虎穴こけつらずんば虎子こじ

意味
危険を冒さなければ大きな成功は望めない。
例文
ここは思い切って直接社長に談判しましょうよ。虎穴に入らずんば虎子を得ずですよ。
出典
『後漢書』班超伝……『後漢書』は中国後漢朝について書かれた歴史書。二十四史の一つ。5世紀南北朝時代の南朝宋の時代に書かれた。編者は范曄はんよう(398年 - 445年)。班超はんちょう(32年 - 102年)は、中国後漢の武将。雍州ようしゅう扶風郡ふふうぐん(現在の陝西省宝鶏市あたり)平陵の人。兄は班固(後漢の歴史家・文学者)、妹は班昭(後漢の歴史家・文学者)。西域さいいき(現在の新疆ウイグル自治区あたり)から北匈奴やクシャーナ朝を攻めて後漢の勢力を広げ、西域都護(西域を統括する役職)として長く西域を守った。

「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の由来

虎穴に入らずんば虎子を得ず」は、中国の後漢時代、シルクロードの交易で栄えた楼蘭という国への使者班超の話が元となってできた故事成語です。

「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の故事の時代

「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の故事の時代(年表)
虎穴に入らずんば虎子を得ず」の故事の時代(年表)。中国の後漢時代の出来事です。

「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の故事の場所

「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の故事の場所(歴史地図)
虎穴に入らずんば虎子を得ず」の故事の場所(歴史地図)。楼蘭ろうらん鄯善ぜんぜん)はシルクロード交易で栄えた国です。

「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の故事

虎穴に入らずんば虎子を得ず

漢の明帝の時代、班超は西域に行く命令を受けます。彼が鄯善国(かつての楼蘭。現在は新疆ウイグル自治区鄯善県)に着いた時、鄯善王は初め彼に友好的でしたが、匈奴からも使者がやってくると態度が冷淡になります。班超は「鄯善王は漢ではなく、匈奴になびくつもりだな」と気づくと「このままでは我々全員匈奴側に渡され殺されることになるだろう」と同行の36人に相談します。そして「虎穴に入らずんば虎児を得ずだ。ここは火攻めの夜襲をかけ匈奴のやつらを皆殺しにしてしまおう。こうすれば鄯善王もおびえて漢になびくはず」と言って、夜ひそかに36人を率いて匈奴の陣営にひそみ、寝静まるのを待って火を放ち襲いかかりました。匈奴の使者たちは突然の奇襲にひたすら逃げまどい、百数十人の匈奴勢は全滅します。鄯善王は翌日班超から匈奴の使者の首級を見せられると、班超の思ったとおり漢に帰順することになりました。

40人足らずの軍勢でその倍以上の人数を持つ敵を前にして、このままいけば死を待つばかり、いっそ敵の真っただ中に切り込んでいこうと班超が同行の兵士たちを鼓舞した時の言葉がこの「虎穴に入らずんば虎児を得ず」です。

楼蘭(鄯善)はシルクロードの交易で栄えた砂漠の国
楼蘭(鄯善)と敦煌とんこう(上にある地図の楼蘭の右にある都市)は砂漠の交易路となっていました。

「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の中国語

中国語不入虎穴,焉得虎子
ピンインbú rù hǔxué,yān dé hǔzǐ
音声
意味危険を冒さなければ大きな成功は望めない。意味は日本語とまったく同じです。

『中華成語探源』という2001年に中国で出版された辞典を読むと、班超が匈奴を全滅させた朝、鄯善王を呼びつけて漢に帰順させる場面で「鄯善王は班超に喜んで心服し、漢朝とより一層の友好関係を結ぶことを願った」と書かれています。ところが『後漢書 班超伝』からはそうしたニュアンス…無理やりではなく心から喜んで…武力による帰順ではなく、友好関係を深めただけ…というのは読み取れません。班超は匈奴を全滅させれば鄯善王は怯え、ほっといても漢になびくだろうと読んで奇襲作戦を実行するのですが、結果はまさにその通りになります。まさに武力で西域を屈服させるわけで『後漢書 班超伝』はそれをほめて書いているのだと思いますが、語源辞典ですらそうした書き方をしないのですね。

西域…現在の新疆ウイグル自治区という微妙な場所なので、書く人は相当神経を使うんでしょう。故事成語を読んでいくと時にそうした現代中国事情も見えてきます。