諸子百家【春秋戦国時代に現れたさまざまな思想家たち】

諸子百家

諸子百家しょしひゃっかとは、春秋戦国時代に現れたさまざまな思想やその思想を考えた思想家たちのことを指します。儒家墨家をはじめとして、この時代はさまざまな思想が百花繚乱とばかり咲き誇りました。

諸子百家とは

諸子百家とは、春秋戦国時代(BC.770~BC.221)に現れたさまざまな思想や思想家たちのことを指します。「子」は「先生」、「百」は「数が多い」という意味です。

春秋戦国時代、特に下克上、弱肉強食の戦国時代に入ると、諸国は生き残りをかけて富国強兵策を採り、それに役立つ策を求めるようになりました。

中国はこの時代まだ統一されてはいませんでしたが、各国の人々は自由に往来することができ、ある国の思想家が別の国に行ってそこの政治に参画することも珍しくはありませんでした。

こうした時代を背景にさまざまな思想家や思想が現れ、これを「諸子百家」、またこうした思想が次々に咲き誇るさまを「百花斉放」(ひゃっか せいほう)、さまざまな思想家どうしが論争するさまを「百家争鳴」(ひゃっか そうめい)と呼んでいます。

中国の歴史において空前絶後の「学問・思想の黄金時代」、これが今から二千数百年近い昔に存在していました。

「諸子百家」と呼ばれるものとしては古代のいろいろな文献がさまざまな取り上げ方をしています。

今日では、『漢書』芸文志(かんじょ げいもんし)が挙げている儒家墨家(ぼくか)・道家・名家・法家・陰陽家・農家・縦横家・雑家・小説家の10家に兵家を入れて11家を指すのが一般的です。

ちなみに中国では、『漢書』芸文志が挙げる10家のうち小説家を除いた9の思想学派を「九流」と呼びます。ちなみに現代中国語で「三教九流」といえばいろいろな職業の意味になります。

年表
年表。諸子百家は春秋戦国時代に存在した思想家たちのことです。

諸子百家が生まれた時代

西周が滅亡し、王室を東の洛邑(らくゆう)に移した後の時代を「春秋時代」と呼びます。この名称は、孔子が編纂したといわれるの国の記録『春秋』という書物に依りますが、魯の国の記録はBC.722に始まりBC.481に終わっています。

実際の春秋時代は、BC.770東周の平王の即位の年から始まりますが、春秋時代の終わり、つまり戦国時代の始まりには諸説あります。

晋の貴族だったの3氏が下克上によって晋を乗っ取り、それぞれの国を建てたBC.403という説、司馬遷の『史記』に基づくBC.475という説などです。

春秋時代の地図
春秋時代の地図。

いずれにしろこの頃にはかつてあった階層…周王を頂点とした諸侯-卿-大夫-士-庶人という階層は頂点から揺らぎ、諸侯は周王を軽視し、卿大夫は君主である諸侯を脅かし、下級官吏である士が実力を持つようにもなりました。

また諸侯国どうしも弱肉強食の時代を迎え、どの国も生き残りを図って富国強兵策を求めました。

こうして学問や思想などに優れた者は士や庶人など社会の下層に位置していても、能力次第では諸侯に名が知られるような存在になっていきました。

彼らは各国を遊説して歩き、自説を説いては君主たちに任用を求めるようになりました。こうした人々を「遊客」「説客」「縦横家」などと呼びます。

の宣王の時代、斉の首都・臨淄(りんし…現在の山東省淄博市)は当時の中国最大の都市でした。人口60万を数えたといわれ、繁栄した様子が今も伝えられています。

この都市にあった稷門(しょくもん)と呼ばれる城門のそばには学者の町があり、各国からすぐれた学者や思想家が招かれて高給と高い地位を保証されここに住んでいました。

その見返りとしては学問に励み、他の学者たちと討論を交わして思想を深めるということで、彼らは「稷下の学士」と呼ばれていました。

「諸子百家」はまさにこうした環境から育っていったのです。

国庫のお金で彼らを優遇した斉の宣王のネライは何だったのか。おそらくは有能の士を斉に囲いこむことだったのでしょう。

諸子百家のいろいろ

それでは以下に諸子百家と呼ばれる人々やその思想を簡単に紹介しましょう。

儒家(じゅか)

儒家の代表は孔子ですが、孔子以前から「儒」は存在しました。「儒」とは一般に「葬儀を扱う祈祷師」を意味しました。孔子の母もそうした祈祷師の一人だったといわれています。

孔子以後の儒を「儒家」と呼びます。孔子は教養ある人格の高い「儒」をめざして修養を深めました。

孔子の教えを受けた門人たちは、その後各国で官吏となり活躍していきました。

戦国時代の初めごろからは「儒家」として信念を持った集団となり、それがやがて大きく発展していきます。

儒家は秦王朝では「焚書坑儒」など迫害に遭いますが、漢王朝、特に武帝の時代になると儒家の地位は確立し、国家的な保護を受けるようにもなりました。

儒家から出た人物としては孔子のほか、孟子荀子などがいます。

墨家

墨家(ぼくか)とは戦国時代に墨子(ぼくし)によって始められた学派です。

墨子はBC.479頃に宋または魯に生まれたといわれています。

「兼愛」「節用」「尚賢」「非攻」など、儒家とは異なる思想体系を作り上げ、戦国時代に儒家と並ぶ二大思想となって社会に影響を与えましたが、秦・漢の時代になると衰退していきました。

一つの思想に共鳴して集団を作っていったものは、諸子百家の中では儒家と墨家だけです。

道家

道家(どうか)は、儒家や墨家と異なり、この名を持った固有の思想グループがあったわけではありませんが、春秋戦国時代に道家は儒家・墨家と並んで大きな思想グループの一つとなっていました。

戦国末期から前漢の初めにかけて道家は「黄老の学」として一つの学問となります。

道家の思想は老子から始まります。老子が「道」を重んじたため「道家」と呼ばれるようになりました。

老子の思想は荘子によってさらに展開されていきました。

老子・荘子という人物についてははっきりしたことがわからず、特に老子は実在も疑われています。二人の思想には共通点が多く、「老荘」と並べて呼ばれています。

戦国末期から前漢初期にかけ、老子の思想は黄帝に始まるといわれるようになりました。

黄帝は中国の伝説で最古の天子ですが、その治世は「無為にして治まった」といわれており、老子もまた「無為」を重んじたため「黄老」と並べて呼ばれるようになったのです。

やがて道家は思想というより信仰・宗教になっていきました。これを「道教」と呼んでいます。

名家

名家(めいか)は、名(言葉や名称)と意味との論理関係などを追求する考え方、またそうする人々をいいます。

特定の集団があったわけではありません。公孫竜(こうそんりゅう)や恵施(けいし)がその代表です。

名家は詭弁派と呼ばれることもあります。

こうした思想が出てきた背景には、言葉に頼る説得が重視されるという時代背景があります。諸国の間の交流が盛んになり、使っている言葉の定義が一致しないという状況が増える中で、言語とその意味を検討する必要が出てきました。

やがて詭弁(ウソの推論を正しいかのように見せる)に陥り、論理学・言語学・哲学に発展する可能性を持つ学派ではありましたが、その深みに達することはないまま、秦の統一以降は消えていきました。

名家が出した有名な命題に「白馬は馬にあらず」というものがあります。「白馬がいるなら、馬はいないとはいえない」なら「馬がいれば黄馬がいるといえるか」に始まり、当時から賛否両論を集めた命題です。

法家

法家(ほうか)とは、法によって国を治める法治主義を主張する学派のことです。

初期の法家としては春秋時代の管仲(かんちゅう)や子産(しさん)、前期法家としては呉起(ごき)、商鞅(しょうおう)、申不害(しんふがい)、後期法家としては韓非子が、それぞれ代表的な人物です。

法家は人間性悪説の立場に立って、冷酷なほど厳しい法治を求めました。始皇帝は韓非子からの多大な影響を受け、また韓非子と同窓の法家・李斯を宰相として、法家の理論にのっとった国造りをしました。

陰陽家

陰陽家(いんようか)とは、万物の生成や変化はすべて陰と陽2つの気の作用によるものであるという考え方を信奉する学派あるいは人のことを指します。

陰と陽の2気によって自然界の変化が起き、この働きを知ることで政治や社会、人生の吉凶を予知判断できるとしました。

この陰陽思想は殷や周の時代にも盛んに行われていましたが、文献に残るものとしては戦国時代からです。

陰陽説は五行思想と結びついて発展し、漢代には宮廷に役所が置かれて政治にも利用されるようになりました。また陰陽説が持つ神秘性は道教に取り入れられ、大衆の生活の中に根付いていきました。

日本でも6世紀ごろから政治の中に取り入れられ、天武天皇は「陰陽寮」(おんみょうりょう)という役所を置きました。日本では「陰陽」を「おんみょう」または「おんよう」と読ませます。

陰陽説は宗教化されて天皇や貴族、一般庶民に到るまで広く信仰されました。陰陽寮に属する陰陽師(おんみょうじ)として今も有名な存在に、平安時代の安倍晴明(あべのせいめい)がいます。フィギュアスケート金メダリストの羽生結弦選手は、安倍晴明をテーマとしてオリンピックの舞台で滑っています。

農家

農家(のうか)とは、農業が国家の基本であるという考え方です。

春秋時代の管仲(かんちゅう…春秋時代の斉の政治家で、桓公に仕え、これを覇者にした功労者)と許行(きょこう…戦国時代の人)が農家の代表的な人物です。

管仲は、富国強兵のためには農業を充実させるべきだと主張しました。

許行の言動は書物には残されていませんが、『孟子』などにその言行、思想が引用されています。彼は農業と手工業による原始的な共産社会…私有制がなく経済的に平等な小規模社会…を理想にしていたといわれます。

農家は代表的諸子百家「九家」に含まれていましたが、やがて農業に関するジャンルの著書がみなここに分類され、雑多なジャンルになっていきました。

縦横家

縦横家(じゅうおうか・しょうおうか)とは、諸国の間を富国強兵策や外交政策などについて遊説して回っていた人のことです。彼らは他の諸子百家のような思想家というよりは、雄弁を売り物にした人々です。

秦をめぐって連合しこれに対抗する「合従策」を唱えた蘇秦、秦が他国を個別に撃破していく「連衡策」を唱えた張儀が縦横家の代表です。

雑家

雑家(ざっか)とは、戦国末から前漢初にかけてできた学派のことで、『漢書』芸文志では「儒家・墨家・名家・法家を兼ね合わせたもの」としています。

つまり「雑家」という一つの思想を持った学派のことではありません。いくつかの思想を採り入れて、それらを折衷した学派のことです。

また他に分類できないものを「雑家」として入れられたりもしています。

『呂氏春秋』『淮南子』(えなんじ)などが「雑家」に分類されています。

小説家

小説家(しょうせつか)とは、何らかの思想ではなく、神話・伝説・民話・寓話のたぐいをいいます。

もともと「小説」とは「取るに足りないつまらない話」という意味でした。

『荘子』には多くの寓話が、『韓非子』には自説を補強するたとえとして歴史上のエピソードがよく取り上げられていますが、このような寓話や史話を小説と呼びます。

『漢書』芸文志では諸子九家に小説家は入っていません。

中国の四大奇書といわれる『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅』も文語体ではなく白話体(口語)で書かれているため、小説家には入れません。

唐代以降の随筆は小説に入ります。

兵家

兵家(へいか)とは、戦争における戦術や戦略について説くものです。

兵家の代表的な理論としては現代日本でもよく知られている「孫子の兵法」があります。代表的な理論家としては「孫子の兵法」の著者・孫武、その百年後の子孫・孫臏(そんぴん)等がいます。