漢王朝の歴史【400年に渡る王朝の歴史・地図・年表】

漢

漢王朝とは、始皇帝による秦朝が滅亡したあと建国された前漢と、前漢を簒奪した王莽によるを滅ぼして建国された後漢、この二つの王朝を合わせた呼び方です。前後約200年ずつ、合わせて約400年の歴史を持ちます。

※上の画像はの宮中を描いた絵です。

漢王朝とは

劉邦
劉邦。前漢を建国しました。
光武帝
光武帝。後漢を建国しました。

漢王朝とは、中国大陸の統一王朝である前漢後漢を合わせた言い方です。

前漢は劉邦が建国し、後漢は劉邦の血筋をひく劉秀・光武帝によって建国されました。前漢は劉邦亡き後、呂后一族に権力を簒奪されますが、後に滅ぼされ、文帝と景帝の時代に安定期、7代武帝の時代に黄金期を迎えます。武帝亡き後は、皇帝の側近一族や皇后の外戚が跋扈し、外戚の一人王莽によって前漢は滅びました。後漢は光武帝以下3代が最も安定した政権で、その後は外戚や宦官、官僚の三つ巴の権力闘争が続き、疫病や自然災害も多く、政治腐敗も広がる中、黄巾の乱が起き、曹操・劉備・孫堅など群雄が割拠し、曹操の子・曹丕が後漢最後の献帝から王権を禅譲されるという形で魏を建国、ここに後漢は滅び、漢王朝も終わりを告げました。

前漢の地図
前漢の地図。
年表
漢王朝は前漢約200年、後漢約200年となっています。

前漢

前漢は高祖・劉邦によって建国されました。

劉邦は沛(現江蘇省)の農民の子供として生まれ、畑仕事を嫌った遊侠無頼の徒でしたが、秦朝末期に仲間たちとともに秦打倒のために決起しました。

後にの名将・項燕の血を引く項羽と合流してその配下となり各地で戦いを繰り広げました。

やがて劉邦は項羽とたもとを分かち、劉邦と項羽の戦いとなり、垓下の戦いで項羽を追い詰め、項羽は烏江で自刎します。

こうして劉邦を高祖とする漢王朝が成立しました。

高祖・劉邦は、国内統治法として秦王朝が採用した「郡県制」つまり中央集権体制と、「郡国制」つまり一族や建国の功労者を王として各地に封建する体制を組み合わせて、漢という巨大な統一国家を治めることにしました。

「郡国制」では、漢建国に際して活躍した将軍たちをねぎらうため、王として各地に封じたのですが、建国するや劉邦はこうした建国の英雄たちを次々に滅ぼしていきました。王の治める国はほとんど独立国に近く、高祖・劉邦はこのままでは漢の土台がゆらぐと不安を持ったのではないかといわれていますが、劉邦の后・呂后の疑心暗鬼が元になったという説もあります。

「郡国制」は後に「呉楚七国の乱」という反乱を招き、その後廃止されて、国の統治法は郡県制に集約されました。

劉邦は即位10年ほどで亡くなり、その後呂后との間の息子・恵帝が即位します。

呂后は劉邦が寵愛した戚夫人その息子・如意を皇帝にしようとしたことを恨み、戚夫人にむごい仕打ちをしますが、戚夫人のむごたらしい姿を見た恵帝はショックのあまり政事を放棄してしまいます。

恵帝が若くして亡くなると、呂后は恵帝の血を引くとされた子供を帝位に就け、自分が実権を握ります。呂后は呂一族を高位に就け勢力を振るいますが、呂后の死後呂一族は、漢建国の功臣・陳平らに滅ぼされました。

呂一族が一掃された後は、高祖の子供の一人で、母親の一族が外戚として猛威を振るう可能性が少ないと判断された文帝が皇帝となり、文帝とその子・景帝による治世では国が安定し発展できたため、この二人の皇帝の時代を「文景の治」と呼びます。

景帝の次は第7代武帝の時代で、前漢は黄金期を迎えます。50年以上に及ぶ長い治世において、それまでに充分財力が蓄えられたところで武帝は対匈奴戦に打って出ました。中国大陸の北、モンゴル高原の雄・匈奴はしばしば中国の領土を侵し漢にとっては最大の外敵だったのですが、その武力には敵わず漢の代々の皇帝は忍の一字で下手に出ていたのです。

幸い武帝の寵姫であった衛子夫の弟・衛青やその甥・霍去病が将軍として天才的な働きを見せ、匈奴を北に追いやることができました。

匈奴との戦いはやがて漢の財政を圧迫し、前漢政府は、塩と鉄…前者は人間に不可欠であり、後者は農作業の道具を作るために不可欠である物資…の専売に踏み切りました。民間業者が莫大な利益を得ていたのですが、その販売権を国が独占するというものです。後に朝廷内で儒教の影響が大きくなると、民の利益を独占するのは如何なものかという意見が出てきましたが、背に腹は代えられず、塩と鉄の専売制度はその後も長く続きました。

武帝が亡くなった後は幼帝が立ち、それを補佐する霍光が実権を持つようになり、やがて霍一族が跋扈するようになりましたが、第10代宣帝の時代に霍一族は滅ぼされました。

宣帝の子供・元帝の時代になると朝廷内で儒教の神秘思想が影響力を持つようになりました。元帝の后・元后の外戚は王という一族でしたが、この外戚が羽振りをきかせるようになり、その一人が後に前漢を簒奪する王莽でした。

前漢最後の皇帝平帝は王莽によって命を奪われ、王莽は儒教の神秘思想を利用して政権を乗っ取ります。王莽は新という国を建てその皇帝となり、ここに前漢は滅びました。

王莽政権

王莽による政治は儒教をきわめて重視し、孔子が重んじた古代周王朝の制度を採り入れました。1000年も昔の制度が機能するはずもなく、社会は混乱をきわめました。

やがて山東では私憤に端を発した農民の乱が起き、政府軍と戦う際に相手と区別するために眉を赤く染めたために赤眉軍と呼ばれました。

湖北では流民が緑林に集まって緑林軍となり、河南の南陽では豪族たちが決起し、漢室の血を引く劉玄を更始帝として北上しました。のちに赤眉軍も緑林軍も更始帝軍に合流しました。

更始帝軍は都長安に進軍して王莽の命を奪い、更始帝軍から河北に派遣された、同じく漢室の血を引く劉秀はここを平定して自らも皇帝を名のり、年号を建武元年と改めました。

劉秀には兄がいましたが更始帝によって命を奪われ、劉秀はこれに耐えて機を見て自立したのでした。これが後漢を建てた光武帝です。

長安に入った更始帝は勝利にうつつをぬかして宴会三昧で過ごし、彼らに見切りをつけた赤眉軍に滅ぼされます。

その赤眉軍も長安では略奪の限りを尽くすばかりで、政権を建てるすべを知らず、後に劉秀軍に討たれて敗残兵は吸収されました。

後漢

こうして劉秀・光武帝によって後漢王朝(A.D.25~A.D.220…東漢とも)が建国されますが、全国各地には群雄が割拠し、皇帝を名のる者も多く、これら各地の豪族たちを平定するのに、光武帝は即位から10年以上の月日が必要でした。

内政において光武帝はまず奴婢と呼ばれる奴隷を解放しました。当時は豪族たちによって土地を失う農民が多く、王莽の政策はそれにさらに拍車をかけて、奴婢に転落する者が数多くいたのです。さらに戸籍や耕地面積の調査を行って国家財政の安定を図りました。

光武帝とその子・明帝、さらにその子供の章帝の時代は外戚に口を挟ませることのない厳格な態度を採り、内政も安定して後漢は建国前期に全盛期を迎えました。

その後の後漢王朝は皇帝が早くに亡くなり、結果的に幼帝の即位が多く、代わりに政治を執る外戚や宦官の跋扈を招くようになりました。さらには儒教を学んだ気骨ある官僚…士人が彼らに対抗し、三つ巴の争いになっていきました。

士人たちが宦官打倒を叫ぶようになると、宦官側は彼らを徒党を組んで悪事を働く「党人」と呼び、党人弾劾の上書を11代桓帝に出しました。

桓帝は激怒し党人を逮捕させるのですが、これが「党錮の禍」(とうこのか)と呼ばれる事件です。士人たちの間ではこれに対して、逮捕されることは名誉であるという風潮が生まれました。

この風潮に危機を感じた宦官は12代霊帝の時に第2次「党錮の禍」を起こし、これによりおおぜいの士人が命を落としました。

その後は宦官が権力を振るう時代となり、霊帝も官職を売買するような皇帝で、社会に腐敗の気が蔓延していきました。

政治や社会が腐敗していけば庶民の暮らしは苦しくなり、やがて「太平道」という病気治しの民間宗教が流行していきました。

張角という人物が立ち上げたこの宗教団体は、信徒が頭に黄色い布を巻いたので「黄巾軍」と呼ばれました。

184年に黄巾軍が後漢王朝打倒の旗を揚げ決起すると、後漢王朝は軍を派遣し、まもなく張角が病死して黄巾軍は瓦解しました。

189年に霊帝が死去、13代少帝が17歳で即位し、何皇后が皇太后として実権を握りました。

外戚の何進が宦官に命を奪われると、大将軍の袁紹が約2000人の宦官を滅ぼします。その後地方の将軍だった董卓が少帝を廃して献帝を立て、さらに何皇太后の命を奪うと自分が権力を振るうようになりました。

董卓は残酷極まりない人物でしたが、後に呂布に滅ぼされ、その後董卓誅滅をめざした群雄が全国に割拠し、そこから曹操、劉備、孫権が頭角を現し、やがて三国志の時代を迎えます。

220年に後漢王朝ラストエンペラー14代献帝が魏の曹丕に帝位を禅譲し、後漢は滅亡しました。

後漢時代は前代のように国家が経済に関わる動きは弱まり、塩と鉄の専売制度も一時を除き廃止されました。国家より地方豪族たちの荘園経済が発展し、自給自足経済になっていきました。貨幣経済から実物経済になり、税金や給与も貨幣ではなく、布や穀物が代わりに使われるようになりました。

「漢」の意味

漢水
漢水。

漢の名は、劉邦が秦の滅亡後、漢水(長江の支流)の流れる漢中と巴蜀に封じられ「漢王」を名のったことに由来します。漢族や漢字、漢民族、また日本で使われる漢文や漢詩といった言葉における「漢」は、広く中国を意味する言葉として、今に至るまで使われ続けてきました。その後王朝が代わっても「漢」の文字は中国を意味するものとして使われ、漢王朝は中国人にとって、ある種のシンボル的存在であることを伺わせます。