遠交近攻
……『史記』とは:前漢武帝の時に司馬遷によって書かれた歴史書。
……范雎とは:生没年不詳。戦国時代に秦に仕えた政治家。秦の昭襄王に遠交近攻策を進言した。
「遠交近攻」の由来
まずは「遠交近攻」の由来となったお話の年表と歴史地図から紹介します。
「遠交近攻」の故事の時代
「遠交近攻」の故事の場所
「遠交近攻」の故事
『史記』の范雎列伝(范雎の伝記)から、「遠交近攻」の由来を紹介しましょう。
范雎は戦国時代の魏の人でした。生没年は明らかになっていません。魏の大夫…つまり当時の貴族である須賈に仕え、斉に同行します。
斉の王は范雎の雄弁の才を伝え聞き、金や牛、酒を彼に贈るのですが、これを聞いた須賈は「范雎の奴め、斉王に魏の機密を漏らしたに違いない。金はその代金だろう」と邪推します。須賈は魏に戻ると魏の宰相・魏斉にこれを告げ口し、范雎はこのために捕らえられ拷問を受けた上に簀巻きにされて便所に投げ込まれてしまうのです。そこで范雎は便所の番人に「あとでお礼はたっぷりするから」と言って買収し脱走に成功します。その後范雎は張禄と名前を変えて友人の鄭安平の元に身を寄せます。鄭安平は秦の使者・王稽がたまたま魏にやってきた時、范雎を推薦し二人して秦に向かいます。
その頃、秦で実権を握っていたのは外戚(秦王の后の親族)である穣侯で、この穣侯は斉への侵攻を考えていました。范雎は昭王に進言の書を書き、王はこれに目をとめ、謁見がゆるされます。謁見の場で范雎はこう進言します。
「穣侯は韓や魏と結んで斉を討とうとしていますが、近隣の国と手を組んで遠国を侵攻しようという政策は間違っています。それよりも遠い趙や楚、斉と交わり、近隣の魏や韓をこそ攻めるべきなのです。
遠い国を攻めればこれを保持するのが難しい上に、近隣の国を肥やし未来の敵を養ってしまいます。これは賊に兵を貸すようなものです」
昭王はこの進言を受け入れ、魏を攻めて領土を奪い取ります。その後王の范雎への信頼は厚く、彼は秦の宰相にのぼりつめていきます。こうして彼の「遠交近攻」策は秦の国是となり、天下統一の基本路線になるのです。
「遠交近攻」のメリット
漢字に注意しましょう。「遠攻近攻」ではなく「遠交近攻」です。
日本語では「攻」も「交」もどちらも「こう」と読むので間違いやすいですが、中国語ではまったく異なる音です。
中国語の本でこの言葉を調べると、この策のメリットに「遠方の国と手を組むことで、近隣の敵対国は2方向から攻撃を受ける可能性が出てくる」とありました。史記の范雎列伝にはそこまでの遠謀は書かれていなかったので、後に出てくる考え方なのかもしれません。
かつて日本とイギリスに日英同盟を組まれたロシアは、まさにそうした状況に直面しています。
「遠交近攻」の関連語
「遠交近攻」と同じく戦国時代の秦にまつわる故事成語としては、秦の王が有利な立場を利用し「和氏の璧」を奪おうとして失敗した話から「完璧」と「怒髪天を衝く」。秦の戦略が元となった「一挙両得」、各国が強大化する秦に対抗するため同盟し失敗した「合従連衡」などがあります。
「遠交近攻」の中国語
中国語 | 远交近攻 |
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ピンイン | yuǎn jiāo jìn gōng |
音声 | |
意味 | 遠交近攻。 |
日本語と同じ使い方です。