水清ければ魚棲まず
※『孔子家語』とは:『論語』から漏れた、孔子一門の説話を集めたものと言われる。
※孔子とは:B.C.552~B.C.479 春秋時代の思想家・哲学者。儒家の始祖。魯国昌平郷(現在の山東省曲阜)出身。
※『論語』とは:孔子とその高弟の言行を、孔子の死後弟子たちが記録した書物。儒教の「四書」の一つ。
「水清ければ魚棲まず」の由来
「水清ければ魚棲まず」の元になった典拠としては『孔子家語』のほか、『漢書』東方朔伝などがあります。まずはこの故事の時代の年表と歴史地図から見ていきましょう。
「水清ければ魚棲まず」の故事の時代
「水清ければ魚棲まず」の故事の場所
「水清ければ魚棲まず」の故事
『孔子家語』という孔子一門の説話を集めた本の中の話として、この言葉(「水清ければ魚棲まず」)に触れた部分は次のようなものです。
孔子の弟子、子張が孔子に役人になることについて尋ねると
孔子がそれに答えて
「昔の聖王は冠の前に玉飾りを垂らしたが、それは前を見えなくする工夫だった。
また耳にもひもをかけたが、これは人の過失を聞かないようにするためだった。
「水至清則無魚。人至察則無徒」である、と。
この漢文を書き下し文にすると
「水いたって清ければすなわち魚なし。人いたって察なればすなわち徒なし」と読みます。
この意味は「水はあまりに澄んでいると魚は棲まない。人はあまりに潔癖だと親しい仲間がいない」ということです。
この故事から派生した有名な話があります。
江戸中期第11第将軍徳川家斉の老中だった松平定信、寛政の改革で有名です。前任者田沼意次の政治を賄賂政治として批判し、クリーンな政治をめざして妥協をしなかったために敵を作ります。
そのころ歌われた狂歌
「白河の清きに魚もすみかねて、もとの濁りの田沼恋しき」(白川…松平定信は元白河藩主…の清らかさに魚も住めず、もとの濁っていた田沼…田沼意次を指す…が恋しい)は、あまりにクリーンで倹約倹約とうるさい定信を皮肉ったものです。
この歌の下敷きにこの中国の故事があります。
「水清ければ魚棲まず」の関連語
「水清ければ魚棲まず」と同じく『孔子家語』が元となってできた故事成語には、「良薬は口に苦し」などがあります。
『孔子家語』ではありませんが、孔子の『論語』が元となってできた故事成語には、「不惑」「温故知新」「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」「和して同ぜず」などがあります。
「水清ければ魚棲まず」の中国語
中国語 | 水至清则无鱼,人至察则无徒 |
---|---|
ピンイン | shuǐ zhì qīng zé wú yú,rén zhì chá zé wú tú |
音声 | |
意味 | 水が清らかすぎるとかえって魚は棲まない。人柄が高潔すぎると人は煙たがって近づかない。 |
意味は日本語と同じですが、中国語では「魚棲まず」ではなく「魚なし」になっています。