シルクロードの歴史とオアシス国家群

シルクロード

シルクロードとは一般に中央アジアの砂漠地帯にある中国と中東、ヨーロッパを結ぶ道のことで、紀元前からこの道を通って、またここに存在したオアシス国家を通して東と西の交易や文化の交流が行われました。ここではシルクロードとはどんな道だったのか、どのような人々がこの道を切り開いていき、どのような交流が行われたのか、前漢の時代を中心に紹介していきます。

シルクロードとは

敦煌にある月牙泉

シルクロード(絹の道)とは、中央アジアの砂漠地帯に伸びる、中国とヨーロッパを結ぶ道のことで、中国語でも“丝绸之路”(絹の道)といいます。

私たちがよく耳にするこの名は実は昔からあったわけではなく、19世紀にドイツの地理学者が地図帳を作成する際に名づけ、それが世界に広がったものです。

いったいこの道はいつ作られたのでしょうか?そして絹という名がついているのはなぜ?

ここでは前漢時代を中心に古代のシルクロードについて紹介していきます。

40年ほど前にNHKが中国の協力を得て『シルクロード』というドキュメンタリー番組を制作放映しました。この時主題曲として流れたのが、喜多郎によるシンセサイザー音楽で、この曲なら知っているという人も多いことでしょう。

この番組は今でもNHKのオンデマンド番組として見ることができますが、この番組で見る限りシルクロードという名前の道は、実は道ではなく、恐ろしいほどの見渡す限りの砂漠のことだったという印象が残ります。

実は中央アジアにあるとされるシルクロードは中央アジアを貫く一本のまっすぐな道ではありません。そこには一面の砂漠と点在するオアシスがあり、かつてラクダに乗ったキャラバンがそこを、たとえば遠くに見える仏塔遺跡などを目印にしてひたすらに歩き…大勢の人が歩き続ければ踏み固められていずれは道になるのでしょうが、砂漠では歩いた場所はたちまち流砂に飲み込まれ消えていきます。

砂漠の中の道なき道を、ラクダの背に乗ってオアシスから次のオアシスをめがけ命がけで辿った…ある者はこっちの道を、またある者はあっちの道を…ある道は次の旅人に伝えられ、ある道は砂の中に消えていき…こうした道なき道の集積こそが「シルクロード」の本当の姿なのです。

敦煌近郊の砂漠

シルクロード(絹の道)の名前の由来

絹に包まれた繭
絹に包まれた繭。

シルクロード」のシルク・絹は何を意味するのでしょうか。

絹はBC.2250~BC.3310頃、長江下流の良渚(りょうしょ)文化時代に初めて生産されました。

良渚文化時代とは、古代中国で最初に思いつく始皇帝時代よりはるか昔、中国最古の王朝といわれる夏王朝より昔ですから、いわばかなり原始的な暮らしをしていた時代です。その頃すでに中国大陸の南方に住む人々は、桑の葉で蚕を飼い、蚕が繭を作るとその繭から糸を取り、その糸で絹織物を織るということを始めていたのです。ちなみにこの製法は現代でも基本的に変わりません。

絹、シルクは光沢があり、すべらかで実に美しい布です。

中国のこの絹は西域…中国大陸の西、現新疆ウイグル自治区と更にその西一帯のオアシス諸国の人々にも大変人気がありました。

西域の地図
西域の地図。

そうした国の一つ、ホータン(現 新疆ウイグル自治区)には中国から絹の製法が伝わったある伝説が語り継がれています。

あるとき中国の公主(皇帝の娘)がホータン王に嫁入りすることになりました。花婿のホータン王は中国の花嫁に、嫁入りの際こっそり繭玉を持ち出すよう頼みました。当時中国では繭玉を国外に持ち出すことは禁じられていたのです。そこで公主は繭玉を頭に載せた冠に隠して持ってきた…という伝説です。

20世紀初頭のイギリスの探検家オーレル・スタインは西域探検の際、この伝説を木に描いた絵を砂漠の中から発見します。ホータン国にとって絹製法の伝来は絵に描いて残すほどの大事件だったことが伺われます。

絹は、中国と西域国家との交易では貨幣代わりに使われてもいました。

西域に置かれた中国の駐屯地に派遣された兵士には、本国から貨幣代わりに絹が送られてきました。兵士たちはこの絹の貨幣で現地の人々から生活用品を買い入れていたのです。

シルクロードの西側から、つまりエジプトとかヨーロッパなどから中国を眺めた時も、中国といえば絹だったようです。もちろん当時「中国」という国名は存在していません。インド人がサンスクリット語で中国を呼んだ名前は「チーナ」。これは秦朝の秦(原音…チン)から来ています。このチーナはその後China(チャイナ)となり、今も中国は英語ではこう呼ばれています。

エジプトの商人が紀元1世紀に『エリュトゥラー海案内記』という文章をギリシア語で書いており、その中で中国についてこう触れています。

「…はるかかなたのどこかで海洋が終わり、そこにThinaと呼ばれる大きな内陸の都市がある。そこからは絹糸、織り糸、生地が陸路とガンジス川を通って運ばれる。このThinaに到達するのは簡単ではない。あちらからやってくる者もめったにいない」

このThinaが中国です。この商人はサンスクリット語の「チーナ」を耳にし、これをThinaと表記して、やがてこの名称が元となり「チャイナ」「チーナ」「シーヌ」など「中国」を意味する名前として世界に広がっていきました。

このThinaについて書かれた上記の文章を読むと、中国がはるか昔から絹と結びつけられていたことがわかります。

「シルクロード」とは、この道を通って行われた「絹の国・中国」と「絹」の交易を行ったことにちなんだ名前です。

中国のコロンブス…張騫とシルクロード

西の果てに住む人々の東の果てへのまなざしが感じられるシルクロードという言葉ですが、逆に東の果て、中国側ルートからのシルクロードの発見者は張騫という前漢の役人です。

もちろん張騫以前にも西域の商人たちは中国大陸に入ってきており、たとえば、殷王朝の王妃ともいわれる「婦好」という女性の墓からはシルクロードのオアシス国家・ホータンの玉が発掘されており、中国は殷の時代からシルクロード諸国と行き来があったことがわかります。

婦好の墓
婦好の墓。シルクロードでの交易品が発掘されました。

けれどもそうした自然な細々とした交流ではなく、中国の王朝が正式に西域と自覚的に交流を始めるきっかけを作ったのは、前漢の武帝に仕えた張騫でした。

ところで中国大陸の漢族はかなり古くから、匈奴というモンゴル高原にいた遊牧民族の侵略に悩まされてきました。

遊牧民は定住せず、羊や馬などの家畜を放牧しながら移動して暮らしています。過酷な自然の中で暮らす彼らにとって生活物資はいつも不足ぎみで、匈奴はしばしば農耕民族である漢族の土地に入り込んでは農民を拉致し生活物資などを略奪していきました。こうしたことが原因で、匈奴と漢族は古くから争いを繰り返してきました。

匈奴の戦い方は自在に馬を乗りこなして弓矢を放つというもので、この機動的な戦い方に漢族たちは苦労してきました。漢族にとって馬は戦車を引くものであって、彼らに馬にまたがって戦うという習慣はありませんでした。また中国の馬は貧弱で、匈奴の馬に比べて見劣りがしました。

前漢の創始者・高祖劉邦は匈奴との戦いで敗北し、命からがら逃げ帰っています。劉邦はこれにだいぶ懲りたようで、以後「匈奴とは戦うな」と言い残しています。

前漢王朝はこの劉邦の遺言を守り、匈奴にはずっと低姿勢で、皇女を匈奴の王に降嫁させるとか、貢物をするなど屈辱的な関係を続けてきました。

前漢の第7代皇帝である武帝は16歳という若さで帝位に就きますが、英邁で覇気ある帝王でした。彼は高い文明を誇る漢族が匈奴という蛮族にずっと低姿勢を強いられていることが我慢なりません。

幸い武帝の元には有能な将軍たちがいました。寵愛する側室の弟である衛青将軍やその甥である霍去病です。武帝は軍事的才能に恵まれた彼らを使って匈奴攻略に乗り出し、大成功を収めます。

戦いには勝利しているのですが、武帝は匈奴の馬と漢の馬を比べ悔しい思いをしていました。畜舎で飼料を食べて育つ漢の馬は、牧草を食べ草原を駆け巡って育つ匈奴の馬に比べて体が小さいのです。これが対匈奴戦では大きな弱点になっていました。

「良馬がほしい」…これは武帝の切なる夢でした。この夢が、張騫がシルクロードを発見し、その最初の開拓者になる伏線となりました。

武帝の茂陵にある汗血馬の石像
武帝の茂陵にある汗血馬の石像。武帝は良馬を欲しがっていました。

さてある時武帝は匈奴の捕虜から耳よりな話を聞きます。

匈奴はモンゴル高原に国を築いていましたが、その西隣に月氏(げっし)という大国がありました。匈奴の王・冒頓単于(ぼくとつ ぜんう)はこの月氏を滅ぼし、月氏の一部はその後中央アジアの西に移動し、大月氏(だいげっし)を建てました。

月氏を滅ぼす際匈奴は月氏の王を討ち取ってその頭蓋骨を酒器にしたため、月氏は匈奴を深く恨んでいました。

匈奴の捕虜はこのことに触れて「大月氏は匈奴を滅ぼすために挟み撃ちにする相手を探しているそうです」と述べたのです。

武帝はこれに膝を打ち、これぞ匈奴を滅ぼす良い手だと乗り気になります。

さっそく大月氏国に使者を送りたいと思い、臣下に「誰か西域の大月氏国まで使者として行く者はおらんか」と公募しますと、張騫という下級役人が手を挙げました。そこで武帝は張騫に百人ほどの部下をつけ、西域にある大月氏国に送り出しました。

西域は当時匈奴の勢力下にあります。張騫はたちまち匈奴に捉えられ捕虜となってしまいました。やがて10年という月日が経ち匈奴の監視がゆるんでくると、張騫はそのスキを狙って脱走し、大宛(現地音:フェルガーナ)というオアシス国家にたどり着きます。

大宛はかねがねと交易をしたいと思っており、漢の使者張騫を丁重にもてなした上、彼を康居という別の国に送り、この康居が張騫を大月氏国に送り届けました。

張騫は大月氏国に着くと、匈奴を挟み撃ちする件について話し始めましたが、当の大月氏国は西に移動して大夏(バクトリア)という豊かな土地を占領し、かつての恨みをすっかり忘れ、漢とともに匈奴と戦おうという意思を持ってはいませんでした。

そこで張騫は仕方なく漢に戻ろうとするのですが、途中再び匈奴に捕まってしまいます。またしても監視される生活が続きましたが、匈奴の国内では内紛が起こり、このゴタゴタのスキに張騫は再び脱走に成功して長安に戻ることができました。

漢を出て13年、供の家来は100人からたった一人になっていました。

こうして張騫は武帝に託された使命を果たすことができませんでしたが、この冒険旅行で西域の様子をつぶさに眺め、また西域各地に散らばるオアシス国家の情報や、遠くシリアやローマの話まで耳にすることができました。

帰国後武帝に召された張騫はこうした情報を逐一武帝に伝え、武帝はこの話に胸躍らせました。

西域と交易をしたいものだ…そして天馬の子孫であるという西域の駿馬を手に入れたい…そうすれば匈奴の騎馬兵どもを蹴散らすことができるであろう。

軍事と交易…この二つの面における武帝の野心が、この後中国側からシルクロードを切り開いていきます。このきっかけを作ったのが張騫の命がけの冒険旅行であり、彼が中国のコロンブスといわれるゆえんです。張騫こそが当時の中国にとっての未知なる世界…「シルクロード」を中国側から発見したのでした。

シルクロード・オアシスルート

「シルクロード」という概念は近年拡大され、典型的なシルクロードである、中央アジアの砂漠をオアシスを伝って横切る「オアシスルート」のほかに、モンゴル→シベリア→南ロシアのステップ地帯へと辿る「ステップルート」や東南アジア→インドに至る「南海ルート」もシルクロードと呼ぶようになっています。

というのも、近年ロシアやインドなどから漢代の絹が発見されているからです。つまり古代中国は北方ユーラシア地域やインドとも絹の交易を行っており、こちらにも「絹の道」が開かれていたということになります。

ここでは代表的な「シルクロード」つまり「オアシスルート」を紹介しましょう。

漢の都・長安からシルクロードを目指す時まず河西回廊を横切ります。

前漢の地図
前漢の地図。地図左上の長い一帯が河西回廊です。

河西回廊とは、北はゴビ砂漠、南は青海省の山脈の間を東西に延びる1000キロの細長い地域です。

この地域は元匈奴の本拠地でしたが、武帝時代に霍去病という天才的な若き将軍の活躍で漢の手に落ちていました。

敦煌
敦煌。

この河西回廊を横切ると現・甘粛省の敦煌です。敦煌は仏教経典をおさめた莫高窟で有名なオアシスの町です。

カシュガル
カシュガル。

敦煌からはタクラマカン砂漠の北回りルートと南回りルートがあり、このどちらもカシュガルというオアシス都市で合流します。カシュガルは現在新疆ウイグル自治区に属する県です。

ちなみに「新疆」とは「新しく国土となった場所」という意味で、清朝が18世紀にこの地域を征服したことでこう名付けられました。

今新疆ウイグル自治区と呼ばれる広大な地域は、「新疆」と呼ばれる以前「西域」と呼ばれていました。また欧米では東トルキスタンとも呼ばれています。

タクラマカン砂漠
タクラマカン砂漠。

砂漠を迂回する北回りルートと南回りルートの真ん中はタクラマカン砂漠です。

ここを横切る中央ルートもありますが、このルートはまさに命がけの過酷なルートです。

パミール高原
パミール高原。

この砂漠を渡り切るとパミール高原です。パミール高原の平均高度は海抜5000メートル。ここから東北に向かえば天山山脈、南に向かえば崑崙山脈、カラコルム山脈、ヒマラヤ山脈、西南に向かえばヒンドゥークシュ山脈がそびえ、まさに地球の屋根というべき場所です。

サマルカンド
サマルカンド。

パミール高原から更に先に行く旅人は、あるいは西のサマルカンド(現ウズベキスタンの首都)に向かい、あるいは南下してインドに向かいます。

さらにもっと西に向かえばイラン・イラク・地中海、そしてシルクロードの西の終着駅ともいうべきローマにたどり着きます。

長安からサマルカンドまでは約3600キロ。この全行程を踏破した人間はほとんどいないと言われています。

マルコ・ポーロはヨーロッパから中国まで陸路を横断したと言っていますが、これが事実かどうかははっきりしません。帰りは海路を取っていますから、行きも途中までは船だったのかもしれません。

かつてのシルクロードの旅人のほとんどは商人、彼らはオアシスからオアシスまでおおよそ500キロをラクダに乗って旅しました。この距離がおそらくは人間がこのきわめて厳しい道を行く限界だったのでしょう。

『西遊記』で有名な三蔵法師のモデル・玄奘三蔵は7世紀唐の時代に、河西回廊から高昌国(現トルファン)に向かい、そこから砂漠を迂回するオアシスルートを辿って中央アジアを歩き、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに着いています。玄奘27歳、唐に戻ったのは43歳、この厳しい行程を徒歩で踏破するギリギリの年齢でしょう。

楼蘭の遺跡とさまよえる湖「ロプノール」跡を発見したスウェーデンの探検家ヘディンは、1895年、タクラマカン砂漠に入って15日目には水が尽き、隊員4人のうち2人を失っています。20世紀が間近だった当時でもタクラマカン砂漠の探検は命がけであり、現代の宇宙旅行に近いものでした。

1980年に放映されたNHKの『シルクロード』でも、撮影隊がタクラマカン砂漠で道を見失う場面が出てきて、砂漠の恐ろしさが伝わってきます。

張騫が伝えるシルクロードのオアシス国家

シルクロードのオアシス諸国家については、張騫が武帝に詳しく報告し、その内容は『史記』西域伝に書かれています。以下にそれぞれの国に関する『史記』の記述を紹介し、説明を添えます。

大宛

フェルガナ
フェルガナ。

「大宛(フェルガナ)は匈奴の西南、漢の真西一万里にある。稲や麦を植え、葡萄酒があり、良い馬が多い。馬は汗血馬(血の色をした汗を流すという馬)で、先祖は天馬の子。城郭都市で、数十万の人口。北に康居、西に大月氏(ソグディアナ)、西南に大夏(バクトリア)など」。

天馬については、『漢書音義』に以下のような説明があります。…大宛国に高山があって馬がいるが捕まえることはできない。五色の雌馬をその下におくと、やがて汗血馬が生まれる。そこでこの馬を天馬という…

武帝はこの汗血馬が欲しくて、二度も大宛に遠征軍を送っています。

烏孫

イシク・クル
イシク・クル。烏孫はこの湖周辺を拠点としていました。

「烏孫は大宛の東北2000里にある。匈奴と同じ遊牧民族。兵士が数万人いて勇敢。かつては匈奴に服属していたが、今は自ら盛んになって支配から脱した」。

烏孫は天山山脈の北麓にあり、トルコ系の民族だと考えらえています。張騫は最初の最初の西域行で、烏孫を通って大宛に行ったようです。後に張騫は再び烏孫に行き、彼らに漢の河西地域への移住を勧めます。この話は実現しませんでしたが、これ以後漢の西域交易はより盛んになり、烏孫には漢の皇女が降嫁され、関係は密接になりました。

康居

タシケント
タシケント。

「康居は大宛の西北2000里にある。遊牧民族で月氏と風俗は似ている。兵士が8~9万いる。小さな国で、南側は月氏に服属、東側は匈奴に服属している」。

康居は漢代にシル川の下流からキルギス地方あたりにいたトルコ系民族で、中心は今のウズベキスタンの首都タシケントだと考えられています。東西交易の十字路で繁栄していました。

大月氏国

ソグディアナの遺跡
ソグディアナの遺跡。

「大月氏国(ソグディアナ)は大宛(フェルガーナ)の西2000~3000里にあり、南は大夏(バクトリア)、西は安息(アルサケス朝パルティア)、北は康居。遊牧民族国家で、風俗は匈奴と同じ。兵士は10~20万人。昔は強くて匈奴を見下していたが、冒頓単于に敗北した。冒頓の子・老上単于は月氏王の命を奪い、その頭蓋骨で酒器を作った。

月氏は初め敦煌と祁連山の間にいたが、匈奴に敗北すると大宛の西に向かい、大夏を服属させて大月氏国を建てた。月氏の一部は南山山脈の羌族を支配して小月氏と名のっている」。

安息

パルティアの遺跡
パルティアの遺跡。

「安息(アルサケス朝パルティア)は大月氏の西数千里にある。稲や麦を育て、葡萄酒がある。バザールがあり、国民は商売をやり、車や船で数千里も離れた外国にも行く。銀で貨幣を作り、皮に書を横書きする。

安息の西は条枝で、北には奄蔡、黎軒(アレキサンドリア)がある」。

パルティアとは、カスピ海東南の山岳地方の地名で、ここにイラン系のパルタヴァ族が住んでいたので、こう呼ばれたといわれています。

パルティアは長期にわたってイランやメソポタミア地方を支配し、中継貿易で栄えました。

条枝

シリアの遺跡
シリアの遺跡。

「条枝(シリア)は安息の西数千里にある。稲作をしている。大鳥がいて、卵は甕のようである。この国の人は眩術をよくやる」。

条枝は、シリアからレバノンにかけてあった国だと考えられています。大鳥とはダチョウのことで、眩術とは刀を飲みこんだり、火を吐いたりする奇術のことです。

安息王は武帝に、大鳥の卵や黎軒(アレキサンドリア)の眩術をやる芸人を献じ喜ばせたといわれています。

眩術はエジプトに起源があり、シリアやアレキサンドリアの芸能として有名で、眩術師は中国やローマに巡業に出かけていきました。武帝は外国からの使者を、珍しい動物や眩術師の芸を見せてもてなしたと伝わっています。

大夏

バクトリアの遺跡
バクトリアの遺跡。

「大夏(バクトリア)は大宛の西南2000里あまり、習俗は大宛と同じ。人口100余万人で、兵士は弱く戦争を怖れている。国民は商売をよくし、バザールがある。東南に身毒国(インド)がある」。

『漢書』西域伝が伝えるシルクロードのオアシス国家

漢書』西域伝には53のオアシス国家名とその人口などが記されています。それによるとそれぞれの国の人口は数百人から数万人で、いわばオアシスを中心とした都市国家ともいうべき小さな国々でした。

『漢書』西域伝に紹介されたオアシス国家のうちいくつかについての『漢書』の記述を説明を添えて下に紹介します。

楼蘭

かつて楼蘭が存在した付近の砂漠
かつて楼蘭が存在した付近の砂漠。

楼蘭(クロライナ)は人口1万4100人。兵員2912人。土地は砂漠や塩湖が多く田が少ない。穀物は近くの国から輸入している。牧畜を行い、水草を求めて暮らし、ラクダが多い」。

楼蘭は新疆ウイグル自治区チャルクリクにあった国で、3世紀から5世紀にかけて繁栄しました。楼蘭は古代都市の名であると同時に国名でもありました。BC.108に匈奴を敗走させた漢軍の攻撃によって楼蘭も制圧され、国名を中国風に鄯善と変えて都も移しました。

1900年スウェーデンの探検家スヴェン・ヘディンによって楼蘭遺跡が発見され、1901年イギリスの探検家オーレル・スタインもここを訪れて詳しく調査しています。

楼蘭はロプノールという塩湖のほとりにあり、この湖がヘディンによって「さまよえる湖」と名付けられ人々のロマンをかきたてました。

ロプノール一帯は標高差が小さいため、この湖に注ぐタリム川は河床に土砂がたまるなどするとしばしば流れを変えます。

ヘディンが初めて楼蘭を訪れた時には楼蘭遺跡のそばに乾いた河床がありましたが、それから数十年後に再訪すると、今度はそこは水を満々とたたえる湖に戻っていました。

こうしたことからヘディンはロプノールを「さまよえる湖」と名付けたのですが、現在ロプノールは完全に干上がっていることが衛星写真から確認できます。

NHKのドキュメンタリー番組『シルクロード』の第5回は楼蘭特集ですが、この中で中国側の考古学者が楼蘭遺跡の王族の墓地と思われるところから女性のミイラを発掘している場面が映されています。

このミイラこそ後に「楼蘭の美女」と呼ばれるようになったミイラで、4000年近い昔に生き40歳くらいで亡くなったと考えられています。

アーリア人種系の顔立ちで黒く泥人形のようですが、整ったシルエットをしていて生きていた時はさぞ美しかったろうと思わせます。

また船型の小さな棺に入った乳児のミイラも発掘され、そばには丁寧に編まれた、中にあの世のミルク代わりでしょうか、穀物が入った小袋があり、親の嘆きや夭折した子への深い愛情が今も感じられます。

亀茲

亀茲の遺跡
亀茲の遺跡。

「亀茲は人口81317人。兵員21076人。鍛冶が得意で鉛を産出する」。

亀茲(クチャ)は現・新疆ウイグル自治区クチャ県付近にあった都市国家です。

オアシス国家群の中ではかなり大きな国です。クチャはタクラマカン砂漠の北を通る西域北道(天山南道)のオアシスとして繁栄していました。

クチャ国で最も有名な人物に鳩摩羅什(344~413)がいます。サンスクリット語の仏典を初めて漢語に翻訳しました。鳩摩羅什の訳になる『法華経』は読みやすく、現在でもそのまま使われています。

日本のお寺で法事をやると、お寺によってはお坊さんから小さな経本を手渡され、読経とともに「妙法蓮華経」というお経を読まされたりしますが、あの全部漢字のお経こそシルクロードのクチャ国で生まれ育った鳩摩羅什が千数百年前に漢訳したものです。

『漢書』西域伝には、以上2つの国以外にもシルクロードのルートに沿って全部で53のオアシス国家についての記述がありますが、それらの国の人口と兵士の数を見ていると、人口の割りに兵士の数が多いことに気がつきます。

これらオアシス国家がそれぞれ防衛に精力を使わなければならない環境だったことを物語っています。

また『漢書』がこうした詳細な記録を残したということは、漢の西域への出先機関である西域都護が有事の際こうした兵力を動員したからだといわれています。

漢と西域オアシス国家との関わり

張騫の活躍によって始まった漢とオアシス国家との交易は盛んになりましたが、漢から西域に向かう使節の質が悪いこともあって、関係は良好ではありませんでした。

命がけの旅を交易による稼ぎを目当てに引き受ける漢の使者には、ならず者や元囚人などが多かったのです。

またこの時代、西域には匈奴が勢力を張っていました。

匈奴はオアシスの弱小国家から交易の利益を中間で搾取し、大きな利益をあげていました。

そこに漢という強大な勢力が現れ、オアシス国家は漢が強ければ漢につき、匈奴が強ければ匈奴につき振り子のように揺れていました。

匈奴としてはこうした国々が漢の勢力下に入れば、これまでのばく大な利益を失うこととなり、黙って見ているわけにはいきません。

こうして武帝の時代、漢と匈奴は何度も戦い、やがて匈奴の勢力は度重なる内紛もあって次第に西域から退いていきました。

第10代皇帝の宣帝の時代になると、漢は西域への支配を強化するため西域都護府という役所を設置するようになりました。

漢はここに軍隊を派遣して西域国家から食糧を調達し、また屯田兵を置いて土地を開拓させるとともに、長安からの道を防衛させました。

シルクロードの交易品

漢とオアシス国家との交易の品々としては、漢側が金塊や絹織物、西域側は葡萄酒、馬、玉、真珠、ガラス、染料、ブドウやクローバーの種など多岐にわたりました。

西域の珍品は漢の人々の憧れをかきたて、朝廷のみならず、貴族の館も西域趣味の品々で豪華に飾られました。

派手好きな武帝は西域から送られた奇術師の芸で外国の使者をもてなし、漢の威勢が遠く西域の果てまで及ぶことを知らしめました。

中国語の中に残っている、胡服・胡飯・胡麻・胡桃・胡箜篌・胡笛・胡舞など、胡がつくものはすべて西域からやってきたものです。「胡」はもともと「野蛮人」という見下した意味を持っています。

一方当時の西の果て、ローマ帝国では女性たちが東の果てから伝わった絹の服で綺羅を競い合いました。

見渡す限りの砂漠…人は時に人間や動物の白骨を目印に歩いたともいわれます。

この恐ろしい砂漠で隔てられた東と西の文化は、点々と砂漠に広がるオアシスの商人たちの熱意と、武帝の覇気、張騫の知恵と勇気、漢の命知らずの荒くれ者などのおかげで、互いに交流することができました。

オアシスの人々の商売好きには『唐会要』という書物にこんな話も残っています。

「サマルカンドの人は子供が生まれると蜜を口の中に入れ、膠(にかわ…ゼラチンを原料とする接着剤)を手の中に置く。この子供が大きくなった時口は甘い言葉を、手は金が張り付くようにという願いからだ。みな商売に巧みで、男子は20歳になれば他国に送り中国にもやってくる。彼らは商売が好きで、利益さえあればどこにでも行った」とあります。

前漢以降の中国と西域の関わり

前漢(B.C.206~8)時代の西域は匈奴が強く、そこに漢が入り込んでやがて地歩を固め、西域を漢が完全に支配するようになりました。

後漢(25~220)時代になると、班超らによって一時漢が西域に勢力を持ちますが、やがて西域経営にはあまり積極的ではなくなります。

ただしオアシスの商人たちによる東西交易は依然として盛んで、西域の文化は中国大陸の人々を魅了し続けたようです。

唐末以降砂に埋もれたシルクロード

後漢以降も中国大陸の政府と西域国家は関係が細々と続き、やがて隋や唐になると西域経営は最も盛んになり、唐の都長安ではイラン文化が隆盛を誇りました。

唐末になると、唐朝の西域への支配力が弱まっていったことに加えて、造船技術や航海術が進歩したことで、中国から西に向かうルートは厳しい中央アジアのシルクロードではなく、海上交通に変わっていきました。

やがて中央アジアのオアシス諸国も砂に埋もれ、その歴史も文化も存在もそして東西を結んだシルクロードさえ忘れられていきました。

シルクロードが再発見されるのは20世紀初め、ヨーロッパの探検家たちがこの地を訪れるようになってからのことです。