傍若無人
※『史記』とは:中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書。
※刺客列伝とは:刺客、テロリストの伝記。ただし『史記』で司馬遷が取り上げた刺客たちは、主君と深い信頼関係を持ち、たった一人で暗殺に向かう勇気と沈着冷静さを併せ持つ。
「傍若無人」の由来
「傍若無人」は戦国時代末、秦が統一しつつある時期の話が元になっています。まずはこの故事の年表と地図から見ていきましょう。
「傍若無人」の故事の時代
「傍若無人」の故事の場所
「傍若無人」の故事
「傍若無人」という言葉は、『史記』の刺客列伝・荊軻について書かれた部分から取られています。
荊軻(?~B.C.227)は戦国末期衛(河南省)の人です。ではこの言葉にまつわる荊軻の話を読んでみましょう。太字になっているところが「傍若無人」の元となった部分です。
『史記』の「傍若無人」部分の原文
荊軻嗜酒、日與狗屠及高漸離飲於燕市。
酒甜以往、高漸離撃筑、荊軻和而歌於市中、相樂也。
已而相泣、旁若無人者。
『史記』の「傍若無人」部分の書き下し文
荊軻酒を嗜み、日狗屠及び高漸離と燕市に飲む。
酒甜にして以往、高漸離筑を撃ち、荊軻和して市中に歌い、相楽しむ也。
已にして而相泣き、旁に人無き者の若し。
『史記』の「傍若無人」部分の現代語訳
荊軻は酒を飲むのを好み、毎日のように犬殺しや高漸離と燕の街なかで飲んだ。酒がたけなわになると、高漸離は筑を奏で、荊軻はそれに合わせて共に楽しんだ。やがて互いに泣きあい、その有様はまるで周りには誰もいないかのようだった。
これを読むだけですと荊軻はならず者のようですが、彼の人柄は冷静沈着、読書を好み各地の優れた人物とも交流がありました。
燕の太子丹はかつて秦の人質でしたが、後の始皇帝の自分への扱いがひどく燕に逃げ帰っていました。丹は荊軻に秦王暗殺を頼みます。承諾した荊軻は易水という川のほとりで皆に別れを告げます。うまくいっても失敗しても死は免れません。
この時高漸離の筑に合わせて荊軻が読んだ歌は、今も中国の小説などによく引用されています。
風蕭々として易水寒し
壮士、ひとたび去って、復た還らず
自分の死を覚悟した歌です。「士は己れを知る者のために死す」
荊軻は丹の信頼にこたえんがため、風蕭々と吹く易水を渡っていくわけです。かっこいいですね、荊軻!
彼は秦王に会って匕首で刺そうとするのですが失敗し殺されます。二度と再び戻ることはありませんでした。
「傍若無人」の関連語
「傍若無人」の中国語
中国語 | 旁若无人 |
---|---|
ピンイン | páng ruò wú rén |
音声 | |
意味 | 周りに誰も人がいないかのように自分勝手にふるまうこと。 |