孔子の生涯と思想・名言集

孔子

孔子とは

孔子とは春秋時代末期の思想家で、儒教の開祖です。紀元前552年(551年説も)に魯の国(現 山東省)に生まれ、紀元前479年に74歳で亡くなっています。名はきゅうあざな仲尼ちゅうじ。「孔子」の「子」は敬称です。仕官を志しますが生涯のほとんどは野にあり、弟子の育成に力を注ぎます。孔子とその弟子との間の問答をまとめたものが『論語』です。孔子の思想は戦国中期の孟子や戦国末期の荀子に継承され、その後二千年以上もの間中国の正統な思想・儒教の開祖として尊敬を受け続けました。

以下、年表と歴史地図を紹介します。

孔子が生きた時代(年表)
孔子が生きた時代(年表)。孔子は春秋時代に活躍しました。
春秋時代の魯国の地図
春秋時代の魯国の地図。孔子は魯の出身です。

孔子の生涯

孔子と弟子たち
孔子と弟子たち。

孔子の父は武人の叔梁紇(しょく・りょうこつ)、母は顔徴在(がん・ちょうざい)。孔子は幼児期に父親を失い、元巫女だったと言われる母親が女手一つで孔子を育てています。父親がいない環境で育ったという点は孟子とも似ています。

孔子は父親が60代、母親が16歳の時の子供で、母親は正妻ではありませんでした。というのは司馬遷の『史記』に「両親の野合によって生まれた」と書かれており正式の結婚ではないことが伺われるからです。『史記』は孔子の死から400年後に書かれたもので、これが史実かどうかははっきりとはしませんが、それでも歴史書に「野合」という文字が使われているとなると、孔子が生きていた時代、特に父亡き後、孔子は経済的にはもちろん精神的にも人に後ろ指を指されるなど苦労して育ったのかもしれません。後にある人が弟子の子貢に「先生はなぜあんなに多芸多才なのでしょう」と尋ねた話を耳にすると「私は幼い時貧しかった。だからつまらない技芸を身につけたのだ」と孔子は答えています(『論語』子罕篇)。

大人になった孔子は身長が216センチもあって人は「長人」と呼んだそうです。山東省の人は今でも背の高い人が多いですが、それにしても2メートルを超えるとはすごい……。孔子の名前が「丘」であるのは、生まれつき頭頂部が陥没していてその周りが丘のようになっていたからだと言われています。

ところで子供時代を貧窮のうちに送ったらしい孔子はどんな学校で学んだのでしょう。『論語』子張篇には「先生はどこで勉強したのですか?」と人に聞かれて、弟子の子貢が「先生は至る所で学びました。決まった先生は持ちませんでした」と答えた話が載っています。

孔子はありとあらゆる場所で出会った人たちにいろいろなことを尋ね、そこから熱心に学び取っていったと言われています。『論語』公冶長篇に「私くらいにまじめな人間はいるだろうが、私ほど熱心に学んだ者はいないだろう」とありますので本当に勉強することが好きな人だったのでしょう。

魯の国は当時三桓氏と呼ばれる三人の家老に権力を乗っ取られてしまった状態で、君主である昭公は隣の斉国に亡命します。この時36歳だった孔子も昭公について斉に行き、2年後にまた魯に帰国しています。その後孔子は魯で高い位に就くのですが政治改革に失敗、その後の14年は諸国を遊説して回ります。この間彼を慕う弟子たちが彼につき従いました。孔子69歳の時魯に帰国してからは弟子の教育に心血を注ぎ、弟子の数三千人と言われました。さらに古い詩や書を編纂し、儀礼や音楽について整理し、易についてその解説を書き、魯国の記録『春秋』の編集にも関わります。

19歳で結婚した妻や長男の孔鯉、愛弟子の顔回、子路に先立たれ、74歳で亡くなりました。孫の子思は後に儒家の重要な経典『中庸』を書いたと言われています。

こうしてざっと孔子の人生を振り返ってみますと、家庭的にも経済的にも恵まれない子供時代を送り、成人した後は志を立てても地位や名誉を得られたとは言えず、世間的な意味では不遇のうちに人生を終えています。

ただ当時大勢の弟子を育て彼らから大変敬愛されていましたから教育者としては幸せな人生を送ったと言えるでしょう。『論語』述而篇に「先生は温和だったが厳格、威厳があったが威圧感はなく、礼儀正しいが窮屈な人ではなかった」と弟子たちが述べています。そばにいる人に幸福感を与え、しかもそれらの人を向上心に導く理想的な先生だったのでしょう。

後世孔子の名は中国はもちろん日本など東アジアの国々で知られ、やがて神のように崇められるようになります。こうして思想家としては大成功を収めましたが、生きているうちにそれを知ることはありませんでした。

決して楽な人生を送ったわけではない、苦労の中で人が生きることの意味を考え続けた孔子、だからこそ今でも心に響く言葉を残すことができたのかもしれません。

孔子の思想

孔子の主な思想を政治と道徳に分けて紹介します。

政治思想

孔子が生きた春秋時代は周王朝が有名無実化し権力は臣下に移って、政治の道も人の間の礼も乱れ、社会は無秩序化していました。

こうした時代において孔子は治世者の徳治・仁政を訴えます。権力や刑罰のみに頼った政治ではなく、仁、今の言葉なら人類愛に基づく政治です。具体的には税や賦役を不必要に重くせず、刑罰を不必要に厳しくせず、民に対しては礼の教育を通し恥の概念を育ておのずと社会規範に従うようにさせる。寛容と厳しさの一方のみに偏らず、そのバランスを取りながら統治する。民の暮らしを豊かにし、その後教育によって文化的素養を高めていく。さらに才徳兼備の人材を重んじ、政治の場で活用することを主張しました。

道徳思想

孔子の道徳思想の徳目は忠・孝・仁・義・礼・智・信・恕など多方面に渡ります。ではそれぞれを簡単に説明していきましょう。

「忠」と聞けば「忠君」…滅私奉公…と結びつけてしまいますが、孔子の「忠」は必ずしも「忠君」の意味ではありません。この滅私奉公的な「忠君」は時代が下るにしたがって政治的な意味が付与されたものと考えた方がいいかもしれません。孔子の「忠」は一般に友人関係に用いられ、「誠意を尽くす・真心を尽くす」意味で使われています。「忠」とは人に対する「誠意や真心をこめた行為」のことです。「忠君」で使われた例もありますが、その場合は前提があります。それは「君主が臣下に礼を尽くしている場合」臣下も君主に忠を尽くすというものです。君主が臣下に礼を尽くしていなければ、臣下も君主に忠を尽くす必要がない、ということなのです。

「孝」の本来の意味は「祭祀」のことですが、道徳規範としての「孝」はかなり古くからありました。孔子の唱える「孝」はかなり具体的で、まずは礼法に合致したやりかたで孝を行い、いついかなる時でも、心に敬愛の気持ちを抱き笑みを浮かべて親に接することとあります。決して親に心配をかけてはならず、親孝行の行為を通して社会に良き影響を与え、社会の気風を改善することまで期待されています。

「仁」は孔子の思想の核心で、人としての最高の境地を表しています。仁は「仁は人なり」と言うように人と人の間に生まれた道徳のことです。その基本的な意味は「人に対する愛」であり、この思想は当時の社会において画期的なことでした。というのは当時貴族からすると奴隷は人ではなかったのですが、孔子は奴隷であっても「人」とし、「仁」を向ける対象としたのです。仁はその中に「恭敬・寛厚・誠実・勤勉・慈恵」の5つの美徳を含んでいますが、最も大切な要素は「おのれの欲せざるところ、人に施すなかれ」(自分がしたくないことを人に押し付けるな)ということでした。人と交際する時、人を思いやり人を尊重する、これが仁です。

孔子の解釈する「義」とは「宜(ぎ)」つまり「ちょうどよい」ということ、「理にかなう」ということです。「義を見てなさざるは勇なきなり」(『論語』為政篇…義を見て行わないのは勇敢とは言えない)という有名な言葉があります。のちに儒者たちは義と利の関係について「義は天理の宜しきところなり。利は人情の欲するところなり」と説明しています。

「礼」の最初の意味は「神を敬う」ことでした。のちに尊卑と長幼の序を強調するものとして礼が制定されるようになり、やがてこれが道徳規範となっていきます。

孔子は伝統的な礼を用いて無秩序になった社会を立て直そうとしましたが、孔子の「礼」は伝統的な礼と異なり「仁」を強調するところにその特徴があります。

『論語』八佾(はちいつ)篇に「人に仁徳がそなわっていなければ礼の使いようがない」とあります。また学而篇には「礼は人の心を温和にし、社会を調和させる」とあります。

政治の中でも礼の役割を重んじ、為政篇には「刑罰で人を正そうとすれば、人は法律を犯そうとはしなくなるが恥の心は持たない。礼をもって正そうとすれば罪を犯さなくなるだけでなく、恥を知って心から従うようになる」とあります。

「智」は『論語』の中では「知」と表記されています。「智・知」とは聡明・智慧・智謀などの意味です。孔子は智についてまとまった説明をしていませんが、『論語』の中では智慧についてさまざまな方面から書かれています。

たとえば『論語』為政篇で「これを知るをこれを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」(知っているとは、知っていることを知っているとし、知らないことを知らないとすることだ)となぞなぞのような面白い言い方をしています。自分が知っているのか知らないのかはっきり認識することこそが「智」であるということです。

「信」とは誠実で人をだまさないことです。孔子は信を礼の根本の一つと見なしました。そして弟子を教育するのに忠(誠実さ)と信を主とし、「家では親に孝、外では悌(年長者への敬意)、行動は慎重にして信あり(信頼され)、広く人々を愛して仁(仁ある人)に親しみ、これらを行ってまだ余力があるならそこで文(書物)を学びなさい」(『論語』学而篇)と教えました。この教えのもと、弟子たちも信を非常に重んじ、弟子のひとり曽子は信を守ったかどうかを毎日反省する項目の一つにしたと言います。

「恕」は『論語』の中に2度しか出てこない言葉ですが、『論語』里仁篇に「先生が貫こうとした徳目は忠恕である」と書いてあるように孔子が非常に重んじた徳目です。『論語』衛霊公篇で「弟子の子貢が『一言で終生の座右の銘とすべき言葉は何ですか』と問うと、孔子は『それは恕だろう。己の欲せざるところ、人に施すことなかれ』と答えた」とあります。恕とは思いやり、人の心を自分の心のように感じとる心のことです。

『論語』の名言集

ここで『論語』に出てくる有名な言葉をいくつか紹介しましょう。ほとんどの人がどこかで見た或いは聞いたことのある言葉だと思います。これらの言葉から人間・孔子の人となりを想像することができるでしょう。

「学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」(学而篇)

現代語訳:(学ぶこと、それを実践して身につけること、なんと喜ばしいことだろう。友ができ、遠方からも学問の同志が集まってくる、なんと楽しいことだろう)

この言葉の後半部分は今でもよく使われています。中国からの代表団への歓迎宴会などでスピーチに使ったりします。中国語では「有朋自遠方来、不亦楽乎」となります。日中ともに原文のままで(もちろん発音は異なりますが)意味のわかる言葉です。

前半部分は孔子の勉強好きがよくわかる言葉です。学ぶことへの喜びがあふれたような表現です。

「巧言令色すくなし仁」(学而篇)

現代語訳:(さわやかな弁舌にうまい人あしらい、こういう連中に仁はない)

いますね、こういう人。というかこういう人ほど「デキル奴」と思われ出世します。でこういうタイプに縁の下の力持ち的な誠実な人は確かに少ないです。孔子はこういうタイプを認めることはなかったんですね。

「十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳したがう。七十にして心の欲するところに従えども、のりをこえず」(為政)

現代語訳:(15歳の時学問で身を立てようと志を立てた。30歳で自分の立場ができた。40歳で自分の生き方に迷うことがなくなった。50歳で天から与えられた使命を知った。60歳で人の意見に耳を傾けることができるようになった。70歳になると自分のしたいことをしても、調和が保てるようになった)

これは孔子が自らの人生を振り返っての感慨です。それから二千年以上経ち、その時代その時代の人々が人生の指針とし、励まされ、また耳の痛い思いをしてきたことでしょう。この言葉から40歳のことを「不惑(ふわく)」と言うようになりました。

「徳、孤ならず、必ずとなりあり」(里仁篇)

現代語訳:(徳ある者は孤立しない。必ず理解者が現れる)

この書き下し文を音読すると、この言葉に内在する美しさを感じます。理解を得られず孤独に悲しむ人への励ましの言葉なのでしょう。

「これを知る者はこれを好む者にしかず。これを好む者はこれを楽しむ者にしかず」(雍也篇)

現代語訳:(これを理解しているという人はこれが好きだという人に負ける。これが好きだという人はこれを楽しんでいる人に負ける)

この言葉はとても有名ですが、孔子の言葉でした。一生懸命やっていても義務的にやっているなら、それをすることが好きで好きでたまらない人や、それをすることで幸福感を味わっているという人には適わないということ。何事も好きで楽しんでやることにまさるものはない、ということです。

「民はこれによらしむべし。これを知らしむべからず」(泰伯篇)

現代語訳:(人民を心服させることこそが大切で、政策を理解させる必要はない)

この言葉は日本では江戸幕府時代の愚民政策のように伝わっていますが、孔子の言葉だったのですね。でも現代語に翻訳して味わってみるとなるほどと思います。いちいち色々な政策を読んだり聞いたりして理解するというのは忙しい庶民には大変なことで、要は時の為政者を信頼できるかどうかだというのは納得がいく意見です。

さて引用はこのくらいにしましょう。『論語』は全20篇1万3千字あまり、そう長い書物ではありません。思想書のように難しい言葉が使われているわけではないので、翻訳さえついていれば気楽に読むことさえできます。

読んでみると「温和だが厳格、威厳があるが威圧感はなく、礼儀正しいが窮屈ではない」という弟子による孔子像が伝わってきます。道を求めるにきわめて誠実で真面目であり、ここでの妥協はありませんが、全体にゆったりとして過激ではありません。白でなければ黒というような二元論的人物ではなく、時と場合によって白だったり黒だったり、『論語』の中で言う「中庸」…極端を排した生き方を求めた人物ではなかろうかと思います。

現代中国と孔子

さて中国では中華民国時代(1912~1949)の初期まではまさに儒教の教えが生きている社会だったようです。特に「孝」は社会の隅々にまで行き渡っていて、当時日本に留学していたある中国人は日本社会の中の「孝」の薄さにびっくりしたと書いています。きっと平気で親にたてつく親不孝者をたくさん目にしたんでしょうね。中国では親など年長者は絶対的な存在でした。これは多少薄まったとはいえ現代中国にもまだ色濃く残っています。

海を隔てた日本は江戸時代に儒教が浸透しましたが、もともと仏教あり神道あり、社会全体への影響力は中国ほどではなかったようです。

新中国になった後の文革期(1966~1976)には孔子は反動派の代表として打倒の対象となります。また同時期に「批林批孔」という政治運動も起きますが、実は孔子というより毛沢東の片腕・周恩来を打倒するための運動だったと言われています。

それから30年以上が経ち、今中国では『論語』・孔子ブーム。世界中に孔子学院を作って中国語や中国の伝統文化の普及に力を入れています。では今の中国で孔子は安泰かというとどうもそうではなく、天安門広場に巨大な孔子像が作られたかと思うと撤去されたり、「ノーベル平和賞」に対抗して「孔子平和賞」を立ち上げたかと思うと、すぐ解散を命じられ、それからまもなくまたこれが復活するなど不可解な出来事が起きています。こうした動きは政治の動向とからんでいて、この先いつどうなるかわからない危うさも感じさせます。これはある意味孔子の思想がまだ生きていて、政治的に新たなエネルギーを持ち得る可能性も秘めているということなのかもしれません。

日本と孔子

湯島聖堂
湯島聖堂。

儒教は日本には聖徳太子の時代には伝わったと言われていますが、特に盛んになったのは江戸時代です。武家社会ですから儒教の忠君思想が好まれたのですね。日本の「武士道」は中国では軍国主義と結びつけられることが多いのですが、新渡戸稲造の『武士道』を読んでみると、日本的に解釈・消化された儒教の徳目が書かれている本と言っても過言ではありません。江戸時代、儒教がいかに日本の武士たちのよりどころとして浸透したかが伺われます。

JR御茶ノ水駅前の「湯島聖堂」は日本を代表する孔子廟で、5代将軍・徳川綱吉によって建造されました。

湯島聖堂の孔子像
湯島聖堂の孔子像。

世界遺産となった三孔(「孔廟」「孔林」「孔府」)

三孔

孔子の出身地、山東省の曲阜市には、「孔廟」「孔林」「孔府」の3種類の孔子ゆかりの場所があり、それらを合わせて三孔と言います。

この三孔は1994年に世界遺産に登録され、現在では孔子にまつわる観光地となっています。

孔廟

孔廟は孔子を祭る廟所です。アジア各地に多数の「孔子廟」がありますが、曲阜にある孔廟は孔子の死後1~2年のうちに作られ、最も歴史の古い孔子廟となっています。

孔林

孔林は孔子とその子孫たちの墓地です。何度も拡張され、約2平方キロメートルの敷地に10万人以上とも言われる孔子の子孫たちの墓が存在します。

孔府

孔府は孔子の子孫たちの住居跡です。現在では人は住んでおらず、観光地となっています。この孔府で暮らした孔子の子孫たちが、孔廟と孔林の管理や、孔廟での祭祀などを行ってきました。

孔子に関する故事成語