性善説
……『孟子』とは:孟子は古代中国の鄒の人。戦国時代の儒学者で、儒教では孔子に次いで重要な人物。書物としての『孟子』は孟子の言行をまとめた書。
「性善説」の由来
まずは「性善説」の由来となったお話の年表と歴史地図から紹介します。
「性善説」の故事の時代
「性善説」の故事の場所
「性善説」の故事
孟子はあらゆる人には善のきざしが生まれつき備わっていると考えました。その善のきざしとは惻隠、羞悪、辞譲、是非の四つの心です。
惻隠とは何か…他人の苦しみを見過ごせない憐れみの心。
羞悪とは何か…不正を恥じる心。
辞譲とは何か…謙譲の心。
是非とは何か…善悪を分別する心。
孟子は人間に備わっているこうした善のきざしを育て発展させていけば、「仁・義・礼・智」という四つの徳を備えた聖人君子になることができると考えました。(「仁・義・礼・智」などについて詳しくは「論語」のページで紹介しています)
孟子が人には生まれながらに善のきざしがあると考えたのは、人の道徳性が天に由来すると考えたからでした。
では現実社会にあふれる悪はどう考えたら良いのか?
孟子は、悪とは人の心の中ではなく人の外に存在し、この影響を受けることで善のきざしが曇り、いろいろな問題が生まれてくると考えました。
「性善」という言葉が出てくる『孟子』告子を読んでみましょう。
「性善説」の原文
告子日性猶滞水也。決諸東方、則東流。決諸西方、則西流。人性之無分於善不善也、
猶水之無分於東西也。
孟子日水信無分於東西、無分於上下乎。人性之善也、猶水之就下也。人無有不善、水無有不下。今夫水、搏而躍之、可使過類、激而行之、可使在山。是宣水之性哉。其勢則然也。
人之可使為不善、其性亦猶是也。
「性善説」の書き下し文
告子曰く、性はなお湍(たん)水(すい)のごときなり。これを東方に決すれば、則ち東に流れ、これを西方に決すれば、則ち西に流る。人の性の善不善を分かつことなきは、なお水の東西を分かつなきがごときなり、と。
孟子曰く、水はまことに東西を分かつことなきも、上下を分かつことなからんや。人の性の善なるは、なお水の下(ひく)きに就(つ)くがごときなり。人に善ならざるものあることなく、水下らざるものあることなし。今それ水は、搏(う)ちてこれを躍らさば、額(ひたい)を過ごさしむべし。激してこれを行(や)れば、山に在(あ)らしむべし。これあに水の性ならんや。その勢すなわち然るなり。人の不善をなさしむべきこと、その性もまたなおかくのごときなり。
「性善説」の現代語訳
告子という人が孟子にこう言いました。
「人の本性というものは渦巻く流れのようなものだ。水のはけ口を東側に作れば水は東に流れ、西側に作れば西に流れる。人の本性に善不善の区別がないのは、水が東西を区別せず流れるようなものである」。
すると孟子がこれに反駁し「水は確かに東西を区別せず流れるが、上下の区別なく流れることはない。人の本性が善であることは、水が低いほうに流れるようなものである。本性が善でない人間はいないし、低いほうに流れない水もない。
今、水を手で打ってはねさせてみれば、人の額を飛び越えさせることもできよう。水をせき止めれば、激しい勢いで山の上の方に逆流することもあるだろう。
しかしそれが、どうして水の本性だといえようか。外から加える勢いがそうさせているだけだ。人が悪事をするのも、外からの勢いに影響されてそうするのだ」と言うのでした。
「性善説」の関連語
「自暴自棄」と同じく『孟子』がもとになってできた故事成語には、「五十歩百歩」「助長」「自暴自棄」などがあります。
孟子の母の話が元になってできた故事成語には、「孟母三遷」「孟母断機」などがあります。
(孟子の生涯や思想、著作『孟子』の中にある名言などについて詳しく紹介しています。)