竹林の七賢の解説【阮籍/嵆康/山濤/劉伶/阮咸/向秀/王戎】

竹林の七賢

竹林の七賢とは、魏の末期から晋にかけて存在した7人からなる文人のグループのことです。彼らは世間の規範、特に儒教の礼教・名教思想の桎梏から自由になり、隠者的な思想や行動、特に道家老子荘子、神仙思想などを理想として生きました。

竹林の七賢とは

竹林の七賢(ちくりん の しちけん)とは、魏末期から晋にかけて存在した7人からなる文人のグループで、世間の規範から自由で隠者的な思想や行動を理想として生きた以下の人々のことです。

阮籍(げん せき…210~263)

嵆康(けい こう…224~262?)

山濤(さん とう…205~283)

劉伶(りゅう れい…221?~300?)

阮咸(げん かん…生没年不詳)

向秀(しょう しゅう…生没年不詳)

王戎(おう じゅう…234~305)

阮籍は、気に入らない人は白目でにらみ、気に入った人には黒い目をちゃんと向けて見たという人で、この行動は「白眼視する」という熟語になっています。

嵆康は、魏の重臣がやってきても相手にせず、不愉快になった重臣に「官職につかず人を馬鹿にしている人間は無用である」として命を奪われてしまいました。

山濤は、晋の司馬一族の親戚で、中年以降司馬氏に仕えて出世しましたが、嵆康が刑死の際はその息子の将来を頼まれました。

劉伶は、大酒飲みの偏屈で、人付き合いを好みませんでしたが、阮籍、嵇康とだけは打ち解けたといいます。

阮咸は、阮籍の甥で同じように偏屈でしたが、琵琶の名手で、楕円形の形の琵琶は今も「阮咸」と呼びます。

向秀は、嵆康と仲が良く、何にもとらわれない生活をしていましたが、読書が好きだったので嵆康には馬鹿にされていました。後に『荘子』の注釈を書いて評価されました。

王戎は、年の離れた阮籍と気が合い、よく竹林で遊びました。魏や晋に仕え、出世しました。

この中で阮籍と嵆康がリーダー的な存在と見なされています。

この7人はいつも竹林の中で酒を飲みながら、哲学的宗教的な議論…いわゆる清談…を交わしたといわれ、多くの詩文が残っています。

ところが史実としては、彼ら数人ずつは知り合いではありましたが、7人が全員集まって議論を交わしたということはなかったようです。

後に『魏氏春秋』という魏の歴史書が書かれ、その中で上記7人をまとめて「竹林の七賢」と呼び、それがだんだんと世間に広まっていきました。

この7人は最年長の山濤と最年少の王戎とでは年齢差が30歳近くあり、また隠者として生きた人もいれば、時の王朝で首相を務めた人もいて、一つのグループとして行動していたと見るのは無理があるようです。

竹林の七賢それぞれは実在の人物であり、『世説新語』(せせつ しんご…南北朝の宋代に編纂された小説集。後漢末から東晋にかけての有名な人物のエピソードが書かれている)にも彼らのエピソードが取り上げられていますが、「俗世を離れて竹林で清談をした7人の隠者」というイメージは世の人々の願望が投影されたものかもしれません。

年表
年表。竹林の七賢は魏末期~晋にかけて活躍しました。

「竹林の七賢」と時代背景

竹林の七賢が生きた時代は後漢末から三国志の時代、さらには晋が魏から権力を奪って西晋に、やがて長江の南に移って東晋になったという激動の時代です。

後漢末は宦官、外戚、「気骨の士」と呼ばれる官僚による三つ巴の激しい権力闘争の時代で、「党錮の禍」によっておおぜいの知識人が命を落としていました。

それに加えて疫病の大流行などもあり、人生の短さやその短い人生の中での運命の過酷さを人々に感じさせずにはおかない時代でした。

後漢の皇帝でさえ40歳を越す寿命は稀で、曹操の魏の時代も皇帝は短命でした。

詩文にも長けた曹操は、『短歌行』の中で

「対酒当歌 人生幾何 譬如朝露 去日苦多」(酒があればおおいに歌え 人生などあっという間だ たとえるなら朝露のようなもの 去る日々には恨みが多い)

と歌っています。(「苦」の意味には諸説あり)

この時代うっかりしたことを言おうものなら権力者によって簡単に命を奪われてしまいます。

また晋の時代、特に東晋の時代になると儒教の名教(名分と教化)・礼教イデオロギーによる思想や行動に対する締め付けが厳しくなりました。

こうした時代の空気から逃れ、イデオロギーから逸脱して自由気ままに生き、老荘思想にあこがれたのが竹林の七賢たちでした。

彼らは皆大酒飲みで、「飲酒」は竹林の七賢たちの生活スタイルに不可欠であり、時代への抵抗の表れでもありました。

竹林の七賢のエピソード

竹林の七賢は個性的なメンバー揃いで、いろいろなエピソードが残っています。

阮籍

「白い目で見られる」「白眼視する」という言葉がありますが、この言葉の語源は阮籍の行為が元になっています。

阮籍という人は世間の価値観に合わせて生きる俗人が大嫌いでした。そこでそういうヤツが来ると彼は白目をむいて口もきかず、そうでないと青眼…黒い目…で応対したといいます。

母親の葬儀には肉や酒を口にしてはならないという礼教のおしえがあるのですが、そんなことは無視。そうでありながら大量の酒を飲んだ後に大量の血を吐いて母の死に慟哭したとあります。

彼は心情のままに動き、他から無理やり押し付けられる儀礼が嫌でたまらなかったのでしょう。こうした態度は時の権力者の前でも変わりませんでした。

嵆康

嵆康はイケメンとして有名で、それだけでなく雰囲気も颯爽としており、その姿は高山にすっくと立つ松の木のようだったと書かれています。ところが身なりにはまったくかまわず、顔などは半月も洗わなかったそうです。

彼は文人でしたが鍛冶屋の仕事が好きで、それで糊口をしのいでいました。

ある時魏の重臣である鐘会が、嵆康の評判を聞いて会いにきました。ところが嵆康は鉄を打つ手を休もうともしません。鐘会は不愉快になりその場を立ち去りました。

そこで嵆康が「何を聞いてやってきたのだ?何を見て立ち去ったのだ?」とからかって問うと、鐘会は「聞くところのものを聞いたから行ったのだ。見るところのものを見たから帰ったのだ」と返事をしました。

のちに嵆康は「嵆康は天子にも王侯にも仕えず、時を軽んじ、世に驕り、物用をなさず、今において益なく…」と鐘会から難癖をつけられ、命を奪われてしまいました。

阮咸

嵆康は古琴の名手でしたが、阮咸は琵琶の名手で、楕円形の形の琵琶を今も「阮咸」と呼びます。

彼は西晋の名家の出身で、阮籍の甥です。

阮咸もまた阮籍に劣らず、なかなかの変わり者で、名家の出身ですからそれなりの家の令嬢と結婚することを求められましたが、彼が好きになったのは伯母のところで働く鮮卑人の小間使いでした。鮮卑人とは中国大陸の北方にいた遊牧騎馬民族で、後に「北魏」を建国しました。

母親の葬儀の日にやってきた伯母に、さっそくこの娘を嫁にしたいと告げますと、伯母はその場ではOKしたものの後に心変わりして、葬儀が終わるとこの娘を連れて帰ってしまいました。

これを知った阮咸は喪服姿のまま、客が乗ってきたロバで追いかけて娘を取り戻し、帰りは二人仲良く同じロバに乗って帰ってきたそうです。

また阮一族はみな同じ地域で暮らしていましたが、町の北側はお金持ちの阮一族、南側は貧乏な阮一族でした。阮咸は貧乏な南側で暮らしていました。

北側では洗濯物を干す時にこれ見よがしに豪華な衣装を干し、南側は笑われるのが嫌で洗濯物一つ干せません。それを見た阮咸は、わざわざ自分の粗末な下着を堂々と干したといいます。

こうして彼らのエピソードを読んでみると、哲学者然、思想家然としたエライ人というより、偏屈で面白い人たちという印象です。

偏屈すぎて子供っぽい感じもしますが、そこまでむきにならないと岩盤のような当時の名教イデオロギーには太刀打ちできなかったのかもしれません。

「清談」とは

「竹林の七賢」と「清談」は切り離せませんが、では清談とは何かというと、後漢末期に盛んだった「清議」という政治的な人物評論の流れを汲み、そこから政治色を薄めた議論のことです。

主なテーマは人性と才能についてでしたが、やがて逃避的な哲学、宗教論議となっていきました。議論のバックボーンにあったものは道教、老荘思想、神仙思想でした。

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