斉の国の歴史~古代中国で800年以上続いた国家~【歴史地図】
斉(せい)は古代中国・春秋戦国時代の有力国家の一つで、周代の文王や武王の軍事・経済顧問であった太公望・呂尚が封じられてできた国です。春秋時代には桓公が管仲や鮑叔を補佐役として国を豊かにし、桓公は春秋の五覇と呼ばれました。その後斉は家臣の田氏に乗っ取られ、田斉となりました。
※上の画像は斉の首都・臨淄の郊外(現在の山東省淄博市)。
斉(春秋)とは
斉という名前は中国の王朝名として何度も出てきますが、ここでの斉(BC.1046~BC.221)は春秋戦国時代の斉です。斉は周代の諸侯国として、周の文王に引き立てられた太公望・呂尚によって中国東部に建てられた古い国です。15代桓公の時代に名補佐役・管仲や鮑叔を得て国を発展させ、桓公は「春秋の五覇」の一人に名乗り上げました。その後斉は田氏に権力を簒奪され、田斉と呼ばれるようになります。この時代の斉も有力国で、軍師・孫臏や宰相・孟嘗君などが国力増大に貢献しました。斉は傲慢な湣王の時代に燕に侵攻し、楽毅を擁した燕軍に滅亡寸前まで追い詰められます。楽毅が失脚すると斉軍は再び盛り返しますが、往時の繁栄は取り戻せず、やがて秦によって滅ぼされました。
太公望が作った国
今の山東省あたりにあった「斉」(BC.1046~BC.221)は周代に、日本では釣り愛好家を意味する「太公望」が建てた国です。
この太公望の話にちょっと触れますと、周の文王の時代にさかのぼります。
ある日文王が狩りに出かけようと吉凶を占うと「今日の獲物は竜でも虎でもない、天下取りの助けになる人物である」という卦が出ました。出かけると河のほとりで釣り糸を垂れている老人がいます。話してみるとなかなかの人物です。そこで文王は彼を車に乗せ連れて帰るのですが、名前も素性もわかりません。そこで周りのものに不審を抱かせないように「このお方こそ太公(父君)が我が周を栄えさせてくれるとして待ち望んでいた人物だ」と説明しました。このことからこの老人は「太公望」と呼ばれるようになりました。太公望の本名は呂尚といい、軍事にも経済にもすぐれた才能を発揮し、やがて周の文王や武王の師となりました。
のちに太公望・呂尚は斉の営丘(えいきゅう)に封じられ、ここで政治体制を整え、この地の習慣に従って君臣の礼を簡単なものにし商工業の便を図ったので、斉に帰順する民が多くやがて斉は大国になっていきました。
春秋の五覇・桓公の時代
斉は第15代の桓公(かんこう)の時代に、管仲(かんちゅう…?~BC.645)や鮑叔(ほうしゅく…生没年不詳)を補佐役として斉の内政を整え、兵制を定め、物価の調節や製塩の利などによって国を豊かにしました。
桓公の7年には諸侯と会同をして桓公は覇者として認められ、春秋の五覇に数えられるようになりました。
田斉時代
斉は春秋の覇者となった桓王が亡くなると勢いを失い、晋や楚の後塵を拝するようになります。やがて24代の荘公が宰相に命を奪われ、貴族たちによる勢力争いが始まって最後は田氏が勝利を得、自ら斉公の地位につきました。こうして太公望以来の斉の血筋は絶え、以後田氏が斉の君主となり、斉は田斉とも呼ばれるようになりました。
斉の都・臨淄
斉の都・臨淄(りんし)は戦国時代の大都会で人口60~70万人ほど。
とても豊かな都市で、道路では馬車がぶつかり歩行者の肩が触れ合うほどの混み具合でした。
町では音楽の音色が響き、闘鶏やドッグレース、すごろく、蹴鞠(けまり)などの娯楽にも事欠きませんでした。
この都市には城門が7つあり、そのうちの1つ・西門の近くには大邸宅が建ち並び、全国から招へいされた学者たちが住んでいました。
彼らは斉国から生活を保証され、研究や討論に勤しんでいました。こうした人々はこの都市に数百人以上おり、斉はこうして人材を養って富国強兵の道を探らせていたのです。
戦国時代とは食うか食われるか、国家間の弱肉競争の時代であり、だからこそ人材開発の時代でもありました。
田斉時代の最盛期
さて下克上によってできた田斉の時代は第4代の威王の時が最盛期で、兵法で有名な孫臏(そんぴん)もこの時代の斉に軍師として登用されています。
威王のあとの宣王の時代も戦国四君の一人・孟嘗君(もうしょうくん)を宰相に迎え斉の国力は一層増しました。
こうして東方に位置する斉は西の秦と並んで戦国の二大強国となっていったのですが、その後を継いだ湣(びん)王は、大国となった斉を鼻にかけて傲慢で横暴、諸国から嫌われていました。
滅亡へ
戦国四君の一人・孟嘗君は斉の宣王のもとで国力を充実させることに力を尽くしますが、そのあとを継いだ湣王はこの優れた政治家を煙たがり、命の危険を感じた孟嘗君は魏に亡命し、そこの宰相となりました。
当時燕の昭王は侵攻してきた斉を恨み、なんとか斉を討ちたいと思っていました。けれども燕は弱小国、斉は秦と並ぶ強大な国でこれを燕一国で討つのは容易なことではありません。
そこで燕にやってきて家臣になった楽毅に相談すると、楽毅は対斉の合従策を勧めます。昭王はこれにうなずき、楽毅をまずは趙に行かせ、そのあと楚や魏にやってこれら諸国と連合、こうして燕・趙・楚・魏の対斉連合軍ができました。
燕の昭王は楽毅を上将軍に命じ、趙の恵文王は楽毅に印綬を渡し、BC.284楽毅率いる燕・趙・楚・韓・魏の連合軍は斉に進軍し、斉の済西(せいせい)で斉軍を打ち破りました。
楽毅は敗走する斉軍をなおも追い、斉の都・臨淄に迫りました。湣王は都から逃げ出して莒(きょ)に立てこもり、楽毅は都の財宝をすべて奪うとこれを燕に送りました。さらに斉の70余城を落とし燕に帰属させました。
湣王は楚軍の手にかかって命を落とし、莒では湣王の子が即位、即墨では斉の家臣・田単が籠城して最後の抵抗を続けていました。やがてこの田単が活躍、楽毅が奪った城をすべて奪還するのですが、斉はこの大惨敗にかつての大国の地位を取り戻すことはもはやありませんでした。
やがて斉はBC.221秦の将軍・王賁(おうほん…王翦将軍の息子)によって滅ぼされました。
始皇帝が亡くなると、ごたごたの中、斉は再び再建されるのですがそれも一時のことで、やがて劉邦の家臣・韓信によって滅ぼされ、以後二度と再建されることはありませんでした。