臥薪嘗胆がしんしょうたん

意味
臥薪嘗胆とは、リベンジのため、あるいは目的達成のため並々ならぬ苦労を重ねること。
例文
とうとう業界トップになって、この数年の臥薪嘗胆が報われた。
出典
『史記』越王えつおう句践こうせん列伝れつでん
……『史記』とは:中国古代の歴史書。前漢・武帝の時に司馬遷によって書かれた。
……越王句践とは:中国春秋時代の越の王。范蠡はんれいの補佐の元、呉を滅ぼす。

「臥薪嘗胆」の由来

まずは「臥薪嘗胆」の由来となったお話の年表と歴史地図から紹介します。

「臥薪嘗胆」の故事の時代

「臥薪嘗胆」の故事の時代(年表)
臥薪嘗胆」の故事の時代(年表)。中国の春秋時代の出来事です。

「臥薪嘗胆」の故事の場所

「臥薪嘗胆」の故事の場所(歴史地図)
臥薪嘗胆」の故事の場所(歴史地図)。呉と越での話です。

「臥薪嘗胆」の故事

臥薪嘗胆

臥薪嘗胆」の由来となったのは、春秋時代(B.C.770~B.C.403)のえつの話です。呉(浙江省・蘇州のあたり)と越(浙江省・紹興のあたり)といえば中国の南方で隣り合わせた国どうしですが、仲が悪くて有名です。

呉王が、越王が死んだと聞いて越を討ちに出ますが、越王の子に奇襲をかけられ負けてしまいます。自らも負傷した呉王は臨終に際し、その子夫差ふさに「越への恨みを忘れるな」と言い残します。

夫差は毎夜薪の上に寝てその痛みで越への復讐をかきたてます。これが「臥薪がしんまきす」のいわれです。

越王の子・句践こうせんは、夫差が復讐に燃えていると聞き先手を打って呉を討ちに出たのですが、敗れて会稽山にたてこもり、やがて和議を申し入れて呉王・夫差の臣下となり苦難をなめます。このとき夫差の臣下・伍子胥ごししょが和議を入れるべきではない、と諫言かんげんするのですが、別の大臣がわいろをもらってとりなし、句践の命を助けます。やがて句践は夫差に許され帰国するのですが、その後毎日動物の肝をなめその苦さを味わうことで呉への復讐心をかきたてます。これが「嘗胆しょうたん…肝をなめる」のいわれです。

三度目の戦いで今度は呉が越に負けます。かつて句践をゆるしその和議を入れた夫差は、自分も句践に和議を申し入れますが、句践はこれをゆるしません。夫差は「伍子胥に合わせる顔がない」と言って自殺します。

「臥薪嘗胆」と西施

西施

夫差が句践に敗北する裏に句践の臣下・范蠡の活躍があります。范蠡は句践が夫差に敗れた際、夫差を油断、堕落させるため絶世の美女・西施を送り込みます。この話が昆劇『浣紗記』という美しい舞台になっています。

ちなみに西施とは中国四大美女西施せいし王昭君おうしょうくん貂蝉ちょうせん楊貴妃ようきひ)の一人で、紀元前5世紀、浙江省紹興の人。本名は施夷光、施という姓の家族が近くに二家族あり、西施の家は西にあったので西施と呼ばれるようになったと言われます。貧しい薪売りの娘で、川で洗濯をしている時にその美貌を買われ、策謀として呉の夫差に献上されます。

昆劇『浣紗記』によれば、西施は川で范蠡に見初められ、国のために泣く泣く呉に送られるのですが、呉滅亡の後はまた范蠡と仲睦まじい幸せな日を送ったことになっています。

別の説によると呉滅亡後、その美貌を句践夫人に警戒され、呉の人々からも王をたぶらかした妖怪のように思われたことから、西施は袋に入れられ長江に投げ捨てられたと言われます。その後長江ではハマグリがよく取れるようになり、人々は「これは西施の舌だ」と言い合ったそうです。

後者が史実なら、絶世の美女に生まれるのも大変です…

「臥薪嘗胆」の関連語

「臥薪嘗胆」と同じく呉・越に関する故事成語には、「呉越同舟」「牛耳る」「風林火山」「彼を知り己を知れば百戦殆からず」などがあります。

「臥薪嘗胆」の中国語

中国語卧薪尝胆
ピンインwò xīn cháng dǎn
音声
意味忍耐し、刻苦奮闘すること。

日本語と違ってリベンジ的な意味はありません。