墨家の唱えた「兼愛」は、孔子の唱えた「仁」から出発はしているもののやや異なり、血縁だろうがなかろうが万人を愛するという無差別の愛です。

侵略される国があると墨家の集団はその国に行き、防壁づくりなどをして助けました。ここから墨家は職人集団ではないかとも言われています。彼らの非戦論は侵略者には抵抗して戦うというというもので、一切の武力を否定するものではありません。そういう意味では、すべてを話し合いでという平和主義とは異なります。

墨家のメンバーが坊主頭に短い上着、粗末なわらじ姿で助っ人に行き、戦いに勝っても感謝を求めず(兼愛の精神の一環として行う行動なので彼らは代価を求めませんでした)去っていく姿が、日本の小説をもとにした映画『墨攻』(2006年上映。中国・日本などの合作映画)に描かれています。

墨家は儒教的な血縁主義や政治における世襲を認めず、戦国の時代に非戦を訴え、防御に徹して弱者を助けるという、古代の思想としては個性が際立っています。

儒家の影響の元に出発し、やがて儒家と対立する戦国時代の二大学派の一つでしたが、戦国時代が終わると衰退し、秦・漢代ではほぼ消滅し、任侠の世界にその痕跡をとどめているといわれます。そういえば弱きを助けて強きをくじくストイックなやくざ者のイメージの高倉健と墨者(ぼくしゃ…墨家集団の人々)たちには何か共通するものを感じます。

墨家が特に戦国中期に大きな勢力を持ったにもかかわらず、次の世になると消滅してしまったのは、彼らが血統と身分の優越を認めず諸侯に受け入れられなかったことが理由の一つです。

中国では近代以降、職人(技術者)集団だったかもしれないといわれる墨家集団が科学的精神を持ち、ものごとを論理的に考える傾向が強かったことを評価するようになりました。

法家

法家とは、法律を基本として社会を統制しようという思想のことです。

魏の李悝(り・かい)に始まり、秦の商鞅(しょうおう)などに継承され、韓非子(かんぴし)によって完成されました。

韓非子は韓の王子でしたが、吃音があったため文章で自分の説を広めようとしました。もとは儒家である荀子の弟子で、儒家と法家を総合させ、さらには老子や荘子の道家、墨家や名家などの論理学もその思想に統合していきました。

戦国末期には諸子の理論が相互矛盾し、何が真理なのか判断に迷うようになっていましたが、その時代に韓非子は以下のように言っています。

「諸子の言っている概念(名)と事実(形)は互いに参照する必要がある。この二つが一致すれば正しい認識が生まれる。これを数多く検証することで真理に近づく」

こうして当時ちまたにあふれていた抽象的な論争や詭弁にうんざりしていた政治家たちに、韓非子は実証主義・帰納的な論理学を打ち出しました。

吃音であったため韓では軽んじられた韓非子は秦に行き、始皇帝にこの論を説きましたが、同じ法家の李斯(り・し)に妨害され命を奪われました。

李斯は秦の宰相になり、韓非子の理論を用いて秦王朝の基礎を作りました。

諸子百家と戦国時代

孔子・孟子の性善説を元にした王道政治では混乱の戦国時代には役に立たず、人間性悪説の立場を取って「礼」つまり「法」によって国家を統一する方向に動かしていったのが荀子です。

それをさらに推し進めた韓非子や李斯により、強力な統一国家・秦が生まれました。

諸子百家のさまざまな思想はこうして時代を前に動かしていく大きな原動力となりました。