鴻門之会こうもんのかい

意味
鴻門之会とは、紀元前206年、の項羽とかんの劉邦がしんの都・咸陽かんよう(西安市臨潼区)で会見したという故事。
出典
『史記』項羽本紀
……『史記』とは:前漢武帝の時に司馬遷によって書かれた歴史書。

鴻門之会

「鴻門之会(鴻門の会)」は「こうもんのかい」と読みます。まずはこのお話の年表と歴史地図から見ていきましょう。

「鴻門之会」の故事の時代

「鴻門之会」の故事の時代(年表)
鴻門之会」の故事の時代(年表)。秦が滅び項羽と劉邦が争い始める時代、紀元前206年の出来事です。

「鴻門之会」の故事の場所

「鴻門之会」の故事の場所(歴史地図)
鴻門之会」の故事の場所(歴史地図)。鴻門はしんの首都咸陽かんようの東にある地名です。

「鴻門之会」のあらすじ

「鴻門之会」の人間関係図

戦国末(B.C.221)六国りっこくを滅ぼし、天下を統一した秦の始皇帝は壮大な咸陽かんようの都や万里の長城を築き、隆盛を誇りました。しかしその繁栄は長くは続かず、始皇帝が死ぬと民衆の不満が爆発し各地で反乱が起こります。

反乱を統率したリーダーたちの中で楚の項羽と沛の劉邦はそれぞれ有能な部下をかかえ、勢力を伸ばします。両軍は先陣を争いますが、沛公と呼ばれた劉邦が先に咸陽を占領しました。その時「沛公は秦の王になろうとしている」と項羽に告げ口した者がおり、それを聞いた項羽は天下統一の野心を持っていたため激しく怒り、劉邦を討とうとしました。

この時劉邦はまだ項羽に勝つ見込みがなかったので、部下の張良とその友人であった項羽の叔父・項伯の勧めで和解を策し、項羽の誤解を解くためにその陣営を尋ねます。

劉邦と項羽の戦いの山場の一つ「鴻門之会」の物語はこうして始まるのです。

劉邦は項羽が怒って自分を討ちに来ると聞き、自陣から16キロ離れた鴻門という名の高台で陣を築いていた項羽の元に、急ぎ百騎余りを従えてはせ参じます。

劉邦は項羽に会うと平身低頭してこう言いました。

「項羽将軍と私はこれまで力を合わせて秦打倒のために戦ってきました。

将軍は黄河の北、私は黄河の南でそれぞれ死闘を繰り広げてきました。

今回思いもよらないことに、私の方が先に関中(函谷関の西側。地図参照)に入り秦を倒すこととあいなりました。

今つまらない者が根も葉もない告げ口をし将軍と私を裂こうとしていると聞き、ただちに御許に参ったところであります」

項羽はこの言い訳を聞くと

「それは他でもない、貴公の部下・曹無傷という男がわしにそう伝えたのだ。それがなければ貴公に腹など立てるものか」

この後の名場面の前半を書き下し文と現代語訳で紹介しましょう。

「鴻門之会」の書き下し文

項王即日よりて沛公を留めてともに飲す。

項王・項伯は東向して坐し、亜父は南向して坐す。亜父とは、范増なり。

沛公は北向して坐し、張良は西向して侍す。

范増しばしば項王に目し、佩(お)ぶる所の玉玦(ぎょくかい)を挙げて、もってこれに示すこと三たびす。

項王黙然として応ぜず。

范増立ちて出で、項荘を召して謂いて曰く、

「君王、人となり忍びず。なんじ入り進みて寿をなせ。寿終わらば、剣をもって舞わんことを請い、よりて沛公を坐に撃ちてこれを殺せ。しからずんば、なんじが属皆まさに虜とするところとならん」と。

荘すなわち入りて寿をなす。

寿終わりて曰く、

「君王沛公と飲す。軍中もって楽をなすなし。請う剣をもって舞わん」と。

項王曰く、「諾」と。

項荘剣を抜きて起ちて舞う。項伯もまた剣を抜きて起ちて舞い、常に身をもって沛公を翼蔽す。荘撃つことを得ず。

「鴻門之会」の現代語訳

項羽はその日そのまま劉邦を帰すことなく、共に酒を酌み交わすことにしました。

項王と項伯は東を向いて座り、亜父は南を向いて座りました。亜父とは項羽の老参謀・范増のことです。劉邦は北を向いて座り、張良は西を向いて陪席しました。

項羽の参謀・范増は何度も項羽に目配せし、腕につけた玉の輪を掲げて、劉邦を殺すよう三度ジェスチャーします。しかし、項王は黙ったままでそれに応じませんでした。

そこで范増は座を立ち外に出て、項荘を呼んでこう言いました。

「君王はあのお人柄だからどうしても劉邦を殺せないのだ。お前が中に入り劉邦に長寿を祝う献杯をしてくれ。それが済んだら剣舞を願い出て、舞いながら劉邦を襲いその場で殺せ。こうしなければお前の一族はいずれみな劉邦に生け捕りにされることになるだろう」

これを聞いた項荘はすぐさま部屋に入って劉邦に長寿を祈る献杯をします。そのあと項羽に

「君王がこうして沛公と酒宴を楽しんでいらっしゃるというのに、ここ陣中には楽しめるものが何もありません。私がひとつ剣舞をご披露しようと思うのですがいかがなもんでしょう」と願い出ます。

項羽が「かまわん」と言うと、項荘は剣を抜いて立ち上がり舞い始めました。

すると項羽の叔父にして、漢の張良の友人・項伯もまた剣を抜いて舞い、常に自分の体で劉邦を守るので項荘は劉邦を殺すことができませんでした。

鴻門之会

この後はまた、一部アレンジした『史記』の現代語訳を書きます。

この剣舞の舞を見た張良は軍門のところに行き樊噲はんかいに会います。

樊噲が張良に「どうだ様子は?」と聞くと、張良は「おい大変だ!今項荘が剣舞をやっているんだが、狙いは沛公の命だ」

これを聞いて樊噲は「なんと!おれを中に入れてくれ。刺し違えてくれる!」

こうして樊噲は剣を身につけ盾を抱えて軍門をくぐります。

衛兵が二人矛を交差させ中に入れまいとしますが、樊噲はこれを盾で突きとばしそのまま中に入ります。

宴席のとばりを開けると西に向かって、つまり項羽を真正面にして立ち目をいからせてにらみつけます。髪は逆立ち、カッと見開いた目は裂けんばかりです。

項羽が思わず剣に手をかけ、片膝をつき「何者だ?」と聞きます。

張良が「沛公のお供で来た樊噲という者です」と言うと、項羽は

「壮士である。まあ飲め」と言って大きな杯になみなみと酒をつがせます。

樊噲は礼を述べると立ったままごくごくとこの酒を飲み干しました。

項羽はまた「豚の肩肉を与えよ」と言い、生の肩肉をひとかたまり与えました。

樊噲は持っていた盾を床に置き、肩肉をその上にのせ剣で切ってむしゃむしゃと食らい平らげます。

項羽はこの様を見て再び「壮士である。もう一杯どうだ」と言うと

樊噲は「死ぬことさえ恐れていないのに、酒の一杯や二杯どうということもござらん。

ところで秦の王には虎狼のようなむごい心がありました。平然と人を殺すこと数知れず、酷刑には惨さがまだ足りないと言わんばかり。秦はこうして人心を失ったのです。のちに懐王は諸将にこう約束されました。『先に秦を破って咸陽に入った者はこれを王にする』と。

今沛公は秦を破って咸陽に入ったものの、秦の財宝にはまったく手をつけず宮殿も閉ざしたまま。軍を覇上に下げて大王のいらっしゃるのを今かと待っていたのです。

函谷関に軍を派遣して守らせたのは他でもない、盗賊と非常事態に備えたためです。大王はこのように労多く功高い沛公にいまだ恩賞を与えないばかりか、つまらん男の告げ口を信じて殺そうとなさっている。これではあの暴虐な秦と変わりません。大王の本心とは思えませんが」

項羽はこれには二の句が継げず、ただ「座れ」と言うのみでした。

樊噲は張良の隣に座りました。しばらく座っていると、沛公が手洗いに行き外から樊噲を呼んで部屋から出します。……

こうして劉邦は無事命の危機を脱し、樊噲も張良も自陣に戻ります。

劉邦暗殺の策を練った范増は地団太を踏み、いずれ劉邦に覇は奪われ、項羽側の人間はすべて捕虜になるだろうと予感するのですが、歴史はこの予感を実現させてしまいます。

この鴻門之会、話そのものが面白く、これが史実だと思うともっと興味が湧きますが、気になるのは敵同士である張良と項伯が友人であるというくだりと、項羽が樊噲の迫力に二度「壮士である」と言ったところ。敵同士が友人?壮士?

張良と項伯は以前からの知り合いで、ある時張良が項伯の命を助けたことがあるのです。項伯はこれを恩義に感じ、項羽の劉邦攻めの前に事態を張良に知らせ、いくさの場から逃がそうとしたのでした。張良は逃亡の勧めを断り、項羽に詫びを入れるよう劉邦を説得し、これが「鴻門之会」につながります。

何かで恩義を感じると「義兄弟」の契りを結び、この関係は場合によると血縁より強い結びつきになる…こうした関係は今の中国人にも見られます。項羽と劉邦の争いから二千年以上、こうした人間関係はよほど中国の風土に合うものなのでしょう、非常に根強いものがあります。

項羽が劉邦と最後は覇をめぐる争いになるであろうことがわかっていて、甥の項羽の目の前の戦いより、劉邦の大参謀・張良の命を思う…これぞまさに「義兄弟」の契りです。

さてもう一つ、項羽が感嘆のため息とともに漏らしたであろう「壮士」という言葉。壮士とは「義や侠のために平然と自分の命を捨てる者」のことです。同じ『史記』の「刺客列伝」に出てくる荊軻けいかは、燕の太子・丹の信頼にこたえるというその一字のために、二度と生きては帰れないであろう秦行きを決行します。(その場面が「傍若無人」の由来となりました)

項羽は無礼な樊噲を叱責するどころか褒美を与えます。惚れ込んでしまったのでしょうね。東アジアの男の美学のように感じます。

「鴻門之会」の関連語

「鴻門之会」と同じく項羽・劉邦に関する故事成語には、「四面楚歌」「捲土重来」「背水の陣」「敗軍の将は兵を語らず」「先んずれば人を制す」「左遷」「右に出る者はいない」などがあります。

また、項羽の愛妻「虞美人」についても詳しく紹介しています。