孟母三遷
……『烈女伝』とは:女性の史伝を集めた歴史書。女性の理想についての教訓書。前漢(B.C.206~8)の劉向(りゅう・きょう 前漢の学者・政治家)の撰。
「孟母三遷」の由来
「孟母三遷」は孟子の教育環境のために孟子の母が引っ越しを繰り返す話です。まずは孟子たちが生きた時代の年表と、暮らした都市の歴史地図を見てみましょう。
「孟母三遷」の故事の時代
「孟母三遷」の故事の場所
「孟母三遷」の故事
「孟母三遷」は中学校の国語の教科書にも載っている有名な話ですので、原文・書き下し文・現代語訳で紹介します。
「孟母三遷」の故事の原文
古列女傳、鄒孟軻母、其舎近墓。孟子少嬉遊、為墓間之事。孟母曰、此非吾所以居処子也。乃去、舎市傍。其嬉戯乃賈人衒売之事。又曰、此非吾所以居処子也。復徒舎学官之傍。其嬉戯乃設爼豆、揖譲進退。孟母曰、真可以居吾子矣。遂居。
「孟母三遷」の故事の書き下し文
古烈女伝にいう、鄒の孟軻の母、其の舎(やどり)墓に近し。孟子少にして嬉遊(きゆう)するに、墓間(ぼかん)の事を為(な)す。孟母曰く、此れ吾の子を居処(きょしょ)する所以(ゆえん)に非(あら)ざる也。乃(すなわ)ち去りて、市の傍(かたわら)に舎(しゃ)す。其の嬉戲するや乃ち賈人(こじん)衒売(げんばい)の事なり。又曰く、此れ吾の子を居所する所以に非る也。復(ま)た徒(うつ)りて学官(がっかん)の傍に舎す。其の嬉戯するや乃ち爼(そ)豆(とう)を設け、揖(ゆう)譲(じょう)進退す。孟母曰く、真(まこと)に以て吾子(わがこ)を居(お)らしむ可(べ)しと。遂に居る。
「孟母三遷」の故事の現代語訳
昔の『烈女伝』にこのような話が載っています。孟子の母は孟子が子供のころその住まいは墓地に近かったので、孟子は葬式ごっこをして遊んでいました。孟母は「ここはうちの子を住まわせておくべき場所ではないわ」と言って市場のそばに引っ越しました。すると小さい孟子は商売人が儲けようと口から出まかせを言う姿をまねして遊び始めました。その様子を見て孟母はまた「ここもうちの子を住まわせておくべき場所じゃないわ」と言って学校のそばに引っ越しました。小さな孟子は祭礼や礼儀作法のまね事をして遊び始めました。孟母はそれを見て「ああ、やっと住むべき場所を見つけた」と言ってそこを住まいと定めたということです。
「孟母三遷」の話は後世作られた話だという説もありますが、この故事を読んで不思議なのはお父さんが出てこないことです。中国の子供向けの故事成語アニメ「孟母三遷」編では、お母さんに育てられたという説明がありましたので孟母はシングルマザーだったのかもしれません。一人で子育てし、なおかつこんなに引っ越しもできるんですから実家は豊かだったのかも。それにしても子供と環境の関係を見抜き、引っ越しという相当エネルギーを消耗する行動を短期間に2回もやってのけるんですからかなり優秀な女性です。
こういうお母さんに育てられた孟子は期待にそむかず、二千数百年の今日も儒教の世界では孔子に次ぐナンバー2の尊敬を受けています。
孟子(B.C.372~B.C. 289年)は中国戦国時代の儒学者です。孟子の言行をまとめた書『孟子』では性善説を主張し、仁義による王道政治を求めました。また易姓革命(えきせいかくめい)論も孟子が唱えています。易姓革命とは、徳を失った王朝の交代は天命だという考え方です。
「孟母三遷」の関連語
「孟母三遷」の中国語
中国語 | 孟母三迁 |
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ピンイン | Mèng mǔ sān qiān |
音声 | |
意味 | 教育には良い環境が大切だということ。また教育熱心な母親のこと。 |